12:漂うものたち

 夜の通路をちょこまかと動きまわるネズミが担いでいる小さな灯りは、一見光るホウズキのようである。時々、くすくす笑い声をあげて何だか楽しそうだ。

 そのネズミが、店主と名乗った男性の足を通り過ぎた。幽霊。やっぱり体が無いのか。


 私は小さく咳ばらいをしてから、口を開いた。

「古本屋の店主? 幽霊なのに店があるんですか?」

「この迷宮じゃあ、何もかもさほど違いは無いのさ。一番異質なのはあんただが心配するな、危険は無いよ」

 妙にこのダンジョンに詳しそうだ。異質……危険は無い……。


「えっと。その。父をご存知なんですか?」

 店主はまたにやりと笑った。しかし不快感は無い。

「あんた、間宮に似ているな。菜月って名前だったか? 親父さんは良く知ってるよ、最近見かけないが」

「はい菜月です……父は少し前に亡くなりました。持病が悪化して」

 店主は一瞬黙って私の顔を見た。

「……そうか。こればっかりは本人の寿命だからな。まあ間宮のことだ、早く嫁さんに会いに行きたかったんだろう。娘のあんたはしっかり者みたいだから、後の心配も少なかっただろうさ。ところで」

 さらりと話題を変えた。


「ここじゃあ、立ち話しか出来ないからな。あんたさえ良ければ、いつでもいいから俺の店にも顔を出してくれよ。そこなら落ち着いて色々話ができる。店は12階だがえらく遠くて面倒だから、まず4階の店の方に来てくれ。俺を呼び出すのは簡単だ」

 12階と4階の店? 古本屋の店主? まさかそれって。

「あなた、もしかして、幻影古書店のうろこさんですか?」

「そうだよ。親父さんに聞いてたか? 鱗さん呼びはくすぐったいから店主と呼んでくれ」

「いえ聞いてはないですけど、父の記録にありましたよ。12階にある物凄く広い古本屋の店主は鱗さんで珍しい名字でいい人だって。あと、ダンジョン4階の古本屋に美男子の不思議な店番がいるとか」


 鱗氏はからからと笑った。幽霊なのに湿ったところがない。でも幽霊とは父のメモに書いてなかったな。別に気にしていなかったのかもしれない。

「いい人とは、光栄だねえ。4階のあいつは確かに美男子だが、会ったら驚くぞ。眼福なのは請け合うがね。まあそこはお楽しみだ。じゃあな、ウサギに見つかったら面倒だから戻るよ。あいつら口うるさいんでな」


 背中を向けようとする鱗氏を急いで引き留めた。

「あの、今聞きたい事があるんですけど、いいですか?」

「ん? 何だい」

「さっき店主さんは、私がこのダンジョンで一番異質だけど危険は無いって言いましたよね。でもダンジョンがにぎやかになって私が来たのがわかったとか……その、私の記憶が薄れるとか消えるとか、そういう事は無いですよね?」

「記憶が? なんでそんな心配をするんだ」

「いえあの、今朝ダンジョンに入ってからどんどん、それまでの昔の事や父親の記録なんかを全然思い浮かべなくなって、その。今は普通に出てきますけど、またそうなったら嫌だなと。私がここでは排除されるような存在だったら」


 突然、普通に会話が出来て父親の事も知っている人物に、私はここでは異質だと言われて妙な不安が押し寄せてきたのだ。でもどうにも、自分の気持ちを上手く言えない。口ごもってしまった私を鱗氏はじっと見た。

「なるほど。俺の言い方が悪かったな。すまなかった」

 半透明で青く光る鱗氏は少しだけ私に近づいてきた。幽霊なのに、穏やかな表情だ。


「この迷宮はな…隅から隅まで思念に満ちているんだよ。でっかい魚がそこを泳いでいただろう? 俺やウサギ、本棚の裏の連中、今走り回っているネズミ、みんなあの魚みたいに思念の中を漂っているような存在だ。もちろん実体はあるが。だがあんたは違う。あんたは漂うような存在じゃない。しっかり歩く生きている人間だ。異質ってのはそういう意味だ。そしてあんたが来た事で、思念が揺れて迷宮も一時的だが、少し違う雰囲気になる。それだけだし危険が無いってのも本当だ」

「そう。ですか。安心しました」

「色々と忘れた感じになるのも、あんたの精神が無意識にこの迷宮の思念に適応しようとしているだけだろう。楽しい事でも考えながら眠って、楽しい夢でも見ればじきに落ち着くさ」

「ありがとうございます、そうします。確かにここに入ってずっと一人で歩き続けでしたから……あの、必ず店主さんに会いに行きますから、色々詳しい話を聞かせてください」

「ああもちろんだ。幾らでも話してやるよ。だがな、忘れるな。この世界で人間の記憶ほど強くて頑丈なものはないんだ」

 鱗氏は手をひらひらさせた。

「長話をして悪かったな。そこで飯を食うんだろう? じゃあな、おやすみ」

 青く光る鱗氏は、私の返事を待たずに背中を向けると、足音をたてずに通路の向こうの暗闇に去っていった。


 私は見送ってから、ほっと安堵の息をついた。何だかものすごく安心した気分だ。本当にいい人だ、鱗氏。

 安心した途端、身体が冷えて空腹になっているのに気づいた。よしさっさと食事をして宿に帰ろう。

 歩き出そうとすると、足元で街灯ネズミがこちらを見上げているのに気づいた。

「ねえねえ、どこに行くの? ごはん?」

 うわあ、可愛らしい声に喋り方!灯りをかかえた姿が本当に愛らしくてふにゃりと笑顔になってしまう。ネズミが喋るのにはもう驚かない。

「うん、そこの食事処に行くつもりだけど」

「じゃあ案内するからついてきてねえ。尻尾を踏まないようにしてね」


 その後、足元に注意しつつ【お食事処 ごはんと天ぷら】という立て看板の店に入った。

 店内は狭いけど結構明るくて、白木のカウンターのみ。まるで小料理屋だ。こちらは茶色のエプロンを身に着けた、やはり無口な白いウサギが料理人として立っていて、献立はご飯と天ぷらのみ。

 でも茶碗に山盛りの炊き立てご飯と、目の前で揚げた野菜の天ぷらを皿一杯とは上出来である。ウサギもちゃんと調理が出来るんだな……と感心する。

 塩が振りかけてあるのがいささか妙だけども、熱々サクサクで美味だった。何の野菜かはなるべく考えないようにする。ただ、なぜか天ぷらと並んで大好物のフライドポテトがあって、これだけをお代わりをしてしまった。私はジャガイモ料理が好きなのだ。

 やっぱり味噌汁や漬物はないので、頼んでお白湯を貰う。夜なのでお茶はやめておいた。どうもダンジョン内の飲み物はどれも濃い。味も塩味が少々きつめだし、鱗氏の話していた思念とやらのせいだろうか。


 お腹がいっぱいになり、ウサギにご馳走様を言ってレプリカ金貨1枚を払い大満足で店を出た。

 また愛らしい街灯ネズミに宿まで案内してもらい、無事に帰還。

 女将に挨拶をしてから部屋に戻り、洗面所でもう一度顔を洗ってから服を脱いで、ふかふかで気持ちのいい布団に潜り込んだ。

 ああ、ようやく体が楽になった。私はのびのび体を伸ばした。明日こそは温泉に入りたいなと思い、友人たちと旅行した、山奥の温泉宿と露天風呂の事を思い出しているうちに眠ってしまった。


 特に夢は見なかった。

 それでも、女将が部屋の扉をノックするまで熟睡していたので、寝起きの気分は良かった。

 身支度を済ませ、女将が持ってきてくれた塩おにぎり2個と、大きな湯呑に注がれた濃いお茶で朝食を済ませる。確かに、ダンジョン内では食事の心配は無さそうだ。

 ナップザックの中身を整理し、『お魚たちの朗読会』の資料をジャケットのポケットに入れた。今日は3階でウサギのエリアに赴く予定だ。色々尋ねないとだし父親のメモには無かったけど、気になる事もあるのだ。まああんまり喧嘩はしないようにしないとな、うん。

 鱗氏にも、今度会ったら久満老人の本の件を相談してみよう。何やら知り合いのようだったし。

 父親が相談したかどうかは分からないけど、本を見つけられなくても何かいい案を出してくれるかもしれない。


 やがてナップザックを持って部屋を出て、笑顔の女将に料金のレプリカ金貨3枚を払い、本棚の隙間から通路に出た。さて、右と左、どっちへ進もうかな。まずは迷宮案内処を探して……3階への階段がすぐに見つかるといいな……。


 次の瞬間、私は緑色のエプロンを身に着けたウサギの集団に囲まれていた。はあ?

 ウサギが一人、ずいっと私に詰め寄った。

「血縁者。幾ら待っても我々のエリアに出頭しないので捕まえに来た。これより連行する。抵抗は無駄だ。大人しくしろ」

 口がきけない私は、両腕をがっしりとウサギたちに捕まれた。まるで犯罪者扱いだ。私は脳内で絶叫した。


 やっぱり司書ウサギは敵だー!!!

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