09:最初の本は何ですか?

 ダンジョンに入った私は、素早くずっしり重いジャケットを脱いだ。


 たくさんついているポケットには、あれこれと小物を詰め込んであるので膨らんでいる。その下、身体に紐でがっちり巻き付けた布製の大きなナップザックを外す。あーちょっと苦しかった。

 実は一昨日おととい、この装備でダンジョン内に入れるかどうか実験済だ。本当にややこしいダンジョンである。

 細かい整理は後でする事にして、広げたナップザックにジャケットのあれこれをとりあえず放り込んでポケットを軽くしてから、重ね着していた服を脱いで放り込み、扉にぶら下がっているレプリカ金貨の入った布袋を取り上げるとナップザックに詰め込んだ。ほぼ着の身着のままで身軽にダンジョンを歩き回っていた父親が唯一保管していたレプリカ金貨、有難く使わせていただこう。おもちゃとはいえ金は大事だ。


 司書ウサギは本は並べ替えても、この布袋の存在は無視しているようだ。

 カバン類は持ち込めないのに、父親はこの布袋をどうやってダンジョンに入れたのかと不思議に思っていたけど、メモに「腹巻のようにして持ち込んだ。布製品には割と判断が甘いようだ」と書いてあるのを読んで、今回の装備の参考にした。しかし、くどいようだけどもややこしいダンジョンだ。


 さて準備は整った。通販で購入したナップザックは、最新の高性能繊維で出来た最新の物で頑丈で超軽量……担ぐとやっぱりレプリカ金貨の分は重いけど。仕方ない休み休み進もう。

 私はしばらくその場に立ったまま、忘れた事は無いか考えた。

 新谷川氏にはもうすぐ予約送信でメールが届く。「30日間ダンジョンを探索する」という計画を話したら、心配して反対されそうな気がしたので事後連絡にさせてもらった。うるさい久満老人には適当に伝えてくれるだろう。

 ダンジョンパークの駐車場に、安全ボックスに携帯端末などを入れた愛車を駐めてある。管理部には連絡済だから撤去の心配は無い。これでダンジョンから出た時に最低限自宅には帰れる。

 自宅もセキュリティをきちんと設定してきた。

 母親の写真にもしばらく留守にしますと報告してから家を出た。


 父親のガイドブックやメモの内容も、一応頑張って覚えた。

 けれど、これから先のダンジョン探索の細々した疑問の答えは自分で解決するしかない。

 ま、30日後に、出来れば久満老人の本を持ってこの扉まで戻ってくるのを目標にしよう。見つからなければまた探索すればいいさ。気楽に行こう、気楽に。


 私は自分に言い聞かせると、ナップザックを担ぎ直しダンジョンの奥に向かって歩き出した。

 ジャケットにズボンにスニーカー。ダンジョン探索というよりは、アウトドアの山登りみたいな装備である。まずは「迷宮案内処」を探さないと。


 ダンジョン内部は相変わらず薄暗く物音がせず、床から天井まで本が詰まった本棚が、通路の両側に延々と続いている。こんな所を一人で黙々と歩いていると、やはり少々気が滅入る。他のダンジョンでは、みんなパーティを組んでにぎやかに歩いていたなあ……せめて携帯端末を持ち込めれば音楽ぐらい聴きながら歩けるのに。

 そんな事を考え、足を止めて休み、何となく本棚を眺める。もう本棚は景色化していてほとんど区別はつかない。それに、日本語以外の本も多くて私の目には模様だ。誰でも入れるダンジョンになったら解説してもらおう。

 ふっと、割と近年に発行された「南極北極ダンジョン旅行記大全集」が並べられているのに気が付いた。ちょっと興味があったけど、また中身が真っ白かもしれない。尊大な司書ウサギを思い出して、手に取るのはやめておいた。そのうちに息抜きに読める本が見つかるだろう。


 今日は「迷宮案内処」が遠いな。とちょっと弱気になった時、どこからかかすかに能天気な音楽が聞こえてきて、すぐに消えた。以前も鐘の音が聞こえたな。司書ウサギたちへの何かの合図なのかもしれない。前回同様、水の流れるような音もどこからか聞こえた。

 やがて、ようやく前方に本棚の隙間から明かりが漏れているのが見えた。「迷宮案内処」だ!

 私は安堵して足を早めた。


 ビリケンそっくりの案内人は、前回に会った時と同一人物に見えた。ただ羽織っているはんてんが分厚くなっている。ダンジョン内にも季節があるのだろうか。どうやら私の事は覚えていないようなので、まあ別にいいやと何も言わずにおいた。


「はいはい、30日ほどダンジョンに籠られてずいずいと探索ですね。良いですねー頑張ってください。今日の階段はもう少し先ですからね。どんどん歩いてください。見落としは必ず無いですから。途中で2カ所の休憩処がありますから、無料サービスのお茶を飲んでぐったり休憩してください」

「お茶は飲んでも大丈夫なんですか? ダンジョン内を探索する人間は私だけでしょうに。古くなったりしていませんか」

「何を仰います、休憩処ですよ、きちんと準備してお客を迎えるんですよ、ぐびりぐびり飲んで大丈夫に決まってます」

「安心しました。ところで、あの、1階には食事の出来る所や泊まれる所は無いんですか?」

「1階には無いです。1階ですからね。2階から各階に到着したら案内処で案内をしてもらってください」

「階段が物凄く遠くて、途中で、えーと夜になったらどうするんですか?」

「大丈夫ですよ、真っ暗ですけど街灯はありますから」

「街灯? 天井には何もありませんけど」

「街灯は天井じゃあ無いです。大丈夫ですよ。それにそこまで階段が遠くなる事はありません。多分。1階ですからね。それに一本道で迷う事もありませんから」

「……わかりました」

 私の歩く速度が遅かったらどうなるんだろう? まあいいや、いよいよとなれば通路に寝転がって野宿してやる。あ、でも空腹は辛いな。やっぱり頑張って歩こう。


 通路といえば、と私は思い出した事を案内人に何気なく尋ねてみた。

「前に、1階の通路で急に風が吹いて海の匂いがした事があったんですけどね。ダンジョンのどこかが海と繋がったりしているんですか?」

 案内人がぴたりと動きを止め、表情から愛想笑いが消えた。しばらく私の顔を見てから小さな声で言った。

「……その話は、司書にしてくださいな。私にはわかりませんです」

 何だか口調まで違う。

「何か、嫌な事なんですか?」

「いやまあ、そういう訳じゃないんですけど、案内処にはぜーんぜん関係が無いですから」

 どうにも態度が妙だけども、これ以上追及しても仕方が無い。

 私は話を切り上げ、案内人に礼を言ってから小皿にレプリカ金貨を3枚入れた。案内人は機嫌が元通りになり愛想良く送り出してくれた。


 案内処を出て、またしばらく歩くと本棚の隙間から明かりが漏れている。覗いてみると、前回は入らなかった休憩処だった。本棚の隙間から中に入って椅子に座り息をつく。

 室内は少し薄暗いけど、ごく普通のソファーや小さな椅子が置いてあるだけの小部屋である。壁際のテーブル上に乗っている小型のポットから、小さなカップにお茶らしき物を注いで恐る恐る飲んでみたら、熱くて濃い麦茶のような味がした。麦茶かもしれないが普通に美味しい。良かった。


 見回すと、部屋の一番奥の壁に「といれ」と小さな案内板があり、その下にドアがある。トイレだ! と興味津々で入って使用して見たら、照明は無くてかなり薄暗いけど普通の水洗トイレだった。トイレットペーパーもちゃんと装備されているし、小さいけど洗面台からも水が出る。排水はしてるのだな。さらにどこを見ても清掃したてのように清潔だ。

 私は首をひねった。このダンジョン、入るためにあれだけ面倒で制約が多いのに、中に入ってしまえば設備が整っているようだ。この休憩処もトイレも人の気配は無いのに手入れがされている。

 本当に、何でこういうダンジョンなんだろう?

 誰が整えているんだろう? 本棚の裏側の住民だろうか?

 椅子に座ってスニーカーを脱いで足裏を揉みながら考えていると、ふと壁に貼られている張り紙に気が付いた。ちょっとカクカクした文字で何やら文章が書かれている。


 ――あなたが最初に読んだ本は何ですか? 思い出してみてください。


 最初かあ……私が最初に読んだ本は確か、ゾウの絵本だったなあ……私はどこかのページのゾウの顔が怖くてクレヨンか何かで塗りつぶして……。


 ぼんやりと思い出にふけっていた私は、はっと我に返った。

 あれ、何でこんな事を長い時間考えていたんだろう? やっぱり初めてのダンジョンで、緊張しつつ荷物を担いで歩き続けで疲れているのかな。

 とにかく早く2階に下りてしまおう。私はカップをテーブルの上に戻し、休憩処を出るとまた通路を歩き出した。


 通路を延々と歩き、途中でまた休憩処でしばらくお茶を飲んで休む。ここのお茶は、麦茶ではなく濃い緑茶という感じだった。小腹が空いてきたけど、我慢だ我慢。

 こっちの休憩処には、壁に貼られた張り紙は無かった。何だったんだろうな、あれ。


 時計が無いけど、体感的にそろそろ外では昼を過ぎた頃かな? と思っていたら、どこからか鐘の鳴る音が聞こえたので天井を見上げた次の瞬間、視界が石の壁で塞がれた。

 あやうく激突しそうになったけど何とか踏みとどまる。何これ、ついさっきまでこんな壁は無かったぞ! 通路が見えてたぞ! と抗議しそうになった私は、左手にある階段の真横に立っているのに気が付いた。案内人が「見落としは必ず無い」と言ってたのはこういう意味か。しかしどういう理屈か知らないが強引な。とはいえ、やれやれ、ようやく下に下りられる。


 私は、改めてナップザックをしっかり担ぎ直すと、慎重に階段を下り始めた。

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