祝杯
守宮 靄
酒と虫と支石墓と
ジェフじいさんが死んだ。
この世のなにより酒が好きだったジェフじいさん。毎晩酒瓶を抱いて眠るとの噂だった。酔っ払って家に辿り着かず、道の上で寝てしまったことも一度や二度ではない。あまりに酒に執着するため村の人々から適度に疎まれ、しかし心底憎まれることはなかったあの小男が、死んでしまった。
数人の村人がぱらぱらと彼の家を訪れ、彼の死を弔った。エイミはといえば、じいさんと特別親しかったわけでも疎遠だったわけでもなかったが、彼の家には行かなかった。本当は行きたいと思っていた。何もなければ行くはずだった。しかし、行くことは許されなかった。
エイミは、村でいちばん若くもなければ美しくもなかったのに、巫女に選ばれてしまったから。
* * *
街へ出かけたはずのオットーが慌てた様子で帰ってきたのが、そもそもの始まりだった。彼は錯乱にも近い状態で、店にいた自分の親父の腕を引っ掴み外へ連れ出そうとした。その間、どうして自分がそこまで慌てているのか、その理由を延々と喋っていたようなのだが、溢れ出る言葉はぶつ切りで意味の通る文章にはなっていなかった。そんな状態の息子に腕を掴まれた親父の方も混乱し、とりあえずわけのわかるように話せと今のオットーにとっては無理難題ともいえる要求を突きつけながら、腕を引く力に抵抗していた。徐々に大きくなる二人の騒ぎは家に引っ込んでいた近所の村人を誘い出し、わらわらと集まった村人の声はさらに遠くの住民も呼び寄せた。エイミもそれに混ざり、輪の外側に近いところから騒ぎを眺めていた。村人のほとんど全てが集まってしまったのを見て観念したのか、とうとうオットーの親父は息子に手を引かれるまま、外に出てきた。勢いづいたオットーはさらにわけのわからないことを大声で喋りながら、親父を引きずっていく。集まった村人たちも団子になってその後ろからついていった。
オットーが案内したのは村の東の口であった。村の中ではいちばん太い道があり、その脇には村の内と外を区別する申し訳程度の貧弱な柵が立っている。彼はそこで「見てろよ、見てろよ」と繰り返したあと、村の外に向かって一歩踏み出した。彼の右足が村の外の土に触れた瞬間。彼の姿は消えてしまった。
それまでぼうっと突っ立って見ていた村人たちは俄かに騒然とした。人一人が目の前で消えたのだ。「ありえない」と誰かが呟き、「現に目の前で消えただろうが」と誰かが怒鳴った。「オットーは奇術でも身につけたのか?」と街を訪れたらしい流れ芸人たちの噂を思い出しながら首を捻り、「オットーにそんなことできっこない」と妙に自信ありげな声がした。哀れなのはオットーの親父であった。自分が抵抗し続けていれば息子は消えずに済んだのだ。後悔に髭面を歪め、拳と巨体をぶるぶると震わせていた。各々が口々に思ったことを喋り、収拾がつかなくなったころ、背後から「おおい」という声が聞こえた。全員が一斉に振り返ってみると、そこには息を切らせて走ってくるオットーがいた。驚く村人たちの間抜け面を見て何かを察したらしい彼は「なんで誰も俺の話を聞いてなかったんだ」と少しばかり憤慨したが、すぐにいつもの調子を取り戻し、どこか誇らしげに言った。
「村の東の口から出れば、一瞬で西の口に移動するんだ」
村人たちはまた口々に喋りだした。勇敢な者が数名、疑い深い表情で村の外へ踏み出し、大地に足を下ろした順に視界から消えていった。臆病な者たちは「信じられない」という意味の呟きを各々の言葉で漏らしながら、ぞろぞろと西の口の方へ歩いていった。エイミも臆病な方であったから、その群れに巻かれて流された。
西の口では、一人の若者が現れたり消えたりしている最中だった。
「東から出れば西に出て、西から出れば東へ出るんだ」
ついたり消えたりしながら若者は言う。村人たちは惚けた顔でそれを見ていたが、誰かが呟いてしまった。
「もしかして私たちゃ、この村から出られんのじゃないのかい?」
オットーとその親父が真っ先に青くなり、全ての顔がそれに続いた。この小さな村で生み出せるのは生糸と絹とイトムシの餌葉とその実、猫の額のような菜園から採れるわずかな野菜、そして質の悪い酒だけ。オットーと親父はこの村で商いと呼べることをしている唯一の家であり、ほとんどの日用品は彼らが街から仕入れてくる品物に頼りっきりである。絹は自分たちが生み出せど自分たちが使うわけではなし、イトムシの餌葉は人の食事には向かず、実の方は不味くはないのだが量が多くない。街に出られないということは村人たちの質素だが困窮もしない最低限の生活を揺るがす一大事であった。
村人は散り散りになって村から出るための道を探した。といってもこの村で『道』と呼べそうなほど均されているのは東西に貫く通りだけだったから、村人たちは常緑樹の森に分け入り、茶色く枯れた草を踏みしだきながら村とその外の境をあちこち見て回ったことになる。エイミも南の森をさらに南へと進んでみた。結果としてその努力は徒労に終わった。南へ進んでいたはずなのに、村の北に立ち並ぶ複数の巨石が前方に現れ面食らったエイミと同じように、村人たちは自分たちの置かれた状況を悟った。どの場所から出ても、村の中心を挟んで反対側に即座に移動するだけで、村から出ることは叶わないのだ。
エイミはそのあたりで脚も頭も疲れてしまったので、さっさと家に帰った。腹も減っていなかったので、どうせ眠れないと知りながらもベッドに潜って目を閉じた。
他の村人たちはそう大人しくもしていられなかった。
「こんな馬鹿なことがあるか」
「でもどうにもできないじゃない」
「どうしようもないことで悩んでも仕方ない」
「酔ってなきゃやってられん」
「酒だ」
「明日になれば元に戻っているかもしらん」
「酒だ」
「宴だ」
「酒だ」
目の前にでんと横たわる得体の知れない不安から目を逸らすように喋り続け、騒いで酒を飲めばなんとかなってくれるかもしれないと不適切な結論を出し、彼らは集会所へ向かった。これが村人たちを襲う真の悲劇の幕開けだった。
集会所に備蓄してある『宴会およびいざというとき用』の酒や保存食の干し肉が振る舞われ、声だけは景気よく「乾杯!」と合唱する。しかしカップの酒を傾け、口に含んだ瞬間、彼らは言いようのない苦しみに襲われた。
舌にまといつく痺れと不快感。こみ上げる嘔気。しかし実際に胃から何かが逆流してくることはなく、吐いて楽になることのできない吐き気が皆をのたうち回らせた。舌に少しでも触れた酒は一滴も飲まれることのないまま吐き出され、カップからこぼれた酒と混ざって床を汚した。苦しみが去ったときには、床も壁も服も髪も何もかも酒と埃まみれだった。その場にいた全ての者が察し、しかし言わずにいたことを、誰かが言ってしまった。
「もしかして、酒だけじゃなくって食べ物も食えないんじゃないか?」
言い出しっぺが試すことになった。干し肉の一欠片を口元に運び、舌先に触れたように見えた瞬間、彼はもう干し肉を放り出し、永遠にも思える
村人たちは、飲むことも食べることも許されない身体になっていた。
* * *
エイミが集会所での出来事を知ったのは、翌朝になってからだった。その日の村人たちは用もないのに外に出て、あちこちで複数固まっては不安を吐露していた。エイミも井戸端に集まる女たちの輪に加わった。
「とんでもないことになった」
「夢見が悪くて仕方がない」
「食べるのも飲むのもできんなんて」
「そういや昨日から水を一滴も飲んでないよ」
「腹が減らないのがせめてもの救いだね」
「村からも出られないし」
「絹も糸も売りに行けないんだよ」
「このまま何も食べずに済むなら村に閉じこめられても飢えることはないのかね」
「服やら蝋燭やらは街から仕入れにゃならんだろうよ」
「やっぱり困るかね」
「嫌な夢だ」
「とんでもないことになった」
女たちはなんでもないことについて語るときのような口調で話したが、不安を覆い隠すことはできなかった。エイミは人の輪にこそ加わったが、仏頂面のまま黙ったきりで、話に混ざることはない。それがエイミと村人との距離感であり、その距離はひとえに彼女の性格によるものであった。話が堂々巡りになってきた頃合いをみて、エイミは家へと引き上げた。
貯蔵棚を漁ると、秋に採れたイトムシの餌葉の実と蜜とを煮て作ったジャムが出てきた。真っ赤で透き通った色は今でも美味しそうであったが、食欲は掻き立てられなかった。指先でほんの少し掬い取り、舐めてみる。その結果について、わざわざ述べる必要はない。
肩で息をするほど嘔吐き疲れた彼女は、その日やるつもりだった機織りがまだ終わっていないことを思い出した。……本当にやる必要があるのだろうか? 織りあがった絹を売りに行くための道がないのに。無理に金を稼がなくても、食べ物に困ることもないのに。結局彼女は暗くなる前に床に入り、蝋燭を節約することにした。
* * *
その次の日、家から出てくる村人は激減していた。事の重大さを知るのに丸一日かかった者、腹が減らず喉も乾かないために現実を見つめざるを得なくなった者。悪い夢の余韻を朝まで引き摺った者。生活のあまりの変わりように追いつけなかった者。各々が各々の理由で意気消沈し、気が鬱ぎ、家から出る気になったのはエイミのような変人と鬱々とした家の空気に一時的に耐えられなくなった者だけであった。
数少ない村人たちは井戸の周りに集まって鬱々と立ち話をしていた。話題は相変わらず『悪い夢』のことだ。眠れないエイミは話に混ざることができない。仮に夢をみていたとしても、話に混ざれないのは変わらないだろうが。
村人に特に打撃を与えたのは、やはり飲むことと食うことを封じられてしまったことだろう。あの嘔気に苦しんだ者たちは食に対する恐怖を抱き、見ていただけの者もまた飲むことを恐れた。しかし、こんな辺鄙な田舎では飲むことと食うこと以外に娯楽と呼べるものなどない。日々の営みの根幹だけでなくそこに添えられるささやかな華まで奪われてしまった彼らは、不安を怒りに昇華し、暴れるに足る気力までを削がれてしまった。
誰も何も飲もうとしなかったし、何を食おうともしなかった。何をしようともしなかった。
唯一の例外がジェフじいさんだった。
桁外れの酒好きである彼は、このような状況になっても酒を飲み続けた。一口舐めてはげえげえ吐いて苦しみ、地面をのたうち回りながら酒を飲んだ。散歩に出たエイミは、道を転げ回りながら酒瓶を傾けようとするじいさんの姿を見て唖然とした。何が彼をそこまで駆り立てるのだろうか。放っておくのも気が咎める気がしたので、形式だけでも心配しておこうと、「大丈夫ですか」と仏頂面のまま声をかけた。
「うるせえ! 止めるな、おれは飲むぞ!」
「飲むと苦しいですよ」
「苦しいからなんだ! 飲みたくて飲むんだ、飲まなきゃおれじゃねえんだよ!」
言葉だけ聞くと、酒浸りのどうしようもない屑そのものであるし、実際その通りであったのだが、このような状況のもとであると妙に勇ましく聞こえる。エイミは彼のその言葉にわけのわからぬまま心を揺さぶられ、以降は彼を止めなかった。仰向けに寝転がったまま飲もうとして鼻の頭から酒を浴びる小男を置いて、彼女は散歩を再開した。
ヤン夫妻の家の前を通りかかった。夫妻ともに縦にも横にも大きい人で、夫妻そろって料理することと食べることが大好きであった。「宴会はヤン夫妻の料理がなきゃ始まらない」とまで言う者もいたくらいだ。陽気でよく喋る二人の家が、今は静まり返っている。彼らが浸っているだろう悲しみをうまく想像できなかったので、そのまま通り過ぎることにした。
レーナとその母の家のそばを通った。レーナは一週間後には街へ嫁ぎ、母もそれについていくはずだった。『村でいちばん美しい娘は?』と尋ねられたら誰もがレーナの名を挙げただろうし、文の頭に『街の女も含めて』なんて言葉を付けたとしてもその評価は揺るがない、そのくらい美しく、可憐で、艶やかでもある娘だった。レーナ自身もその結婚を喜んでいたように思う。「こんなくそ田舎」と吐き捨てるように言うのを聞いたことがある。そんな彼女の家からは、すすり泣きのように聞こえる呪詛が漏れていたから、居心地が悪くなって早足に通り過ぎた。
マルガの家からは、トントンカラ、トントンカラ、という軽快な
その隣の家は、オットーと親父の店でもある。いつも開かれている戸は固く閉ざされていた。
その隣の家は……。
その隣の家は……。
その隣は……。
家の様子からその中にいる村人のことを思い浮かべて歩くと、気が滅入ることが分かった。エイミはそれ以降あまり考えずに歩き、村の東の口から足を踏み出して西の口へ渡り、西からまた東へ渡る無為な戯れを何度か繰り返してから、家に帰って床に就いた。
* * *
それから数日、あるいは数十日は変わり映えのない日々が過ぎていった。これまでと変わらず日は落ち月は昇っていくのだが、ずっと何も口にせず、決まった時間に起きて働くこともないとなると、人の生活リズムは狂ってしまうらしい。村人の鬱ぎようはじわじわと酷くなり、ジェフじいさんは酒瓶を抱いて不規則に眠り、エイミは昼夜問わず気が向いたときに散歩に出かけ、村の東と西を一瞬で往復して遊んだ。
もはや何の感動も引き起こさなくなったはずの人間の泣き声が妙に気にかかったのは、発生源がとても近く、その声の主と思われる人物に『泣き声』というものがあまりに似合わなかったからに他ならない。今まさに床に潜ろうとしていたエイミは少しばかり逡巡したあと、渋々服を着替え、向かいの家を訪ねた。
ドアの前に立つと、泣き声はいっそう大きく聞こえた。声に負けないよう、戸を殴りつけるように叩くが、誰も出てこない。思い切って戸を引くと、何の抵抗もなく開いたので、エイミはずかずかと中へ入っていった。
一階に人の姿はなかった。部屋の隅にある梯子と見紛うくらい急な階段を昇ると、声は耳が痛くなりそうなほど大きくなった。所狭しとイトムシ棚が並ぶ二階の一隅で、ヨーゼフが癇癪を起こした子どものように泣いていた。妻のヒルダが側に立ち、おろおろとしていたが、頭を出したエイミの姿を認めて駆け寄った。がっしりとした体格に似合わない童顔の八の字眉がいっそう下がっている。「どうしたんですか」と尋ねると、ヒルダは何を思ったか、オットーが血相を変えて親父を連れ出したあの日のことから詳細に話し始めた。そのことならエイミを含む村の皆も詳しく知っていたから、相槌を打つふりをして聞き流していた。その間、ヨーゼフは声を波のように強弱させながら、休まず泣き続けていた。ヒルダの長い話はようやく佳境に入る。
「ヨーゼフがイトムシを全部叩き潰してしまったの」
エイミはその言葉を聞き、常に
イトムシは、秋の終わりに仲間と身を寄せ合い、極薄の繭に包まれて幼虫のまま冬を越す。この時期のイトムシは春を望んで眠っている最中だった。
「どうせ売れやしないんだ! 売る必要もない!」
エイミが何か言う前にヨーゼフは高い声で叫んだ。
「だからって、春も待たずに、全部潰していいわけないでしょう!」
彼女も負けじと大きな声を出す。春になり目覚めたイトムシたちは、今度は分厚く大きな繭をつくり、中で蛹になる。その大半は羽化を待たずに釜茹でにされてしまうのだが、そうだとしても、こんなふうにぐちゃぐちゃにして殺していいとは思えなかった。
「もう春なんか来ないんだ!」
予想とは違う角度から飛んできたヨーゼフの悲鳴に、エイミは気圧されて黙りこくってしまった。
そうなのだ。去年の今頃、この村は雪で覆われていた。その前の年も、その前も、その前も。しかし今年は、晩秋の残り香漂う空気のまま、季節が流れていかない。全てはあの日からだった。この村の全てが変わってしまった日。
ヨーゼフは、子どもを通り越してまるで赤子のように泣き続けた。顔をくしゃくしゃにしているのに、涙は出ていなかった。エイミはもう言うべきことが見つからなかったので、いつの間にか同じように顔をくしゃくしゃにしていたヒルダを置いて、彼らのもとを去った。
家に帰りついて少し経つと、泣き声は止んだ。赤子のように眠ってしまったのかもしれなかった。
寝間着に着替え、布団の中に潜る。眠れないのは分かっていたが、散歩に行くような気分ではなかった。ヨーゼフとヒルダと、イトムシのことを考える。この村に建つ家の多くは、二階にイトムシのための部屋を持っている。エイミのようにイトムシ部屋を持ってない家の者は近くの家のイトムシの世話や製糸を手伝い、対価として加工を終えた糸、場合によっては少しの給金を貰っていた。そしてどこの家にもある織機で布を織り上げ、オットーの店を仲介して街へ売り出す。それがこの村での生活だった。エイミはヨーゼフとヒルダのもとで働いていた。二人ともよく働き、気質も穏やかで、いつも仏頂面のエイミに対しても何かと良くしてくれたものだ。それが今は……。
潰されたイトムシたちの姿が瞼の裏から離れない。彼らは――人間に飼い殺されるだけの彼らは、あんなふうにして死ぬ前、薄衣のような繭の中でどんな夢を見ていたのだろう。
* * *
いつものように誰もいない道をぶらぶらと無目的に歩いていると、目の前の扉が勢いよく開き、危うくぶつかりそうになった。扉を跳ね飛ばさん勢いで出てきたのは、レーナの母親だった。昔はとても美しかったのだろうその顔の大きな瞳はめいいっぱい開かれている。彼女はエイミに逃げる隙も与えずその腕を掴むと囁いた。
「レーナが大変なの」
細い腕に似合わぬ強い力でエイミを家に上げレーナのベッドの側まで引きずり、レーナの姿を見るように促した。彼女は黒々とした髪を放射状に広げて仰向けになり、童話の眠り姫のごとく安らかに眠っているように見えた。しかし。その首には細身の包丁が突き立っていた。血らしきものは一滴も溢れておらず、喉から刃が生えてきたようにも見える。気がつけばレーナの母はいなくなっていた。他の村人を捕まえに行ったのかもしれない。こんなものを見せられてもエイミにはどうしようもできない。困りきって整った顔を眺めていると、その長い睫毛が揺れ動き、ぱちりと目を開けた。
「ああ、エイミね」
レーナは喋った。一言言うたびに喉の穴から空気が漏れる音がした。
「あんた、生きてたの」
「生きてるみたいねえ、ほんとおかしい」
そう言ってくすくす笑う。笑い声に合わせて包丁の柄がぶるぶると振動した。
「ねえエイミ、死ねないみたいよ。たぶん、私たちみんな」
レーナはまだ笑っていた。俄かに外が騒がしくなった。レーナの母親はかなり多くの村人を引き連れて来たらしい。エイミは部屋の隅で縮こまり、どやどやと入ってくる村人たちとちょうど入れ違いになるように、こっそりと退出した。
エイミには、横たわるレーナと平たく潰れたイトムシの姿が重なって見えた。レーナの言う『みんな』にイトムシは含まれているのだろうか。ぐちゃぐちゃに潰されたイトムシたちは、あんな姿になっても生きていたのだろうか。
その日の午後は、珍しく村人たちが外へと出てきてぼそぼそと話していた。話題はもちろんレーナのことだった。村人たちは大いに困惑していたが、その混乱はいつかのように喧騒を巻き起こさず、彼らの思考を内へ内へと潜らせるだけだった。『死なない』ということがどういうことか分からなくなった村人たちは、晩には再び家に引きこもってしまった。
エイミはというと、いつもどおり散歩に出かけた。ジェフじいさんは相変わらず彼の家の軒先に座りこみ、酒瓶を傾けていた。飲食に恐怖を抱くようになった村人たちは、ジェフじいさんが酒の無心に訪れると、これ幸いと酒を分けてくれるらしい。嘔吐きながらげらげら笑って教えてくれた。じいさんとは散歩三回のうち一回くらいの頻度で遭遇していたが、普段は苦しみのあまり面罵されるか、口も聞けないくらいに悶え苦しんでいるかのどちらかだったので、意味の通る言葉を聞けたのは久しぶりだった。じいさんが喋ろうと喋れなかろうと変わらず路上で酒を飲み続けてくれる限り、エイミの胸に何か慰めのようなものを与えてくれるのだった。
* * *
いつものように誰もいない道をぶらぶらと無目的に歩いていると、目の前の扉が勢いよく開き、危うくぶつかりそうになった。扉を跳ね飛ばさん勢いで出てきたのは、レーナの母親だった。昔はとても美しかったのだろうその顔の大きな瞳はめいいっぱい開かれている。彼女はエイミに逃げる隙も与えずその腕を掴むと囁いた。
「レーナが大変なの」
何日か前と全く同じことを繰り返している気がして、エイミは心底嫌な気分になったが、レーナの母は力強く彼女を引っ張っていった。
そして、レーナは本当に『大変なこと』になっていた。彼女の大きく開いた口からは、肥大した舌のようなものが屹立している。しかしその色は鮮やかな赤と白と黄色と紫の
「どうしましょう、お医者様は街にしかいないわ。村長さんなら何か分かるかしら」
お医者様だろうが村長様だろうがどうにもできないだろうと思ったが、いつもきっちり整えている髪を乱して飛び出していくレーナの母を止める気にはならなかった。
レーナは目を半開きにしたまま、瞬きもしなかった。
「レーナ」
だめだろうなと思いながら小さく名を呼んでみると、長い睫毛の帳の下で瞳が動き、エイミの姿を捉えた。しかし、それ以上の動きはない。腕に触れてみると温かく、脈動もしている。もう一度名を呼んでみたが、今度は何の反応も示さなかった。
「死なないんじゃなかったの」
彼女はぴくりとも動かないが、腕の熱は全く失われそうにない。確かに死んではいないのだろう。
やることもなくなったので、今回はレーナの母が村人を引き連れて戻る前に、出ていくことにした。
村人たちは再び外で集まり、レーナのことについて話し始めた。その場にいたほとんどの者が、レーナのあの姿を見たらしい。
「植物のようだった」
「臓物のようだった」
「海にあんな生き物がいると聞いたことがある」
レーナの身体から生えていた何かについては、見たものによってその感想がまちまちであった。しかし一致した意見もあった。
「今のレーナは《死んでいる》」
動かなくなり、反応もしなくなり、身体の表面に開いている穴からあの奇妙な肉の塊のような何かが生えること。今後はこれを《死》と定義することにした。奪われた《死》を自ら取り戻した村人たちは、どこか安堵しているようだった。
* * *
誰かがドアをノックしている。村がこうなる前から、エイミの家を訪ねてくる者などいないに等しかったから、誰なのかまるで見当もつかないまま戸を開けた。
目の前には痩せた女が立っていた。エイミはそれが誰なのか思い出せず、少しだけ固まってしまったが、思い出すや否や扉を勢いよく閉めた。しかし女の方も素早く足をドアに挟み、閉ざされるのを防ぐ。爪先をしたたかに打ち付けられた女は顔を顰めながらにやにや笑うという器用な真似をして、臭い息を吐きながら話した。
「エーテルが」「飛べない蛾の脚を」「神殿には神がおわします」「皿」「わからず屋どもへの神罰」「六本脚に六つの目」「選ばれている」「布は朝日で清めよ」「茸」「靴を履いてはだめだ」「石ではない」「祝福を厭うな」「足りない」「エーテらない」「理解者」「おまえを選んだ」
彼女の話を聞いていると、今まで支離滅裂だと思っていたものがいかに整理整頓され秩序立っていたかを思い知らされた。そのくらい女の話はわけがわからず、また異様に早口で捲し立てるものだから、余計に理解できなかった。
この女は、村の外れに住んでいる。もうずっと前から、異様な風体であちこちに変な絵を書き殴ったり、すれ違った村人を唐突に罵ったり、真夜中にこそこそとどこかへ出かけたりしては、村人たちに不気味がられていた。村全体がおかしくなってしまった今となってはその奇異さは際立たないが、それ以前は『あんまり近寄ってはいけない』というのが村人たちの共通認識でもあった。エイミもまた、特に何もしないうちから全く聞き覚えのない言語、しかしハッキリと自分を呪っていることがわかる呪文をぶつけられて以来、可能な限り避けて生活したいと思っていたし、実際にそうしてきた。向こうだってこっちに用なんかないはずなのだ。
「足が痛い。中に入れておくれ」
「嫌です」
「あんたに話したいことがあるんだ」
「私はありません」
しばらくドアを挟んで「入れろ」「嫌だ」「痛い」「帰れ」の終わりなき応酬を繰り返していたが、女は急に声を低めて言った。
「あんた、そんなこと言っていいのかい、あたしは知ってんだよ」
「私は知りません」
「あの三人組」
把手を強く握っていたエイミの手指が強ばった。
* * *
「ちょっと、君、いいかな?」
話しかけてきたのは見たことのない三人組だった。髪まで白い布で覆い、眉間に皺を寄せている女。一見何の仕事をしているのかわからない軽薄そうな男。エイミに声をかけてきた、腰に剣を吊り身軽な鎧を纏った精悍な顔立ちの若者。
「はあ」の返事と溜息の中間のような音を漏らしたエイミは、いつもより一段と不機嫌そうな顔をしていた。空が白み始めてくる時刻に、村の東西の境を超えて遊んでいるのを見られたことが気恥ずかしかったからだ。
「はじめまして。僕たちは王都から来たんだ。悪しきものを討伐するために。このあたりに異教の古い神殿のようなものはないかい?」
「ないですよ、そんなの」
街にはそれはそれは立派な白亜の神殿があると聞いたことがあるが、エイミは見たことがない。それより、『王都』だと? 街のずっと向こうにあるという、街よりもずっと『街』であるという、あの?
そんなところからどうして、という疑問と、村人以外の人間に会うという珍しい体験による緊張から固まるエイミをよそに、三人組はぼそぼそと話し合っていた。
「ないってさ。こんな辺境にあるはずがないって思ってたんだよ」
「ないはずがないわ。古地図にも書いてあるし、大神官様が間違えるはずがないもの」
「異教の神殿もまた異形であるから、神殿だと気がついてないのかもしれない。もう少し詳しく聞いた方がいい」
剣を吊った若者がエイミに向き直り、やけに歯並びのいい白い歯を見せて笑う。まだ明るくない時間だと言うのに、歯だけが光を放っているようだった。
「神殿という言葉が良くなかったね。なんというか、石を積んでできた、奇妙な形の遺構、建物というか」
「ああ、それなら」
村の北にある巨石群のことかもしれない。複数の巨石が二列立ち並び、その間にはまるで道のように、表面だけを露出した石が埋まっている。その『道』の奥にはこれまた巨大な石の壁を覆うように平たい巨石が積まれ、開け放しの部屋のように見えなくもなかった。ここからなら、村を東西に貫く道を通っていくより獣道を突っ切ってまっすぐ行った方がいいだろう、と手振りを加えて説明してしまってから、道案内にしては不親切すぎたかもしれない、と不安になった。しかし、若者たちは色めきたち、それだ、それに違いないと連呼し、エイミに感謝の意を伝えた。
「そこが神殿だと思う。道まで教えてくれてありがとう!」
「どうも」
感謝され慣れてないのでどういう表情をすればいいのか分からず、エイミは仏頂面を更に険しくしてしまった。それを『迷惑そうにしている』と受け取ったのか、三人組は別れの挨拶もそこそこに、獣道を進んでいってしまった。取り残されて呆然としていたエイミだが、ハッと我に返った。
彼らは『王都からやってきた』のだ。
つまり、外から村に入ることは可能であるということで、それは、ひょっとしたら、村から出る手段のヒントになりはしないだろうか?
事はそう簡単ではないかもしれない。鼠捕りの罠のように、入ることは容易にできても出ることができないような構造になっている、とか。村から出られないことと、飲み食いできなかったり以前のような意味で死ねなかったり変な肉のようなものが生えてきたりすることは全く関係ない事象である、とか。しかし、目の前にぶら下がった希望を見逃す気にはなれなかった。
エイミは三人組を追って獣道を駆けた。しかし整備のされていない道は走りにくく、また三人組たちの歩みはとても速いのか、駆けても駆けても彼らの背中は見えてこない。
彼らに追いついたのは、『神殿』の目の前であった。彼らは既に石室の入口に立っており、三人揃って中を覗きこんでいた。声をかけようと息を吸い込んだとき。
石室の中から飛び出てきた細長い何かが三人を束にして巻きとっていった。中から響きかけた悲鳴は、すぐに封じられた。何かを引きちぎるような音。硬いものが砕ける音。僅かな呻き声。それらが消えたあとの、耳に痛いほどの沈黙。
何が起こったのかわからなかった。しかし、エイミの本能は『いま巨石に近づいてはいけない』と叫んでいる。エイミはゆっくりと数歩後退りし、急に身を翻して駆け出した。来たときと同じ獣道を辿る。一度か二度転んだが、止まるのは恐ろしかったので転げながら立ち上がり、また走った。気がついたら、村の東の口に辿り着いていた。ここまで来れば安心だ、何も根拠はないけれど。息を深く吸うと、やっと冷静になることができた。
今のは、なんだったのだろう。小さいころはあの巨石の近くで独り遊びをしていたこともあるが、あの中は小さなテーブルほどの大きさの石がひとつあるだけで、それ以外は何もなかった。いつの間にか凶暴な生き物が棲みついていた? それならもう少し村で話題になっていそうだし、あんな器官を持ちあんな動きをする動物がいるとは思えない。今回の村の変化と何か関係あるのだろうか。わからない。エイミにわかるはずもない。
東の口に立ったまま、纏まらず言葉にもならない思考に押し潰されていると、後ろから声がした。
「ちょっと、君、いいかな?」
弾かれたように振り向くと、見覚えのある三人組がいた。髪まで白い布で覆い、眉間に皺を寄せている女。一見何の仕事をしているのかわからない軽薄そうな男。エイミに声をかけてきた、腰に剣を吊り身軽な鎧を纏った精悍な顔立ちの若者。
「はじめまして。僕たちは王都から来たんだ。悪しきものを討伐するために。このあたりに異教の古い神殿のようなものはないかい?」
「ないですよ、そんなの」
喉の奥底から這い上がる悲鳴を飲み込み、震える声で言う。なんでもいいからさっさと帰ってほしいという思いから飛び出した言葉は、奇しくも先程と全く同じ状況を生み出してしまった。
「ないってさ。こんな辺境にあるはずがないって思ってたんだよ」
「ないはずがないわ。古地図にも書いてあるし、大神官様が間違えるはずがないもの」
「異教の神殿もまた異形であるから、神殿だと気がついてないのかもしれない。もう少し詳しく聞いた方がいい」
ついさっき会ったはずの人物が、暗い石室の中で引き裂かれたに違いない人物が、まるで初対面のような顔をして全く同じ場面を演じている。今のエイミにとっては、石室の中の得体の知れないなにかより、一見人間のように見える三人組の方がずっと怖かった。
精悍な若者が歯を見せて笑いながら、言う。
「神殿という言葉が良くなかったね。なんというか、石を積んでできた、奇妙な形の遺構、建物というか」
逃げ出したかった。しかし、目的は果たさねばならない。
「……あなたたち、どうやってここに来たんですか」
「え? 隣街から普通に歩いてきたけど……」
勝手に寄せた期待はいとも簡単に打ち砕かれた。
「ないかな? そういう感じの、大きな石が立ってるところとか」
「ないです。そんなものは」
いくら恐ろしいといっても、人間の形をしたものが無惨に引き裂かれるところを二度も目撃したいわけではない。とにかく、さっさとエイミの目の前からいなくなってほしかった。終始眉根に皺を寄せエイミに疑い深い視線を向けていた、布で頭から足首あたりまですっぽり覆った女が、キッとこちらを睨む。
「嘘ね。異教徒め」
吐き捨てるようにそういうと、ずた袋から紙を取り出し、歩き始めた。
「最初から地図を信頼しておけばよかった。こんな怪しい村人を信用するなんて愚の骨頂よ」
「でもその地図、古いんだろ。街や村の区切りも変わってるし」
「全く役に立たないこともないでしょう?」
大股で歩く女を追うように軽薄そうな男も小走りで去り、若者は困ったような顔で笑うと、「答えてくれてありがとう、じゃあね」と言い残して去っていった。三人が向かったのは、あの獣道であった。
もう驚きもしなかった。追いかけるつもりもない。全力疾走したために痛む足を無理に動かして、家に帰った。
何か重大なことが起きた気がしたが、何一つ理解出来ていなかった。石室には何がいたのか。あの三人組は何者か。そして彼らは、今からどうなるのか。あの三人組の正体も、石室の中にいるのと変わらない化け物だったに違いない、そうでなければあんなふうにして蘇り再び目の前に現れるはずがないじゃないか。そう思うことによってエイミは脳裏にへばりつく罪悪感から逃れた。
それ以来、エイミは村の境に近寄らなくなった。そして、規則正しい反復を激しく嫌悪するようになり、散歩の時間はますます不規則になっていった。
* * *
この女は、あれを見ていたのだろうか。どこから、どうやって。いや、そんなことはどうでもいい。エイミはこれから何と言って糾弾されるのだろう。同じ三人を二度も死に追いやったことだろうか。村から出られるかもしれない可能性の塊をみすみす手放したことだろうか。そのどちらに対してもエイミなりの言い分があったが、エイミはもう自分自身に自信がなかった。
不意を突かれて手の力が緩んだところを狙い、女は強くドアを引き、手でドアの縁を掴んだ。骨ばった指と汚れた爪が侵入してきた。エイミは諦め、腕の力を抜いた。突然抜かれた力に対応できず後ろへよろめいた女だが、素早く体勢を立て直し、家の中に入ってきた。
憤怒にも狂喜にもとれるような表情で女が叫んだ。
「祝福も聖別もされてない愚物を捧げやがって! だがきちんと六つ送り届けたのはよかった! あたしが代わりに誉めてやる」
女は、予想していたような文脈でエイミを糾弾しに来たわけではないようだった。しかし相変わらず何を言ってるのかわからない。
「あんたも気づいていたんだね。そう、六なんだよ! 聞こえたんだろ、神託が。やはりあんたこそ巫女に相応しい!」
家に上げたことを後悔し始めるエイミに構わず、女は激しい身振り手振りを交えて、言葉でエイミを殴りつけるように喋った。昂るにつれ一歩踏み出すものだから、向かい合うエイミはじりじり後退りしなければならなかった。
「あんたは巫女になるべき存在なんだ! 今すぐ!」
「嫌です!」
気圧され続けていたエイミだが、断るところはきっちり断っておかないと大変なことになる気がしたので、女の話を遮るように大声で言った。途端に、女の顔から表情が抜け落ちた。部屋の中の時が止まる。じわじわと女の顔が赤くなり、爆発するように怒鳴った。
「おまえは何も分かってない」「選ばれたのになぜわからんのか」「できるだけ高く」「六」「崇めよ」「祝福を」「まだ足りない」「目を合わせるな」「どいつもこいつも恩恵を厭う」「なぜわからない」「目を瞑ったまままっすぐ歩け」「あたしはきちんと聖別する」「あんただけなんだ」「恐れるな」「六」「ふたたび集める」
胸ぐらを掴まれて、顔の目の前で叫ばれる。息は臭く、黄色く汚れた歯並びの悪い歯列が惜しげもなく晒された。さらに興奮した女はエイミを突き飛ばし、長い爪のついた手を振り回し始めた。エイミは頭を抱えてしゃがみこんで、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
「わかりました、わかりましたから!」
その言葉を巫女になる云々に関する肯定だと受け取ったらしい女は満足そうににんまりと笑い、暴れるのをやめた。笑顔の方が凄惨だった。
「そう言うって信じてたよ。あんたも声が聞こえたんだから」
何も聞こえてなどいない。エイミの指摘も抗議も受けつけず、にたにた笑いながら女は出ていった。
* * *
あの日から今まで、女がエイミの家に来ることはなかった。エイミはほっとし、一時的な不運に巻き込まれただけだろうと安心して、気まぐれな散歩をしたり、織機に積もった埃を指でなぞって絵を描いたり、酒を飲めずに吐くジェフじいさんに話しかけて罵倒されたりしながら過ごしていた。村人は
そんな折。一人の若い女が《死んだ》。
女の夫は困り果て、律儀に村長の家に報告しに行ったらしい。二人目の《死者》についての話はのろのろと村に広まった。まだ外に出るだけの気力がある少数の村人が女の家を訪ね、《屍体》の側で抜け殻のようになっている夫にお悔やみを言った。「植物のよう」で「臓物のよう」で「海洋生物のよう」でもあるあのぐねぐねとした斑の物体は、女の顔にある穴という穴から生えており、服に奇妙な膨らみがあったことから、見えない場所にも生えているのは容易に想像できた。レーナに以降初めての《死》ということで、緩慢で気怠げな動作の村人たちは、好き勝手な考察を語った。すんでのところで成り立っていた会話は一つの結論に収束した。曰く、『美しい娘から《死んで》いく』と。
エイミはその女と大して親しくもなかったけれど気力だけは余っているので弔問しようとしていたのだが、いざ出かけようとしたら、あのとんでもない女が嵐のように飛び込んできた。
「どこに行くつもりだい!」
「ブラウンさんのところです」
「祝福された女のとこかい、あんたはダメだ、巫女になるんだから」
女は早口で《屍体》を見てはいけない理由を説明し始めた。穢れがまだどうこうとか、完成していない祝福はかえって毒であるとかなんとか言っていたが、いつものことながらよくわからなかった。とにかく女に早く帰ってほしかったので「わかりました、行きません」とだけ言い、女が満足して出ていくのを待ったが、女は椅子に根でも生やしたように動かない。帰る気がないらしい。エイミは出かけるのを諦め、内心毒づきながら女の話し相手になることにした。
機嫌をよくした女は、にたにた笑って喋り続けた。エイミはその支離滅裂な口上から理解できる部分を掬いとり、女の考えを頭の中で再現しようと試みた。
あの巨石の中にいる『何か』を崇めているらしいこと、今のこの村の状況はその『何か』による恩恵だと考えていること、《死》を祝福だと思っているようであること、そして受けた祝福は『何か』に返還すべきであり、その役目を担うのが巫女であるということ。各所で「なんでそう思うのか」と尋ねると「天啓」「神託」「歴史的事実」などと宣い、エイミにも理解できる言葉は返って来なかった。
「祝福を受けた奴らはさ、近づいているんだよ。なんであんなクソったれどもが祝福されてあたしには何もないんだって思わなくもないけど、それはあたしに愚物を導くって役目が与えられているからなんだね」
「はあ」
まともに付き合ってはだめだ。一通り話を聞いてエイミはそう結論づけた。このまま気のない返事をしていれば、愛想を尽かして帰ってくれるだろうか。無理だろう。この女の思い込みの強さと執念深さは計り知れない。
「そうだ、まだ供物が足りないんだけど、巫女の役割について教えてやらなくちゃいけないね」
「待ってください、その巫女、ですか。やりたくないんですけど」
女は乾いた目を見開き、エイミの顔を凝視した。「それ以上言うなら暴れるぞ」と暗に語っている。まったくこの女は、芯から気が触れているのか、気性が激しいうえに得体の知れないものを崇拝しているだけで正気なのかわからない。エイミは何か言いかけた口を閉じた。
「巫女の仕事は神殿まで供物を運ぶことさ、衣の聖別は儀式の日の朝にやる。あんたはあんたの特技を十分に活かせばいい」
「特技ってなんですか」
「とぼけなさんなよ、まああんたがやんなきゃいけないことは儀式の日までなんにもないよ。やっちゃダメなことはあるけどね、中途半端は祝福を目に入れてしまうとか」
黙りこくるエイミを見て、女は不服そうに鼻を鳴らした。
「不満そうだね」
「そりゃあ、まあ。正直言って、神殿、ですか。あそこには近づきたくもないです」
言ってしまってから失言だったと理解して、身を強ばらせたが、女は手を出すことはなかった。
「このまま村にいるのは、不満かい」
「……そうですね、今のこの村は」
「そうかい。で、見たんだろ? 神殿の中に。人間でも動物でもないものをさ」
「はい」
「もし巫女としての役目を立派に果たしてお気に召されることがあれば、ちょっとした願いなら叶えてもらえるかもしれないねえ。人間でも動物でもない、神なのだから」
そうだろうか? あんなものが神だと? あれがそんな殊勝な考えをもつ存在である保証はない。しかし、そうでないと言い切る証拠もエイミは持っていない。
「もしかして怖いのかい。あの三人はね、不躾にも正面から目を合わせてしまったからああなったんだよ。あたしは何度も通って祈りを捧げてるけど、今でもピンピンしてるじゃないか。顔を上げなかったからね」
女はにたりと笑って言う。
「やるだけやってみないかい。手順を守れば危険はないし、運が良ければ好まれるかもしれない。どうだい」
見透かされ、掌の上で転がされている。やはりこの女は、正気なのかもしれない。
その晩エイミは、村から出られなくなった日から今日までのことを考えていた。これまで、エイミはよく散歩をしていた。少しずつ崩れていく村人たちの生活を見て回り、自分自身を保っていた。いや、脚を動かして誤魔化して、自分自身の抱える恐怖から目を逸らしていた。
エイミはいつまで、生活とも言えないこんな生活を続ければいいんだろうか。主食だった美味くも不味くもない粥を食べることもできない。イトムシの餌葉の木の実から作ったジャムを舐めることもできない。井戸から汲んだ冷たい水を飲むこともできない。気晴らしにほんの少しだけ酒を舐めることもできない。このまま春が来ないなら、糸を作ることも絹を織ることもできない。気まぐれな散歩で誤魔化せなくなって、他の村人と同様に家で鬱々と悩み続けるだけになる日が来るのだろうか。そうやって生きていくことと、繭に籠ったまま茹で殺されるイトムシとの違いが分からなくなった。
繭糸より細い希望にでも縋りたい。強くそう思った。
その夜、エイミは久しぶりに寝た。ほんの一瞬のうたた寝だったが、見た夢は長かった。
エイミは夢の中で肉を食べている。大皿に山と積まれた野菜と果物、そして見たこともない食べ物たち。植物のような臓物のような海洋生物のような斑模様の何かも当然のようにそこに並んでいた。そして樽に口をつけて酒を飲み、ジャムを大きな匙で掬って食べる。周囲には、羽化して繭から這い出たイトムシたちが飛び回っている――。
* * *
ジェフじいさんが《死んだ》。
最近、散歩に出ても姿を見ないなとは思っていたが。
家族のいないジェフじいさんの家までわざわざ弔いに行ったのは、全部合わせてほんの数人だった。エイミ自身は弔いに行きたかったのだが、それを察したようにあの女がやってきて「行くんじゃないよ」と釘を刺した。
「代わりにあたしが行ってくるから」
あんたじゃ代わりにならないよと言いたかったが、口に出す前に女は出ていってしまった。
「今までで
女は冥福のひとつも祈ってないんじゃないかと疑いたくなるほど早く戻ってきた。あの肉塊のようなもののことは《祝福の茸》と呼んでいるらしい。今日の女は異様に高揚しているようで、乾燥した顔の皮膚のなかで目だけがぎらぎらと光っていた。
「やっと、準備が始められるよ。明日からだね」
そう言い残し、禍々しい鼻歌を歌いながらどすどす歩いて行ってしまった。
女もいなくなったことだし、こっそりじいさんの弔いにでも行こうかと思ったが、結局やめてしまった。酒を飲まずに寝ているだけのじいさんを想像するだけで苦しくなった。会って、変わり果てたその姿を目の当たりにしてしまったら、見えない何かに抵抗してのたうち回りながら酒を飲み続けたあのじいさんが、煙のように消えてしまうと思った。
代わりに散歩に出た。
ヤン夫妻の家は今日も静かだ。二人の姿を最後に見たのはいつだっただろうか。一人になってしまったレーナの母の家からは、呪詛よりずっと禍々しい、暗い興奮を
気がつけば村の東の口にいた。そこには何の姿も見えなかったが、
「ちょっと、君、いいかな?」
「ちょっと、君、いいかな?」
「ちょっと、君、いいかな?」
「ちょっと、君、いいかな?」
「ちょっと、君、いいかな?」
「ちょっと、君、いいかな?」
同じ音が繰り返し鳴っていた。エイミが何も言わないでいると、音は次第に遠くなり、ついには聞こえなくなった。
* * *
翌日、女は赤い円盤を持ってやってきた。エイミの肩幅より長い直径を持つそれは、よく見ればただの円盤ではなく、皿のような形状をしていた。
「なんですか、その皿は」
「いいだろ、これ。
「さあ」
エイミの知る
「今はこれを見せにきただけだ。夜になったら、あたしの家に来な。それまでには準備を済ませとく」
「はあ」
女がすぐに帰ってくれたのでエイミにとっては有難かった。夜に村の外れまで行くのは億劫だったが、散歩のついでだと思うことにした。
日が落ちてから、エイミは律儀に女の家を訪ねた。一回目のノックに「まだ入るな!」と怒鳴り返され、来たことを少し後悔した。
少し待つと、女は身体で部屋の内を隠すようにして扉の隙間から滑り出てきた。エイミの方に白い布を突き出して言う。
「これで目を覆いな。巫女は見ちゃいけないんだよ」
取り立てて反抗する理由もなかったので、言われた通り布で目を覆い、端を後頭部で結んだ。女は「よし」と呟くと、エイミの手首のあたりを引いて家の中へと招いた。
部屋のようすはほとんどわからない。ロウソクが二、三本床に立てられているのか、布で覆われた視界の下の隅に微かな明かりが見えた。
「目玉がふたつ、肺がふたつ、腎がふたつ、それが三人分! しかもいつまで経っても温かい! やっと六になったんだ。これに《祝福の茸》を混ぜてお返しすれば、お喜びになると思わんかい?」
エイミは踵を返して逃げ出そうとしたが、女に手首を強く掴まれていたため叶わなかった。
「……家族は怒ったでしょうね」
「怒るもんか。みーんな声を聞いていたんだ。同じ夢を見てたんだよ。畏むべきもののね。なのにあいつらはそのせいで気が鬱ぐとか抜かすんだから。あたしは導く者だからね。そうじゃないって、あんたらが見てるものは、聞いてる声はとても尊いものなんだって、懇切丁寧に教えてやったのさ。そしたら分かってくれたし、進んで協力してくれたよ」
女が本当に『懇切丁寧に教えてやった』だけなのかどうか。どうせ暴れたり脅したり宥め賺したり甘言を弄したりしたのだろう。
「あんたも見てたろ、夢」
「見てません。私、眠れないので」
「じゃあ、起きたまま神託を聞いたんかい。さすがあたしの見込んだ巫女の器だ」
「だから何も聞いてないんですって」
女にとって都合の悪い言葉は聞こえないらしく、エイミの叫びは無視された。
「しかし、あのじじい、内臓まで酒臭くって敵わんよ。これじゃご気分を害されるかもしれないね。どうしたもんか」
「……香りの強いもので誤魔化せばいいのでは。酒とか。一応酒杯なんでしょう、それ」
ジェフじいさんのことを思い出して少なからず動揺したが、それを女に気取られるのは嫌だったから、努めて平気なふりをして言った。
「妙案だ! あたしもそうしようと思ってたんだよ。村長が香りのいい高い酒を隠し持ってるって噂を聞いたことがある。あのタヌキ爺のところに行ってもらってきとくれよ」
女は機嫌よく、エイミを外に放り出した。
「外にいるときは、覆いを取っていいからね」
エイミは溜息をついて布を取り、村長の家へ向かって歩いた。
村長の家のドアをノックしたが、誰も出てこない。もう一度強くノックしたら、背の低い男が緩慢な動作で顔を出した。村長だ。いつも整えられていた薄い髪が乱れているだけで、痩せたり服が汚れたり無精髭が生えたりしているわけではなかったのに、とても窶れて見えた。
「エイミか。どうしたんだね、遅くに」
それでも垂れた目元を下げ穏やかな声で対応するだけの余裕は残っているようだった。
「酒を貰いたくて」
「酒?」
村長の目付きが一転して疑心に塗れる。エイミは慌てて付け加えた。
「ジェフじいさんに、供えたくて」
取ってつけたようにもごもごと言ってしまったが、口にしたあとで、これが私の本心に一番近いかもしれない、と思った。村長は再び目元を綻ばせ、どこか懐かしむように言った。
「そうだったか。あいつはなあ、あんなふうになっちまったがね、もっと優しくしてやればよかったって今になって思うよ。わしはそうするべきだったんだ。酒だって、飲めるときにうんと美味いのを分けてやればよかった。少し待っとりなさい。持ってくるから」
村長は扉を少し開けたまま、家の中に引っ込んで行った。その口ぶりから察するに、じいさんが以前言っていた『おれは村長の野郎と兄弟同然の仲だったんだ』という言葉は、真っ赤な嘘でもないようだった。扉の隙間から、蝋燭の灯で仄明るい部屋と、机に突っ伏している村長の妻の背中が見えた。
村長はがちゃがちゃと喧しい音を立てながら戻ってきた。
「王都から取り寄せた果実酒と蜂蜜酒なんだ。わしからの分も供えておいてくれないかね」
渡された酒瓶は透き通り、表面には美しい紋様が刻まれていた。エイミは礼を言い、そそくさと逃げるように去った。
エイミは女の家まで小走りで戻りながら、闇の中に浮かんで見えた村長の妻の姿を思い出す。その顔があるあたりに、赤と白と黄色と紫の巨大な斑が見えた。
《死》の定義は不完全だった。動かなくなり、反応もしなくなり、身体の表面に開いている穴からあの奇妙な肉の塊のような何かが生え、そのことが公になったときに、村人は《死ぬ》のだった。
女の家の前で一度立ち止まり、酒を地面に置いて目を布で覆う。倒さぬように酒を広い上げ、爪先でドアをノックすると「遅かったじゃないか」という声と同時にドアが開く音がした。
「あのタヌキ、やっぱりいい酒を隠し持ってたね」
女は喜々として言い、エイミの手首を引いた。エイミの腕から酒が分捕られる。しばらく待つと、勢いよく何かが抜ける音がして、芳醇な香りが狭い部屋に広がった。
「こりゃ、凄いね。あたしらは飲めないけど」
液体を注ぐ音が聞こえてからは、香りが一層強くなった。もう一本の瓶が開封される音がしたあとは、その甘い香りの強さのあまり、頭がくらくらした。
「ああ、今じゃなくて儀式の直前に注げばよかった。まあ、いいか。……あたしは今日、この部屋で寝るんか」
女はしばらくぶつぶつと何か言っていたが、思い出したように「ああ」と声を上げた。
「あんたはもう帰っていいよ。明日の朝、布を清めてあんたのとこに行くから、家にいるんだよ」
「はあ」
エイミは再び外に放り出された。ドアが閉められる直前、「儀式は明日だからね」となんでもないことのように女は言ってのけた。
「はああ⁉」
エイミの返事など待つ気はないようだった。
* * *
エイミはいつものように眠れない夜を過ごしたが、いつもと違って夜は一瞬で終わってしまった。東の空が明るくなってしまったころに、白い布を持った女がやってきた。
「持ってきたよ。朝露と朝日で清めてある。着せてやるから、服を脱ぎな」
「嫌です!」
エイミは拒否した。今までで最も激しい拒絶だった。この女の前で裸になることを考えると、全身の産毛が逆立つような不快感を覚えた。
「自分でやるんで、手本見せてください」
「あたしが着たら清めた意味がないんだよ!」
「じゃあ着なくていいんで、教えてくれたら自分でできます!」
「着せてやるって言ってるだろ!」
女の方も意地になって譲らず、お互い罵り合い、そのうち相手の言葉も自分の言葉も判別出来なくなった。最後にはエイミが声の大きさで勝り、布だけ奪って女を家から追い出した。こんなことで勝ったってしょうがないことは分かっていた。
布は滑らかで光沢のある、懐かしい質感だった。イトムシが産む糸の輝き。絹だ。この村は絹を山ほど生産してはいたが、実際に絹の服や布を所持している人間はいない。扱いの難しい高級品だったのだ、粗野な村の暮らしに相応しいものではない。じゃあどうして女がこれを持っているのかについては考えるまでもなかった。売らなかっただけだろう。
大きな布の上部分を折り返し、身体にゆるく巻きつける。肩のうえで布を留めたら、確かに服らしく見えた。さらさらの布は肌の上で落ち着いていてはくれない。エイミもその感触につられてそわそわした。
「着たかい?」
扉の向こうから不機嫌そうな女の声がした。戸を開けて見てみれば、声と同じく不機嫌な顔をした女が腕を組んで立っていたが、エイミの姿を見るなり満足気な顔に変わった。
「いいじゃないか。巫女らしく見えるよ」
「はあ」
巫女らしい、とはなんなのだろう。
「導かれたものたちが神殿の近くまで供物を運んでる。あたしらも行くよ」
エイミは黙って女の後ろをついていった。
巨石の近くにはレーナの母と、二番目に死んだ若い女の夫と、あと何人かの村人がいた。全ての顔は窶れ、目だけが異様に血走って光っている。彼らの傍には布をかけられた何かが置いてある。供物だった。
女がそれなりに恭しい手つきで白いものを取り出した。四角い布の一遍に細長い紐がついている。面布のようだ。
「これで顔を覆うからね。安心おし、聖別してある」
さっとエイミの視界が覆われ、後頭部で紐が結ばれた。
「今は足元が見えるだろうけど、参道に乗ってからは目を閉じた方がいい。風が吹いて面布が捲られたら大変なことになる」
「いったい、何をどうすればいいんですか」
「前も言ったじゃないか。供物を神殿まで運ぶんだよ。頭に盃を載せて、目を閉じてね」
そこで初めて、エイミは自分が巫女に選ばれた理由を知った。エイミは村で一番若くもなければ美しくもなかった。巫女にそんなものは必要なかった。
エイミは。エイミの役に立たない特技は。
エイミは小さいころから――。
目を閉じたまま、まっすぐ歩くことが得意なだけ。それだけだったのだ。
「神殿の奥に祭壇があるのは知ってるね。ゆっくり歩いて、爪先か身体のどこかしらがそこに触れたら、半歩下がって盃を下ろすんだ。半歩下がらないと、祭壇から供物が落ちるからね。道中で何も零(こぼ)すんじゃないよ。台無しになるから」
女はエイミの手を引き、巨石の柱に挟まれた石の道の手前まで導いた。そしてエイミの靴を脱がし、裸足にした。そして、しゃがみこむように促される。
周囲に人の集まってくる気配がして、頭が急に重くなった。盃を載せられたのだ。そして今度はゆっくり立ち上がるよう指示された。皿を両手で支え、ゆっくりと膝を伸ばす。何かが転がり、液体が揺れる感覚が頭骨に響いた。
「頼んだよ」
わけのわからぬまま、とても重いものを託されたエイミは、ゆっくりと足を進めた。足裏で地面を擦るようにして、慎重に歩く。目を閉じてまっすぐ歩くことは彼女にとって難しいことではなかった。しかし、固体が山のように盛られ、なみなみと液体の注がれた盃を傾けないようにして運ぶのは、神経のすり減る仕事であった。
一歩進む。一拍遅れて液体が前へ動くのがわかる。早く進みすぎると液体がエイミの歩みを追い抜いてしまうから、ただただ慎重に、のろのろと歩くしかなかった。
どうして。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
足元の石は尖ってもいないが綺麗に均されているわけでもない。進むたび、足の裏が擦れ、じわじわと痛くなっていく。しかし一度立ち止まると二度とそこから動けなくなってしまうような気がしたので、気の遠くなるような時間をかけてでもエイミは進むしかなかった。
なんで私はこんなことをやっているんだろう。
盃はほんのり温かい。なぜ、と考え、あまり愉快でない答えに気がついてしまった。まだ《生きている》のだ。私は? まだ生きているのか?
無惨に潰されたイトムシたちの姿は、目に焼きついて二度と離れない。
正面から視線を感じる。何かがじっとエイミを見つめている。一対ではない、と直感が告げた。石室の奥の闇に無数に散らばる瞳を想像し、震える脚と腕を心の中で叱咤しながら、歩く。
もうかなりの距離を歩いた気がする。疲労感だけで言えば、半日歩き通していたのと変わらないくらいだ。しかし、まだ祭壇にはぶつからない。頭の上で盃を支える腕が痺れてきた。鼻のあたりが痒いような気もする。歩く。
私は何を期待していたんだろう。女の言葉を信じていたわけではなかった。ただ。来ない春を何もせず待ち続けることに耐えられなかっただけかもしれない。
足の裏が痛い。石で擦れたことだけが原因ではない。石はとても冷たかったのだ。今は冬。秋の残り香漂う、冬の初め。春はまだ遠く、近づいてくることはない。寒さや冷たさを感じ取れることが、なぜか少し嬉しかった。
祭壇はまだだろうか。視線に刺されて穴があきそうだ。
村から出たかった。いつから? たぶん、この村がこうなるずっと前から。全てのイトムシたちに羽を与えて、彼らと飛び立ってしまいたかった。それは少々夢見がち過ぎるか。イトムシは、たとえ羽化しても飛べないのだ。全てのイトムシは空を知らずに死んでいく。この村を出ることなく死んでいく。そして、エイミも。
右の爪先が何かにぶつかった。足の動きを止め、胴だけを僅かに前へやると、それもぶつかった。祭壇だ。ゆっくりと半歩、後退する。
両手で盃を支えて、ゆっくり持ち上げる。一滴も、一欠片も零さぬよう、細心の注意を払いながら、腕を前へ動かしてゆく。途中で手首の角度を変えようとしたとき、左手が滑りそうになって全身が冷えた。しかしなんとか持ち直し、ゆっくりと盃を下ろす。
手にかかる重さが減った。盃の底が祭壇についたようだ。ここで慌てて手を引っ込め盃をひっくり返しでもしたら目も当てられない。慎重に腕を抜き、身体の横に収めた。
エイミに刺さり続けていた視線が、急に逸らされるのがわかった。ずず、と石と盃が擦れる音がする。いまエイミは、巨大な何かと向き合っていた。その体は、はち切れんばかりに石室に詰まっているようだ。それ以上の姿についてはわからない。知りたくもない。
ずず、とさっきと似たような音がしたが、これは何かを啜る音だった。目の前の何かは酒を飲んでいる。柔らかい何かを噛む音。再び液体を啜る音。交互に繰り返されていたそれが、急に止まった。
カコン、という軽い音がやけに大きく響いた。それをきっかけに、周囲の雰囲気が変わった。
空気と足元が僅かに振動する。目の前の巨体の激しい震えが、エイミのもとまで伝わってきているのだった。何かがおかしい。エイミはそこで初めて、どのタイミングでどのように立ち去ればいいのか知らないことに思い至った。
絹を裂くような甲高く長い音が耳を劈いた。エイミは咄嗟に祭壇の陰に伏せる。頭上を暴風のような何かが通り過ぎ、それは面布の紐を解いた。
エイミは見た。皮膚病の獣のような質感の、赤と白と黄色と紫の斑模様をした肌。背中から無数に伸びる蔦のような腕。その中心にぽっかり空いた穴のふちには、尖った乱杭歯がずらりと並んでいる。六本の脚を回転するように動かし、先程まで石室にいた何かの背中は遠ざかっていった。立ち並ぶ石の向こうにあった複数の人影が、蔦の腕で絡め取られて穴に放り込まれるのが見えた。乱杭歯が人影を半分に切断しながら飲み込んだ。背中は村の方向へ突き進み、見えなくなった。
エイミは祭壇の裏を覗いた。そこにはひっくり返された盃があるだけだった。残った酒は石の上に広がり、斑の塊の欠片やそれ以外の固形物が散らばっていた。
赤っぽい色をした《祝福の茸》の欠片のひとつが、手を伸ばせば届きそうな場所にあった。エイミはそれを手に取って、眺めてみる。つやつやとしていて、あのジャムの色に似ていたから、少しだけ齧ってみた。きつい酒の臭い、そして激しい嘔気。内臓が口から飛びだしそうな勢いで嘔吐き、咳き込む。咳はまるで笑い声のような調子で石室内に響いたから、それに合わせて笑ってみた。笑っているうちに何がおかしいのか分からないまま、何もかもがおかしく思えてきた。
エイミはずっと顰められていた顔を緩め、生まれて初めてといっていいくらい久しぶりに、大声をあげて笑った。
嘔吐きすぎて笑いすぎて、喉と腹の筋肉が痛い。足裏のじんじんする痛みも思い出してしまった。エイミは石の上に横たわった。村からは悲鳴のひとつも聞こえて来なかった。そんなものかもしれない。イトムシたちだって、黙って潰されたのだ。
寝転がるエイミの肉と骨に、規則的な振動が伝わってくる。振動は徐々に大きくなる。それは巨大な何かが歩いてくる音。
祝杯 守宮 靄 @yamomomoyan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます