第2話『愛の呼称』

前回

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 女の手がぬっとこちらに伸びてきた。

 ぞくりと悪寒がするほどの拒絶感。

 だが、抵抗はできない。


 好き勝手に能動的に動くこいつらと、無気力で受動的な俺。

 幸せになる資格が他人と、俺。


 優先されるのがどっちかなんて言うまでもない。

 抗ったところで誰も俺の味方なんかしないのだから、最初から受け入れた方がいいに決まっているのだ。



 そう覚悟を決め、ぎゅっとキツく目をつむった――その時だった。

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「やめてください!」



 突如、凛とした声が響く。

 女はもちろん、ニタニタと様子を見物していた男も、俺さえも目を丸くして、声のした方――バックヤードから顔を出したたちばなさんに視線をやる。



「商品を台無しにしたり動画撮影をやめなかったり……いい加減、迷惑行為で訴えますよ!」

「う、訴え……!?」

「大したことしてねえだろ」



 明らかに動揺し始めた男女二人とは対照的に、橘さんは背筋をピンと伸ばして顎を引き、大きな瞳で彼らを捉え続けている。



 橘さんの姿は、まさに“正義”であった。



 そんな彼女に気圧けおされたのだろう。

 二人はなんだかんだと言いながら、最終的にはそそくさと店を出て行った。




「最低でしたね、あの二人」



 腰に手を当てて、橘さんは怒ったように「ふんっ」と小さな鼻を鳴らした。



「そうだね。……来てくれてありがとう、助かったよ」

「いえ! お店の危機はみんなの危機なので!」

「頼もしいよ」



 言いながら目を細める。

 店内で照明があるとはいえ、夜中に見るには、彼女はあまりにも眩しい存在だ。




 三ヶ月前からコンビニでバイトを始めた橘 美亜みあさん。

 今年で確か二十二歳になる、大学四年生だ。


 勤務中は団子髪で、退勤後は腰まである髪をポニーテールにしているのが印象的。


 少しドジな一面もあるらしく、よく怪我をしている。

 今日は鎖骨辺りで包帯が見え隠れしていた。



 彼女はきっと、誰かの人生の主人公やヒロインになれる人間だ。

 自分自身はもちろん、周囲さえ幸せにできてしまう。


 そんな幸せになる資格が当たり前に備わっているのだから、きっと“死にたい”だなんて一度も思ったことがないのだろう。

 ましてや、自分の人生を全部夢オチで片付けたいだなんて、考えたこともないのだろう。




 絵に描いたような純度100%の人間。

 そんな彼女が羨ましくもあり、妬ましくもある。




「それじゃあ、さっきのことを店長に伝えて訴えてもらいましょう!」

「え? あ、ああ、そうだね」



 橘さんの言葉でハッと我に返る。

 確かに今回の件はうやむやにはできないし、責任者である俺が報告しなくては。



 「そういえば」と橘さん。



「退勤したら、ゆきちゃん先輩はなにするんですか?」

「夕方まで寝る。

 っていうか、その呼び方やめてって言ってるよね……」

「えーいいじゃないですか!

 店長もゆきちゃんって呼んでたし」

「店長には……やめてとは言えないよ」



 マスク越しでも分かるほど、わざとらしく頬を膨らませる橘さん。

 対して俺はマスクをぐっと上げて鼻まで隠した。



「なんでゆきちゃんって呼ばれたくないんですか? 可愛いのに」

「可愛いからだよ、男らしくない」



 ぼんやり、天井を見上げる。


 小さな幸せと書いて『小幸こゆき』。

 男にしてはいささか女々しすぎる名前で、関わる人間からは結構な確率で“ゆきちゃん”と呼ばれる。

 昔から馬鹿にされてきたこともあって立派なコンプレックスの一つだ。


 俺のコンプレックス事情などお構いなしに、橘さんは尚も食い下がる。



「でもきっと、人から愛称として呼ばれることが多いじゃないですか。

 それだけ愛されてるーって考えたら嬉しくないですか! いいなあ愛称」

「別にいいものじゃないよ。そう呼んで可愛がってくれたの、近所のおばちゃんくらいだし」



 そう答えたところでふと、隣から視線を感じた。



「私は好きですよ」



 視線がぶつかる。

 彼女は大きな瞳を少しだけ細め、ゆきちゃんって呼び方、と付け加えるように言った。



「……そっか、ありがとね」

「えへへ。じゃあ私、休憩に戻りますね!」



 バックヤードに戻っていく橘さんを、呆然と立ち尽くして見送る。

 彼女の背中はいつも通りで、先ほどの発言の危うさなんてまるで考えていないようだ。



「なんだ、今の……」



 呟いて、マスクの上から口を覆う。

 もう少しで勘違いしてしまうところだった。








 それからしばらくして、店に戻ってきた店長に事情を説明することになった。

 おでんが被害に遭う前に対処しろと謎の説教を食らい、あの二人の客とおでんの処分が決まったところで、ちょうど六時を迎えた。

 キリもよかったためそのまま退勤することに。




 退店音に見送られ、一歩踏み出したところで寒風かんぷうに身が縮こまる。

 路面は少し凍っていて気を抜くと転びそうだ。


 冬のこの時間帯は太陽が出ていない。

 スマホや街灯の明かりがないと危険なくらいには暗いが、空が突き抜けたように澄んでいるのは日中も夜間も変わらない。


 そんな空をぼんやり眺めていると、誰もいない世界に放り出されたような感覚になって、無性に人肌が恋しくなった。


 帰ったら寝ている彼女を抱きしめよう、起こして機嫌を損ねないようにそっと――そこまで考えたところで、ふとスマホが震える。



 見ると一件のLINE通知。

 彼女から『別れよう』というメッセージがきていた。





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次回

第3話『落涙した想い』



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