第2話 夕日
いつの間にか時間が経っており、文化祭の終わりを告げるチャイムが鳴った。
……確か、この後は後夜祭があるんだっけ。
文化祭の片付けは休日を挟んだ後日に回され、後夜祭への参加は自由となっているが、ほとんどの学生が参加するのだろう。
……とりあえず図書室を閉めた後は一度、部室に戻らないと。
文芸部としての打ち上げはまた後日だと聞いているが、後夜祭の後に打ち上げに行く学生も多いらしい。
ゆずりはカウンターの上を片付けた後、図書室内のブラインドを下ろしに向かった。
ブラインドを何枚か下ろし、最後の一枚がある場所へと向かえば、そこには簡易席に座っている先程の男子学生が足を組みながら本を読んでいた。
……何だか、絵になる人だなぁ。
まるで本の挿絵のような光景だと思っていると、男子学生はゆずりが近くに来ていることに気付いたのか、顔を上げる。
そこに、感情らしい感情は浮かんでいない。
「……何か用だろうか」
「あっ、す、すみません。その……後ろにあるブラインドを下ろしたくて……」
「ああ、もう閉室時間か」
彼は窓の外へ視線を向けた後、本を閉じ、それから立ち上がる。そして、本を椅子の上に置いてから、何故かブラインドを下ろし始めた。
「えっ、あっ……」
「長居させてもらったからね。このくらいはやっておくよ」
「……ありがとうございます。あ、本は借りられますか?」
「ああ。この本と……それからこっちの本の二冊を借りようかな」
「では、貸出の手続きを先に行ってきますので、学生証をお借りしてもよろしいですか」
ゆずりが訊ねれば、彼はブラインドを下ろす手を一度止めてから、本棚からもう一冊、本を取り出し、手渡してくる。
そして、懐に入れていたのか学生証を取り出し、二冊の本の上へと置いてきた。
「お預かりしますね」
「うん」
受け取った後、ゆずりはすぐに貸出の手続きのためにカウンターへと戻った。
学生証のバーコードを読み取った後、本の裏表紙のバーコードも続けて読み取っていく。
その間にもブラインドを下ろし終わった男子学生がカウンターへとやってきた。
「お待たせしました。こちら、返却日は二週間後となっています」
本を二冊重ね、その上に学生証を載せてから、男子学生へと渡した。
「ありがとう」
彼は一言、簡潔に告げた後、本を鞄の中へと仕舞うと図書室から去って行った。
「さて、と」
ゆずりは念のために図書室に他に学生がいないかと確認してから、出入口となる扉の鍵を内側から閉めた。
……先輩や江藤さん達も、部室に戻ってきているかな。
その際に預かっていた小銭入れを返すのを忘れないようにしなければ。
そんなことを思いつつも、ゆずりは手慣れた手付きで片付けを終え、図書室の照明を消した。
ブライドが下ろされている図書室は一瞬で真っ暗となり、別世界へとやってきたような心地になる。
忘れ物がないことを確認してから、ゆずりは司書室から出た。
もちろん司書室の照明を消すことも忘れない。そして、本多から預かっている鍵で司書室を閉めた。
防音がしっかりしている図書室の外へと出てしまえば、文化祭の終わりを惜しむ声が遠くから響いてくる。
生徒会の役員が、後夜祭がもうすぐ始まることを拡声器で知らせる声が耳に入ってきた。
ふと、視界の端が明るく感じて、呼び寄せられるようにゆずりは顔を上げる。
光が射しこむ廊下の窓の傍に立っているのは、先程の男子学生だった。
……まだ、帰っていなかったんだ。
彼は何を見ているのだろうかと、ゆずりはそっと歩き、その視線の先を追えば、そこには今にも沈もうとしている夕日があった。
校舎が建っている場所は平野であるため、夕日がよく見えるのだ。
今日の終わりを意味しているその光景は、ゆずりにとっては儚くも美しく、そして切ないものに見えた。
「……綺麗」
夕焼け空に見とれて思わず、ぼそりと呟いてしまったゆずりの方に男子学生が振り返る。
「後夜祭、始まるけど。……参加しないのかい?」
その窓からは運動場も見えた。
どの学年に関わらず、ほとんどの生徒が運動場の方へと移動しており、その表情は楽しげだったり、惜しむようなものばかりだ。
あの輪に入っていける人が羨ましいと妬んだことはない。
ただ小心者過ぎて、十月になってもクラスに馴染めていない自分の勇気の無さが情けなく思うだけだ。
「楽しんでいる人達に、水を差したくはないですから」
自分のような人間はあの明るい場所には似合わないと、ちゃんと弁えている。
もしかすると、ゆずりと同じクラスの者が気を遣って声をかけてくるかもしれない。せっかくの文化祭なのだから、仲の良い人達と楽しく過ごして欲しかった。
「君は、楽しめなかったのか?」
「……」
その言葉に、喉の奥に何かが引っかかった心地がした。
つい、肩にかけている鞄の持ち手に力を籠めてしまう。その時、思い出したのは鞄の中に入っているものだった。
……ううん、楽しかった。文芸部の皆で、一つのものを作り上げたのは、確かに楽しかった。
普段から趣味として書いている小説をこのような形にすることは初めてだった。
親切に教えてくれる先輩のもとで、同じく文芸部に所属している同級生達と右往左往しながら、「さぼてん」を作るのは楽しかった。
だからこそ、男子学生からの問いにゆずりは胸を張って答えることが出来た。
「私は……私なりに、楽しかったと思っています」
その答えに男子学生は瞬きした後、静かに目を伏せながら小さく呟く。
「そう、楽しめたなら良かったね」
ゆずりに向けていた瞳を彼は再び窓の方へと戻す。
その際、夕日に照らされた彼の横顔が、何故かゆずりには酷く寂しげに見えた。
後夜祭に向かわずに帰るつもりなのか、男子学生は昇降口がある方の階段に向かって、歩き始める。
彼は、どうだったのだろうか。
そんな詮索はしてはならないと分かっているのに、彼も図書室に来ていたということは、ゆずりと「同じ」だったのではないかと思ってしまう。
気付けば、ゆずりは彼を呼び止めていた。
「あのっ」
目の前にいるのは名前も学年も、何も知らない人だ。友人でも、知り合いでもない。
けれど、知らないのに同じ人を二度も呼び止めたのは生まれて初めてだった。
ただ、先程の彼の寂しげな横顔を見てしまえば、放っておけないと思えたのだ。
男子学生は立ち止まり、訝しげにこちらを見てくる。
その視線に小さく肩を揺らしてしまったが、ゆずりは急いで鞄の中からとあるものを取り出した。
それは先程、図書室のカウンターで販売していた文芸誌の「さぼてん」とは違い、自分用として先に先輩から貰っていた「さぼてん」だった。
「これっ、どうぞ!」
「え」
ずいっと男子学生へと「さぼてん」を差し出せば、彼は少し呆けたような顔をする。
「楽しめるかは、分かりませんが……。その、本を読むの、お好きみたいだから……」
「……」
顔を見ることが出来ず、ぷるぷると震える手を差し出したまま、どのくらいの時間が経っただろうか。
急に手が軽くなった気がして、驚いたゆずりが顔を上げれば、男子学生が「さぼてん」を手に取り、ぱらぱらと軽く捲っていた。
「文芸部の部誌? ……君が書いたものもこの中に?」
「あ、ります……」
「ふーん。……でも、これ売り物なんだろう? 勝手に人に譲って大丈夫なのか?」
「じっ、自分用に二冊貰ったものの一冊なので、大丈夫ですっ」
「そう」
ぱたん、と「さぼてん」を閉じた後、彼はそのまま鞄の中へと仕舞った。
「それじゃあ『楽しめた』ら、感想でも伝えるよ」
「あ……」
先程とは違う、寂しさも憂いもない表情で、彼は目を細めた後、踵を返した。
足音が遠のき、夕日に照らされる廊下にはゆずりだけが残される。
閉めているはずの窓の外から学生達の笑う声が聞こえているというのに、それはどこか現実ではないような心地がした。
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