トワイライト・リフレクト
伊月ともや
第1話 文化祭
図書室には、外の喧騒は届かない。
現在、
「──冬原さん、本当に図書当番で良かったの? せっかく、初めての文化祭なのに……」
図書当番のカウンター席に座っている
彼女が家の事情により、早急に帰らなければならなくなったのはつい先ほどの出来事だ。
そのため元々、図書委員であるゆずりが図書当番を引き受けたのだ。
「文化祭中と言っても、図書室の利用者がいないわけじゃないですから。それに私のクラスはクイズ大会だったので、すでに裏方としての仕事は終わっているので大丈夫です」
「あら、そうなの?」
「はい。クイズを考えたり、教室の飾り付けをするだけなので、当日はどちらかと言えば自由時間の方が多いんです」
注目を集めることが苦手なゆずりはクイズ大会の司会者になったり、参加者を誘導するスタッフになることだけは避けたかったため、文句を言われないためにも裏方の仕事だけは頑張った。
……何より、私はあの楽しげな空気に入れないし……。
気弱な自分には同じクラスの者達がお祭りのように楽しんでいる中に自ら入っていくことは出来なかった。
だからこそ、文化祭期間中だとしても、自分のように他者との交流が苦手な学生のためにも図書室は必要だと思えたのだ。
自分も含めて、文化祭当日には参加せずに一時避難してくる者だって数人はいるし、そういった学生達の受け皿がある方がきっと良い。
何より、ゆずりには大事な役目がもう一つあった。
「それと……刷りすぎた文芸誌を置かせてもらっていますし、当番くらいお安い御用です」
ゆずりが困ったようにはにかめば、本多は苦笑しながら頷き返した。
目の前のカウンターの上に積まれているのは十数部ほどある文芸誌「さぼてん」だ。
「冬原さんの短編も載っているんでしょう? あとでゆっくりと読ませてもらうわね」
「あはは……。ありがとうございます……」
司書室で帰宅準備を急ぎながらも、本多がにこりと笑いかけてきたため、ゆずりは気まずげに視線を逸らした。
ゆずりが所属する文芸部は毎年、春と秋の二回「さぼてん」と呼ばれる文芸誌を発行する。
特に文化祭で販売する「さぼてん」は春に発行するものよりも分厚く、三年生の部員にとって最後に作り上げる集大成とも呼べるものだ。
春の時は五十部ほど刷るが、文化祭の際は百五十部刷るのが通例だった。
しかし、不手際により二百五十部刷ってしまい、現在、大量の在庫を抱えている状況なのだ。
文化祭は二日間あるため、最終日である今日のうちに在庫を減らせるところまで減らしたいというのが文芸部員たちの総意だった。
「文芸誌の売れ行きはどんな感じなの?」
「うーん、他にも販売場所を設置しているらしいんですが、昨日の時点で五十部ほどしか売れていないそうです……」
ゆずりがいる図書室だけでなく、他にも人の行き来が多い場所で出張文芸部をやっているそうだが、あまり売れ行きは宜しくないようだ。
「そうなの。……それじゃあ、二部ほどいただこうかしら」
支度を整え終わった本多がゆずりへと手渡してきたのは、二部分のお金だった。
「えっ、あっ、え……!?」
「ふふ。私ね、文芸部が発行する『さぼてん』のファンなの。……図書室用にいつも一部、置かせてもらっているけれど、やっぱり自分の手元に持っておきたいのよねぇ」
「で、でも、どうして二部も……」
「そりゃあもちろん、自分用と保存用よ」
なるほど、とゆずりは小さく首を傾げながらも、本多に文芸誌を二部、手渡しした。
「あとで感想を伝えるわね」
「……ありがとうございます。先輩達もきっと喜びます」
「あっ、そろそろ行かなきゃ。……それじゃあ図書当番、よろしくね。早めに閉めてもいいから」
「はい、戸締りする時はしっかりと確認しますね。本多さんもお気をつけて」
早足で去っていく本多を見送りつつ、手渡されたお金へと視線を落とす。
「……えへへ。嬉しいな」
初めて、自分のもとから文芸誌が売れたことが嬉しくて、ゆずりはふにゃりと笑った。
何と言ったって、文芸部に入って一年目のゆずりが書いた短編がこの「さぼてん」には載っているのだ。
創作をする人間として、自分が書いたものが誰かに読まれるのは気恥ずかしくも嬉しいものだ。
すると、自分以外に誰もいないと思って油断していたゆずりの頭上から声が降ってくる。
「──司書の本多さん、急いでいたみたいだけれど、図書室はもう閉めるのかい?」
「ひゃっ」
突然の声に驚いたゆずりの手元から、お金が弾いたように離れていく。
百円玉が三枚、カウンターの上に転がるも、もう一枚は大きく跳ねたことで、向こう側へと飛んでいってしまった。
「おっと」
そんな百円玉を軽々と掴み取ってくれたのは、声をかけてきた男子学生だった。その反射神経の良さにゆずりは目を瞠ってしまう。
「はい、どうぞ。驚かせるつもりはなかったんだ、悪かったね」
ゆずりの手にぽとりと百円玉が落とされるも、いつもと同じく相手の目を見ることが出来ずにいた。
「い、いえっ。お手数をおかけして、申し訳ありません……。受け取って下さり、ありがとうございます……」
事前に文芸部の先輩から渡されていた小銭入れにお金を仕舞ってから、ふぅと息を吐く。
そして先程、男子学生からの問いかけに応えることにした。
「えっと、司書の本多さんはどうしても外せない急用で帰宅することになりまして……」
「そうなんだ」
返事を聞いて、すぐに図書室から出ていこうとした男子学生だったが、ゆずりは思わず呼び止めてしまう。
「あ、あのっ」
思わず立ち上がってしまった自分に驚きつつも、言葉を続けた。
「私が図書当番をしているので、図書室をすぐに閉めることは、ありません。それ、と……本は問題なく、借りられますので……」
最後の方は尻すぼみになってしまったが伝えたいことは伝えられたと、ほっとしたゆずりはこの時やっと、男子学生の顔を見た。
人の顔と名前を覚えるのが苦手なゆずりでも、一度、目にしてしまえば頭に残ってしまうような端整な顔立ちだが、何よりも憂いを含んだ瞳が印象的な人だった。
まさか呼び止められるとは思っていなかったのか、男子学生は目をぱちくりと瞬かせていた。
「……ええと、なので……お好きなだけ、図書室にいてくださって、大丈夫です……」
男子学生は身体の向きをゆずりの方に変えた後、目を細める。
「図書当番、押し付けられたのか?」
「いえっ。私が、自分で希望したんです」
いつもならば、相手の目を見て話すことなんて出来ないのに、今だけは何故か違った。ゆずりはどこか挑むように彼を真っ直ぐ見上げる。
「図書室が必要な人のために、文化祭の時でも開けておきたくて……」
「……そう。奇特だね」
彼はそう呟いた後、踵を返し、本棚の方へと向かっていった。どうやら本を読みに来た人だったようで、この対応に間違いはなかったことを実感し、安堵する。
少しだけ緊張したものの、ゆずりはカウンターの椅子へと座り直した。
今、図書室には自分と先程の男子学生しかいないため、普段以上に室内は静かだった。
……そうだ、せっかくだし今度の読書週間の準備でもしていようかな……。
ゆずりは図書委員会に所属している。先日の委員会の際に、図書委員長が十月の終わり頃から読書週間が始まるため、それに伴って小さな企画を行うと言っていた。
読書週間中に読書カードが配布され、そこに読んだ分だけスタンプを押し、集まったら好きな栞が選べるという企画だ。
その栞は図書司書の本多だけでなく、図書委員も総出で作らなければならず、数が必要となるものだった。
ゆずりは可愛らしい絵にラミネート加工が施されたものを鋏で切っていく。
そして、穴あけパンチで一つずつ穴を開けた後、鮮やかだが決して主張しすぎない栞用の紐を丁寧に通して、結んでいった。
時折、視界の端で動く影が見えたが、恐らく男子学生が本を求めて、本棚を移動しているのだろう。
ただ静かに、時間だけが過ぎていく。
その間にも、図書室を訪れる者は彼以外にはいなかった。
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