5.伝染病
ライブ本番はあっという間に過ぎ去っていく。演奏する五曲のうち、四曲がすでに終わっていた。今はチューニングとMCの時間。レナさんが何か話している間、私はアンプの側に置いた水を口に含む。身体全体が火照っていた。それはひとつにはステージの照明が放つ熱が原因だろうし、もうひとつにはライブ特有の高揚によるものだろう。演奏している間はまるで熱病に浮かされているみたいだった。先輩達の前で、レナさんとア・プリオリを演奏している。その実感が湧かないままだった。それでも。意識ははっきりしていた。明らかなプレイングミスなどはなかったはずだ。あるとしたら、次の曲。
「えー、このバンドは私が集めたバンドなんです。はじめにベースのユイちゃんに声かけて、そのあと西山にもお願いして。みなさん知ってると思うけど、私ア・プリオリめっちゃ好きで。それでユイちゃんも、私によく懐いてくれる大好きな後輩で。大好きな人たちと、大好きなバンドの大好きな曲を演れて光栄です。じゃ、最後の曲です、ありがとうございました」
レナさんがそう言うと拍手が起こった。その波が終われば、演奏が始まる。とりあえず今は、演奏に集中。
ドラムの四カウントから曲が始まる。イントロからベースは大きく動く。でも走りすぎないように。後ろにノリを置きながら、バスドラのリズムを聴いて。
Aメロ。ここは八分でルートをなぞる。でも油断するな。ボーカルに寄り添うように。引き立てるように。
Bメロ、ドラムが細かく刻み始める。リズムの拠り所がなくなるからこそ、音符の長さを意識しろ。キメで休符。
ピッキングを強くする。サビだ。担当する音域が一気に増える。音粒はそろえて、でもダイナミクスも意識して。リズムの頭をシンバルに合わせる。ギターが抜けた音域をベースが支える。ここで前に出すぎないように。フレーズを二回し繰り返したら、来る。
エフェクターを踏む。ベースソロだ。ここで一気に前に出ろ。間違えてないかなんて考えるな。練習を信じろ。リズムを刻んで、盛り上げて、盛り上げて、膨らんだ風船が破裂するように、最後に、
キメだ。三つの楽器が同時に鳴る。きまった。やりきった。
拍手が聞こえる。ステージのライトが激しく明滅する。でも、それらは次第に私の意識の外へと遠ざかっていくように感じる。レナさんと目が合う。目が離せない。世界が後景へと消えていき、それと反比例してレナさんの心象が拡大するように私に迫る。私とレナさんしかこの場にいないように錯覚する。私は不器用に笑ってみせる。レナさんはしかし、ぼうと呆けているばかりだった。その瞳には私の姿が映っていたが、私は映っていない。そんなふうに錯覚した。
私達は楽器を背負って、河原町まで歩いていた。やはりレナさんは徒歩で、私は自転車を押していた。冬の夜の空気が、私達の火照った身体を冷ましていく。見上げた星々は、凍り付いた空に冷凍保存された鉱石の欠片のように見えた。
「今日、うまくできましたね」
「うん」
「ベースソロもやりきりました。先輩達のおかげです。ありがとうございます」
「ううん」
横を歩くレナさんの返事は曖昧だった。表情はマフラーに隠れてよく見えない。ちょっと様子が変だ。そういえば今日は、ライブが終わっても煙草を吸わなかった。
程なくして河原町に着いた。もうレナさんは階段を降りるだけだ。彼女はしかし、一向にそうしようとはしなかった。俯いたまま私の横に立ちすくんだままでいる。
「ねえ」
レナさんは小さな声を漏らした。ともすれば誰にも聞こえないような、細い声。それを聞くことは、まるで雪の結晶を手のひらに載せるような、そんなささやかな奇跡であるかように思われた。私は消えていくそれを逃さないように、神経の全てを耳へと向けた。
「はい」
「ユイちゃんさ、私のこと好きって言ってくれたよね」
「はい。そしてそれは、レナさんも」
「うん、そうだね。それでさ、その好きはどんな好きなんだろう?」
私は黙った。たぶんそこには沈黙が必要だった。レナさんのこの疑問には、たぶん然るべき注釈がいる。そして彼女の方も、そのことを前提として話しているような感じがした。
「バンドが好き、曲が好き、食べ物が好き、ペットが好き、俳優が好き、季節が好き、友達が好き、恋人が好き。たぶんこの全部が違うものなんだろうとおもう。とても細かな違いであれ、やっぱり違うことに変わりはないんだろうとおもう。そしてその小さな違いが、大きな意味を持つこともあるのだとおもう。ねえ、じゃあさ、ユイちゃんが言う好きは、どんな好きなのかな」
難しい問いだった。二つの意味において。この問いの正解は何なのか、そしてレナさんはこの問いを通して、私に何を求めているのか。どちらも難しかった。正解に確信なんてなかった。だけど、ひとつだけ確信できるのは。
「私は、ア・プリオリが好きです。『伝染病』も好きです。レナさんも好きです」
「うん」
「でもそれは、恋愛なんかじゃない」
私はレナさんが好きで、ほんとうに大好きで、でもそれは、好きだから大事にしたい、そんな感情だ。恋だなんて汚いものじゃない。言い換えるなら憧れだ。レナさんのように芯のある美しい人になりたい。ア・プリオリのように真っ直ぐ世界を歌いたい。その二つの違いはたぶんないはずだ。それなら、やっぱり恋ではない。そしてそれは、レナさんが求めている答えでもあるはずだ。だってレナさんもア・プリオリが好きで、だからこそラブソングなんて、恋愛なんて好きなはずはないのだから。
「そっか、そうだよね」
レナさんはそう言った。融けかけた雪の結晶のような声だった。そして阪急の階段の下へと消えていった。暗がりへと消えていく彼女の背中はやけに小さく見えた。そして私はひとりになった。二月の冷たい風が吹き抜け、それはひとりの人間には酷く厳しいものだった。こんな寒さなら雪でも降ってほしかったけれど、その気配は見られなかった。不安になるほど晴れた夜だった。
間違ってないよな。私は心にそう反芻する。間違ってないよな。
間違っていないはずなのに、なんだか胸が切なかった。
その日から、レナさんは私の知りうるあらゆるコミュニティから姿を消したらしかった。軽音サークルは退会し、大学も辞めたようだった。それは学生課に問い合わせて確認した。間違いなかった。間違いなく、レナさんは私の前から姿を消した。
なんでだよ。なんで、何も言わずに消えるんだよ。私は何も分からなかった。そして私は、レナさんのことを何も知らなかったことに気がついた。住所も、電話番号も、突如消えた意図も、あの日の問いへの正しい答えも。ひとつ季節が過ぎて、春になった。私は二回生になった。それだけだった。いくつかの肩書きが変わって、いくらかの後輩ができただけで。それらは全て私の外縁に過ぎなかった。私自身は何も変わらなかった。「私は何かを間違えたのかもしれない」。その疑念だけが膨らんでいった。
レナさんからの手紙が下宿に届いたのは、その年はじめて蝉が啼いた日のことだった。暴力的な夏の気配が春の面影を塗りつぶしていく中で、私はそれを手に取った。手紙は不自然なほど冷たく感じられた。
どうしてレナさんが私の下宿の住所を知っているのか。そんなものどうでもよかった。私は急く気持ちを抑えて、一文字も読み落とさないように、手紙を読み始めた。
「急にごめんなさい。びっくりしているかな。レナです。私のこと憶えているでしょうか。もしも憶えていなかったら、もうこの手紙は捨ててください。実のところ、私はそうしてほしいとさえ思っている。でも、もしも私のことを憶えているのなら、ごめんなさい、この続きを読んでほしい。
私が急にあなたの前から消えたこと、怒っていると思います。当然だよね。理由も話さず消えたのだから。本当はもっと早く伝えるべきだったけれど、なかなか気持ちの整理がつかなかったんです。いや、こんなこと言っても仕方がないのは分かっています。ごめんね。
何から伝えればいいのだろう。何から伝えても間違いであるような気がして、なかなか筆が進まない。ではまず、謝らないといけないことから。それが何かというと、きっとあなたにとってとても大事なことを、私は隠し続けていたということ。ごめんなさい。つまり、この前自殺したア・プリオリの元ベーシストは、私の兄であるということを。
あなたは、懶がなぜ死んだか知っていますか? ひとり旅をしているときに事故に遭った。一般的にはそう言われています。でも私は違うと知っている。あれは事故にみせかけた自殺だった。なぜ自殺したか。そう、あのひとは、懶は、恋に破れて死んだのです。そして彼を振ったのが、私の兄であるということです。
ねえ、わかるでしょう? 当時は今よりもずっと、同性愛に対しての偏見が強かった。そして私の兄も、その偏見を持っていたひとりだった。兄は懶の告白を、酷い仕方で振ったそうです。友情の裏切りだとか、そんな言葉で。それにショックを受けた懶は、『伝染病』という曲を書いて死んだ。
あなたは、あのア・プリオリのあの懶が、そんな理由で死ぬはずないと思うでしょう。あれだけ恋や愛ではなく、不条理や希望を歌っていた懶が、よりによって失恋によって死ぬはずがない、と。しかし、それは違うのです。ア・プリオリの曲は、どうしようもなく、全てラブソングなのです。一曲残らず、全て。『鈍色と虹色』も、『蓮』も、そして『伝染病』も、そこで歌われる全てはメタファーに過ぎなかった。燃え上がる恋の感情を、彼は迂遠な比喩で表現していた。彼には、そのような遠回りが必要だった。つまり、同性愛を、同性愛として歌うためには。
それは、兄も気づいていなかったそうです。でも、懶が死んで、彼の気持ちの強さが分かって、ようやく気がついた。自分の罪の重さに。兄が十年間、何をしていたか知っていますか? ずっと、自分を責めていたんです。十年間。欠かさず、毎日。毎日ア・プリオリのベースを弾いて、それによって自分自身を責めていたんです。でも、それにもう耐えられなくなってしまった。兄は首を吊って死にました。そしてその傍らにはベースがあった。
兄の死によって、私もようやく懶の死の意味が、彼の書いた詩の意味が分かりました。でも、私はそれを否定したかった。恋愛感情なんかがなくても、ア・プリオリの曲を演奏することができる。そう証明したかった。そうして、なんだろう、兄の死をも否定したかったのだとおもう。
だから私は、あなたに声をかけたんだよ。恋愛を知らないあなたとア・プリオリを演奏することで、私はそれを叶えたかった。
でも、ごめん、無理だったね。懶が詩に仕込んだ恋愛の感情は絶大だった。それはまるで呪いのようだった。あるいは病のようだった。それをひとつ歌うごとに、彼の感情が私にも入り込んでくる。ただの可愛い後輩だったあなたが、あのライブで頑張っているのを見て、好きになってしまったんだよ。これは、紛れもなく、恋愛として。こんなことははじめてだった。そう、はじめてだったんだよ。私が恋なんてしたのは。今までどんな男にも(そして女にも)恋愛感情を持ったことがなかった。持てなかった。でも周囲の人たちはみんな恋をしていて、恋を歌っていて、置いていかれるような焦燥感があった。そんな私を慰め、そして受け入れてくれるのが兄の、そして懶の、ア・プリオリの歌だった。しかし今は、もうそれが持つ意味が逆転してしまったけれどね。
だから私はあなたに、あなたの感情を訊いたんです。「ユイちゃんの好きとは何か」。その答えに一抹の期待を持って。あわよくば、私とあなたの気持ちが重なることを願って。
でもあなたは、私に恋愛感情は持っていないと言った。きっぱりとした口調で。つまり私は振られたんです。だから、私は、あなたの側にいるべきじゃなくなった。いや、いたくなかった。だから消えた。
ごめんなさい、本当に。こんな自分勝手な理由で。でも、これはもう逃れようもない。なぜなら、懶が言うにはそれは、伝染病なのだから。」
それで手紙は終わった。それが、レナさんの伝えたいことの全てだった。
なんだよ、それ。ふざけるな。どいつもこいつも、恋愛のことばっかり。ふざけるな。私が愛したア・プリオリは、レナさんは、どこにもなかったっていうのかよ。なあ、それならば、この胸の痛みは何なんだよ。
私は手紙に鼻を押しつけた。レナさんの、煙草の匂いが香っていた。
「ユイさん、今回のライブかっこよかったです!」
ライブハウスの喫煙所で煙草を吸っていると、一回生に声をかけられた。丸眼鏡をかけた、三つ編みの女の子だった。名前は知らない。二個下とまでなると、なかなか覚えようという気も起こらない。私はそんな思考を誤魔化すように笑って、「ありがとう」と返す。
「あの、私、ユイさんの黒くて長い髪とか、ピアスに憧れてて。あ、あの、煙草も、同じ銘柄のやつ」
彼女は煙草の箱を掲げた。私と同じパッケージ。そしてそれは、あのひととも。ああ、そうか。昔のことを思い出す。私は煙を吸った。煙草の匂いがした。
「ユイさん、この煙草よく吸ってますもんね」
彼女は笑った。私は煙を吐き出す。
「うん、好きだから」
伝染病 橘暮四 @hosai
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