4.鈍色と虹色
ア・プリオリの元ベーシストが亡くなったというニュースがSNSで流れたのは、年が明けてすぐのことだった。この報せは、ふたつの理由でファンの中で話題を呼んだ。ひとつにはそれが自殺であったから、もうひとつには、懶が亡くなってから十年間、彼の消息が全く分かっていなかったから、だった。彼は懶の死後、別のバンドを組むことも、ソロ活動をすることもなかった。音楽を辞めて、どこかで普通に働いているのだろう、というのがファン達の共通見解だった。そして十年ぶりに彼に関する情報が入ってきたと思ったら、それが自殺の報せだった、ということだ。何が彼を自殺にまで追い込んだのか、それは全く報道されなかった。ただ、大阪にある彼の実家で息を引き取ったという情報だけが、私たちファンに対して知らされた。
『私と一緒に、ア・プリオリのコピバンやらない?』
レナさんからそんなメッセージが届いたのは、それからさらに二週間ほど経ってからのことだった。私はそのときちょうど、ア・プリオリのライブ映像をユーチューブで観ていたところだった。驚いて、思わずライブ映像を止めた。スマホの電源を切ってベッドに投げる。え、見間違い? 私はまるで、草陰にある石の裏をそっと覗き込むように(そして、そこにいるであろう気味の悪い虫たちを怖いもの見たさで探し求めるかのように)スマホの画面を見た。やはりそこには、先ほど見たのと同じメッセージが表示されていた。レナさんと、ア・プリオリのコピバン。でもどうして? 頭には疑問符が浮かんだけれど、それさえ吹き飛ばしてしまうほど魅力的な提案でもあった。即断即決で二つ返事をしてしまいそうだった。いやでも。落ち着け。それだからこそ、慎重に話を進める必要がある。何か深い事情や、思考があってのことなのかもしれない。私は大きく深呼吸してから、「今まで一緒にやってきたメンバーの先輩たちはどうしたんですか」と返信した。煙草一本分ほどの空白が空いてから、既読がついた。
『ちょっとね、気まずいんだよ』
「どうしてですか? 喧嘩ですか」
『いや、それだったらまだよかったんだけど』
「?」
『あいつら、付き合い始めたんだよ。ベースとドラムが。そして私だけ仲間はずれ』
「え、いつからですか?」
『あの秋のライブのころにはもうデキてた。そのことはライブ直後に知らされたんだけど。ずっと、なんか変だとは思ってたんだよ。練習中もやけに距離近いし、帰りは同じ方角にふたりで歩いてくしで』
私もそれには少しばかり驚いた。その先輩達はサークルで何度も見かけていたし、何回かお話ししたことさえあったけれど、恋愛関係に至るような感じには見受けられなかった。しかもそれが、ア・プリオリのコピバンにおいて、というのが妙だ。ア・プリオリの曲は聴いていてロマンティックな気分になるものではないし、ましてやそれを弾くことで恋愛感情が取り結ばれるなんてことはないだろう。そんな甘い気持ちに浸りながら弾けるほど、ア・プリオリの曲は甘くない。色々な意味において。そもそも、ア・プリオリは、懶は、そういったものを遠回しに否定してきた(ように、少なくとも私には思われた)はずだ。でも実際彼らは互いに恋に落ちていて。実際のことは、当人達にしか分からないのかもしれない。少なくとも、私がお気持ちを述べるような事柄ではない。
「なんていうか、大変ですね」
『ね。気まずいでしょ』
『だから』
「だけど」
『ん?』
「どうして、私なんですか」
やはりそれが、一番の疑問だった。ア・プリオリは、決して簡単なバンドとは言えない。しかもスリーピース・バンドなのだから、なおさら個人の確かな技量が必要とされる。大学初めでお世辞にも上手くない私にとって、そのベースというのは明らかに荷が重かった。そして私以上に上手い一回生なんて、他にいくらでもいる。
『ユイちゃんはもっと自分に自信持った方が良いね』
「自信持てるほど上手くないです……」
『そうじゃなくてさ』
そのメッセージが送られてから、やや空白が続いた。その言葉には明らかに続きがあるのに、それが明らかにされないまま、更新されないチャット画面だけが残った。それはまるで、生活感を残したまま生活者だけが消えた部屋を見ているようで、落ち着かない気持ちになった。そうじゃなくて、なんなのだろう。私は言葉を待った。帰り人を待つように。
『私が、ユイちゃんとバンドやりたいんだよ』
『上手さとかじゃなくて、単純に』
突如画面に現れたその言葉に、思わずスマホを落としてしまいそうになってしまった。あのレナさんが、私と、バンド組みたいだなんて。
「やります」
いつの間にかそう返していた。私の中で、冷静さを司るひとつのたが(、、)が外れてしまったようだった。「私が、ユイちゃんとバンドやりたいんだよ」。もうそんなこと言われたら、断れるわけないじゃないか。
「やらせてください」
私がそう言葉を添えると、簡潔なスタンプが返ってきた。それで会話は終わった。スマホの電源を落とす。途端に身体からも力が抜けていくように感じる。ふわふわして現実味がない。とりあえず心を落ち着かせるために、ベランダに煙草を吸いに出た。
このコピバンは、二月末のライブに出演することになった。OBOGも出演するような、レベルの高いライブだ。レナさんがドラムも見つけてきてくれて、矢継ぎ早に曲まで決まった。王道とマイナーを織り交ぜたセトリだ。良いセトリ。そして、手応えのあるセトリでもある。すぐに迫った期末テストの勉強は全て後回しにして、早速個人練を始めた。
そして派手に単位を消し飛ばして迎えた初回練はしかし、成功したとは言い難かった。そもそも私は、スリーピース・バンドをやること自体が初めてだったのだ。スリーピースは楽器の数が少ない分担当する音域も広いし、誤魔化しが効かない。自分のミスが、バンド全体のミスに直結する。練習中、何回頭を下げたか分からない。
しかもシンプルに、ア・プリオリのベースラインが複雑で難しい。ア・プリオリのベーシストは男性だったから、ベースラインも男性の手の大きさを前提として作られている。手の小さい私にはどうしても指が届かない箇所がいくつかある。だからそこは簡略化するか、大きく腕を動かして無理矢理届かせるか、しかない。しかしそんなことやっているとリズムがブレる。ドラムとノリが合わなくなって、その上に載っているギターとボーカルの音もずれてしまう。初回練の帰りはそんな自分が不甲斐なくて、三条大橋の影でこっそり泣いた。冬の鴨川には人間どころか鳥や虫もいなくて、静かな嗚咽が誰に聞かれるともなく薄く響いただけだった。
だけど、そのような縦の合わせ方は、練習を重ねるにつれよくなってはきていた。レナさんと、ドラムの西山さんがしっかりリズムを作って私を引っ張ってくれるおかげだ。本番一週間前には、リズムのズレはほぼなくなっていた。だけど。
「やっぱり、ベースソロ難しい?」
練習終わり、私たちはスタジオの喫煙室にいた。そこにいるのは私たちだけだった。煙草を吸わない西山さんはもう帰ってしまっていた。狭いその部屋で、レナさんの吐いた煙と私の吐いた煙とが溶け合って混ざっていた。
「むずかしいです、正直。あれだけ大きくフレット移動しながら十六分刻みつづけるのが……」
「でも、あの曲は最後にばしっと決めたいでしょ」
「う、まあたしかに、『伝染病』ですし」
『伝染病』。懶が亡くなる直前に出したEPのタイトル曲であり、彼が生前最後に書いた曲でもある。伝染病の不条理と、それでもたくましく生きる人々を歌った曲で、なんといっても一番の大きな特徴はアウトロのベースソロだ。これでもかとベースのかっこよさを強調した曲で、だからこそ難しい。どれだけ練習しても、これだけは完璧にできたことはなかった。思わずため息が漏れる。そんな憂鬱を誤魔化すように、私は煙を深く吸った。そんな私の様子を見て、レナさんは笑った。
「なんか今のユイちゃん、新人ライブのときみたいだね」
「う、思い出させないでください」
「いいじゃない。あれでめでたく煙草デビューしたんだし」
レナさんはからかうような目線を送る。実際、思い出したくないといっても鮮明に覚えているのだ。忘れるはずがない。ライブのことも、その後のことも。
レナさんに憧れて軽音サークルに入会した私は、六月中旬にある新人ライブに出ることになった。しかもその日は、図らずも私の二十歳の誕生日だった(私は一年浪人していた)。それが良くなかった。つまり、せっかくの初ライブでしかも誕生日、気合いが入りすぎてしまったのだ。腕に力が入りすぎた結果手が思うように動かず、それなのに力だけは入っていたから、爆音でミスし続けるという最悪のパフォーマンスをしてしまった。観客たちの、そしてバンドメンバーたちの視線が痛かった。一刻も早くステージから降りてしまいたかった。現在進行形でミスを量産しながら、私は衆目から逃げることだけを考えていた。そしてなんとか出番が終わるとすぐに、視線を避けるようにライブハウスの外へ飛び出した。すると、そこで煙草を吸っているレナさんと鉢合わせた。レナさんは一瞬こちらに目線を寄越して、「おつかれ」とだけ言った。それ以外は何も言わなかったし、こちらを見もしなかった。それがかえって心地良かった。私はレナさんの横に腰を下ろし、しばらく喫煙所でぼうとしていた。煙の匂いは自然と気にならなかった。レナさんは相変わらず、自身の身に籠めた憂鬱を紫煙に換えて世界に吐き出していた。
「レナさんは、どうして煙草吸われるんですか」
無意識に声に出していた。なぜかは分からない。でもたぶん、私はレナさんが羨ましかったのだ。人の目線にびくびくしてうずくまっている自分と、人のことは気にせず堂々としているレナさんとを比べて、こんな風になりたいと、自然に思った。煙が空に昇って消えていくくらい、当たり前のことのように。
「これはぜんぶ自分の時間だから」
レナさんは一回大きく煙を吐いてから、そう呟いた。
「ライターや煙草を持ち運ぶのも、火をつけるのも、煙を吸って吐くのも全部自分で、自分のためにするでしょ。その結果気持ちが落ち着くのも、寿命が縮むのも、全部自分――もちろん受動喫煙には気をつけるけどね――。自分のために、自分を消費する。その、なんだろうな、自己完結な感じが好きなんだろうとおもう」
レナさんはそう言ってまた煙を吸った。当時の私には、そして今の私にとっても、その姿はどうしようもなく美しく見えた。私もそれになりたいと、強く思った。レナさんは、自分に見蕩れている私のことに気がついたのか、箱から煙草を一本、私の方に差し向けた。
「ユイちゃんも、吸ってみる?」
その薄い唇の形が変わるごとに、妖艶な白い息が口から漏れていた。私はその逆らいがたい提案を逆らうことなく受け入れ、手を伸ばした。気づいたときには私は、レナさんから煙草を一本受け取っていた。
左手に煙草、右手にライターを持って、私は数秒固まる。当たり前だけど煙草の付け方なんて知らない。とりあえず煙草の一端を口に咥えてみる。あ、そうか、この状態で反対側に火をつければいいのか。私は、さも最初から分かっていたかのように、ライターを近づける。指で着火口を弾く。しかしそれは乾いた音を鳴らすばかりで、一向に火はつかない。何度やっても同じだった。冷や汗が出る。まさか、ライターをつける段階でテンパるとは。
すると、ライターを持っていた左手がレナさんの手に握られた。細くて冷たい指が私の手に絡まる。あまりに急な刺激に、咥えた煙草を落としそうになる。
レナさんはそっと、私の手からライターを取り返した。そして慣れた手つきに火をつけると、私の煙草に近づける。「吸って」彼女のささやきが聞こえる。火が煙草の先端に触れると同時に、私は息を吸った。レナさんの甘い匂いがした。そして、煙草にも火がついた。
息を吸い続けていると、煙が肺へと入り込んでいくのが感じられた。これって吸い過ぎたら咽せるやつだっけ。これ以上失態は見せられない。苦しくなる手前で息を止めて、そして吐いた。煙が大きく私の視界を埋めた。口の中には、身体に悪そうな苦い味が残った。
「ハッピーバースディ」
レナさんが隣で笑った。いつの間にか、私達の顔は触れそうなほどまで近づいていた。心音が高鳴る。血液が全身を駆け巡っていくのを感じた。これは、たぶん、煙草のせい。私はそう自分に言い聞かせた。
手に持った煙草を、灰皿の底に押しつけた。そうだ、私はあのとき、レナさんに救われたからバンドを続けられている。そんなレナさんがバンドに誘ってくれたのだ。ならば私は、その気持ちに応えるより他はない。
私は両手で自分の頬を叩いた。
「レナさん、私がんばります」
私は宣言するようにそう言った。狭い個室の喫煙所では、その声はいやに響いて少し不格好。
「お、急だね。踏ん切りついた?」
「はい。私、レナさんのこと好きですから」
レナさんはさすがに驚いたようだった。目を丸くしてこちらを見ている。でも、実際そうなのだから仕方がない。つまりこれがぜんぶなんだ。私のぜんぶ。それが過剰だというのなら、私の音楽のぜんぶだ。
「うん、私もユイちゃんのこと好きだよ」
そう返したレナさんの声は少しだけうわずっていて、やっぱりそれも彼女の魅力だった。
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