第5章 遺されし思い
第45夜 交差する視線
御許町の宿場通りが、にわかに喧騒に包まれていた。複数の足音が宿の前をせわしなく通りすぎ、周辺を封鎖する声が明け方の往来にこだましている。
「おっ! ついに嗅ぎつけられたか!」
二階の窓の格子のすきまから外の様子をうかがった恭介が、口角を上げて嬉々とした声を発する。
旅籠『神田屋』の前には、そろいの隊服をまとった男たちが集まっていた。彼らの歩調に合わせて、刀の鍔鳴りがいくつも響いている。
「笑いごとじゃありませんよ、まったく」
「旦那方っ……! 大変だよっ……!!」
創二郎がため息をこぼすのと同時に、襖の向こうから女将が声をひそめて顔を覗かせた。その顔面は蒼白で、焦りからか息を切らせて視線が左右に揺れていた。
「えぇ、承知しています。女将さんは輝真組の指示に従って、安全なところへ避難してください」
こんな場面を万が一にも輝真組に見つかれば、彼女もただでは済まされない。それでも危険を知らせに行動してくれた女将に、一同は頭を下げた。
「女将、長いこと世話になったな」
「あぁ、あぁいいんだよ。あたしが好きで引き受けたことだからね。けど、あんたらは大丈夫なのかい?」
「我々のことはご心配にはおよびません。女将さんも、くれぐれもお気をつけて」
笠置一派の素性を知るのは女将ただ一人である。ほかの従業員たちは、客の一組が忠軍の幹部だと言われてもぴんとこないだろう。
もし輝真組に尋問されるようなことがあれば、女将には知らぬ存ぜぬを貫き通せと言ってある。匿った覚えなどなく、ただの長期滞在の客だと思って宿泊させていたとなれば、彼女がこの件で処罰されることはない。
後ろ髪を引かれる思いで階下へと戻って行った女将の姿を見送り、創二郎はそっと襖を閉じた。
「さーて、それじゃあお
すでに逃げる手筈は整っている。荷物自体は少ない。いつなにがあってもいいようにとあらかじめまとめておいたそれを背負うと、誰からともなく床の間の前へと集まった。
おもむろにその場にしゃがみこんだ進之助が、板張りの床のふちに指をかける。すると、蓋を開けるがごとく床板が持ち上がった。
その下には、建物を支える骨組みを利用して、平たい板が何枚もつなぎ合わされた下り坂が作られていた。
「笠置さん、お早く」
「まさか、これが役立つ日が来るとはなぁ」
急かす進之助の気も知らず、恭介はにやりと口角を上げた。
この宿を拠点にすると決めたのは、この仕掛けがあったからこそだ。巧妙に隠されたこの逃げ道は、からくり好きの初代の主人が秘密裏に作らせたもの。趣味が高じたのか、彼は忍者屋敷でも作る気だったらしい。
さすがの女将もこの隠し通路の存在までは知らないようで、以前それとなく聞いてみたが話が噛み合わないどころか建設当時の図面も残されてはいないそうだ。
「いいからさっさと下りてください。あとがつかえてるんですよ」
「ぐえっ」
しびれを切らした創二郎が、遠慮なく恭介の背中を蹴る。無防備な状態のまま床板の中を覗きこんでいた恭介が、そのまま頭から床の間の中をすべり落ちていった。
「佑介くん、お先にどうぞ」
次いで佑介、創二郎と、順に坂をすべっていく。体をうしろに倒して、せまい骨組みの間を縫ってすべっていくのは、なかなかに恐怖心を煽ってくるものだ。
「進之助、先に行け」
「いえ、ですが」
「いいから」
そう言って、朱里は進之助の反対側に膝をついた。重たい床板を、進之助に取って代わるように支える。
「長岡さん……?」
「……あとは、頼んだ」
朱里の目が、まっすぐに進之助を見つめていた。
進之助は無言のまま深く首を上下させると、残りの荷物をかかえて床下へと身を投じる。地下で待つ三人が、蝋燭を灯して上を見上げていた。
「朱里?」
「なにやってんだ、早く来い!」
恭介が下から叫ぶ。しかし、朱里はそこから動こうとはしない。いくつもの自分を見上げるまなざしを、朱里は穴の上からしっかりと目に焼きつけていた。
「しゅ、り……?」
嫌な予感がした。
背中を冷たいものが通りすぎ、佑介の心臓が警笛を鳴らす。
「……朱里? まさか……!」
「俺がやつらを足止めする。あんたらは、先に行ってくれ」
「朱里!? おい! ちょっと待て!!」
止める恭介の声に聞こえないふりをして、朱里は静かに床板をもとの位置に戻した。今朝仲居が花を生けたばかりの大ぶりの花瓶を、その真ん中に据える。
深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出せば、部屋は静寂に支配された。
朱里は床の間から離れ、部屋の真ん中でじっと襖をにらみつける。刀に添えられた手に力がこもった。
階段を駆け上がる足音が、部屋の前で止まる。ゆっくりと、焦らすように襖が左右にひらかれた。
「やあ、また会ったね。紅夜叉さん」
隊士たちを引き連れて、聖がそう言って笑っていた。
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