第44夜 背中合わせの

 誰も、なにも言えなかった。どう言えばいいかわからなかった。いつも見ていた彼女は、そんな重たい過去を背負っているとは微塵も感じさせなかった。この子はきっと、さぞ幸せな家庭で愛情を一身に受けながら育ったのだろうと、勝手に想像してしまっていた。

 だが現実はあまりにも凄惨で、残酷で、かわいそうなどという陳腐な言葉では言い表せられない。否、それすらもはばかられるような。


「で、でもさ! 巴が詰所にいるときに、夜叉が出たこともあったじゃんか!」


 巴が詰所に泊まりこみで手伝いに来ていた夜、夜叉はたしかに凶行におよんだ。哉彦は出動前に、寝巻き姿の彼女に会っているし話もした。夜叉を取り逃がして詰所に戻ったときも、彼女は同じ出で立ちで出迎えてくれたのだ。

 巴が紅夜叉ではない可能性をいまだ捨てきれず、哉彦が声を荒らげる。


「おれ、出動前にあいつに会ってるんだ! 帰って来たときも出迎えてくれたし、どう考えてもあいつに犯行は無理じゃんか!」

「夜叉が、ってことじゃないの?」

「っ!?」

「たしかにな。俺たちがそれぞれに対峙した夜叉も、世間でうわさされてる情報も、背格好やら刀捌きやらに食い違いが生じてる。とても一人の人間だとは思えねぇ」


 哉彦の訴えをいとも容易く退けたのは聖だった。あとに続いた龍三の言葉に、彼は同調するようにうんうんとうなづいてみせる。


「もう一人の夜叉は男だよ」

「なんでわかるんだよ」

「だって僕、会ったことあるもん」


 あっけらかんとそう言ってのけた聖に、それまで黙っていた徹也が深々とため息をついた。


「ったく、なんですぐに報告しねぇんだよ、馬鹿が」

「だって確証がなかったんですもん」


 そう言って肩をすくめる聖に、徹也は再度息を漏らした。


「まぁとにかく、夜叉が二人いると仮定すれば、丹波なんとかっつーおっさんの事件も説明がつく」


 龍三の指摘に、聖も徹也も納得の表情を浮かべていた。


 発見当時、丹波吉左衛門は夜叉と相対したであろう従者たちに背を向ける格好で息絶えていた。刀を握っているにもかかわらず争った形跡がほとんどないことから、彼は一撃で仕留められたのだろう。

 仮に夜叉が一人だとすると、逃げた丹波を追いかけて斬りつけたとすれば、当然刀傷は背中にあるべきだ。しかし丹波は、正面から斬られていた。

 もし逃げた丹波が追いかけてくる夜叉を迎え討とうしたならば、彼の頭は従者のほうに向けられているはずである。現場の状況から察するに、夜叉が二人いたとするほうが辻褄が合う。


「ちなみにですが、山科巴はここ数日、葵家にも出ていません。女将の話では、故郷くにに帰ると言っていたそうです。荷物もすべて処分されていました」

「いままでの話が本当なら、巴ちゃんには帰るところがないよね」


 聖の指摘に、室内は沈黙に包まれる。家族を殺された巴には実家と呼べるものがない。彼女を引き取った親戚も、早々に彼女を売り飛ばしたのだ。いまさらそこに帰れるはずもない。


「今回の調査で、笠置一派の潜伏先も判明した」静寂の中、徹也の低い声だけが響く。


「明朝、笠置一派の身柄確保のため突入する。各自、準備を怠るな。以上だ」


 息を飲んだのは哉彦ただ一人。静かにつむがれた言葉が、それぞれの胸に重くのしかかる。

 解散を告げる徹也の声に、龍三は哉彦を促して部屋をあとにする。それを追いかける耕平も、なんとも言えない表情を浮かべていた。

 三人の足音が遠ざかっていくのを、聖は耳だけで見送る。


「ねぇ加茂さん」静かに口をひらいた聖が、おもむろに徹也を見やる。


「今回の作戦、哉彦ははずしてあげてほしい」

「ぁあ?」

「あいつは優しすぎるから、きっと僕みたいに割りきれない」


 巴と刀を交える可能性がある以上、情を捨て職務に徹する必要がある。だが哉彦が事実を受け止めきれていないのはあきらかで。微塵も巴に対して疑念をいだいていなかった彼には、とてもじゃないが短時間でそれを飲み込むことなどできようはずもない。


「俺たちは輝真組だ。甘えは一切許されねぇ」


 眉を寄せて無理やりに笑顔を貼りつける聖に、徹也はそのひと言だけを冷静な声色で突きつけた。



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