第40夜 ひとときの安らぎ

「お前、左腕どうした?」

「へ?」


 一瞬、なにを言われたのか理解ができなかった。きょとんとした表情で彼を見れば、徹也は湯気の立つ茶をそろそろとすすっている。


「さっきからかばってるだろ」

「っ!」


 巴はおもわず息を飲んだ。まさか見破られるとは思ってもいなかった。昨晩、左手首に負った傷は、処置を施したものの動かすとまだ少し痛い。くっつきかけた傷口が皮膚を引っ張っているせいである。

 気づかれないように自然に振る舞っていたつもりだったが、着物の袖口から包帯が見えないようにと気をつけていたのが逆に仇となったらしい。


「痛めたのか?」

「そ、そうなんです。今朝寝ぼけて階段踏みはずしちゃって。びっくりして手ぇついたら、ひねっちゃったみたいで」


 咄嗟に考えた言い訳を、巴は早口でまくしたてる。胸の前で両手を重ねて、左手首の包帯を隠すように右手を添えた。怪我をした本当の理由が理由なだけに、あまり深くは追求しないでほしい。


「巴ちゃん、大丈夫?」

「はい、ちょっと痛めただけなんで。だけどしばらくは、葵家の仕事はお休みで」そう言うと、心配そうに小首をかしげた聖が残念だと眉を下げた。


「おーい聖ー、どこだー?」

「哉彦だ。ここにいるよー」


 中庭の向こうから呼ぶ声に、聖は障子の奥を覗きこむようにして手を振って応えた。するとばたばたと縁側を歩く足音が近づいてくる。

 障子の影からひょっこりと顔を覗かせた哉彦のおかげで、怪我のことについてはこれ以上詮索されずに済みそうである。


「あ、いたいた。聖、じっちゃ、じゃなかった。組長が呼んでるぜ」

「お爺ちゃんが? 痛っ……」


 組長をお爺ちゃん呼ばわりする聖に、すかさず徹也の手のひらが飛ぶ。たしかに外見は普通の温厚な老人なのだが、仮にも彼らの上司である。

 哉彦もそう言いかけたことは聞かなかったことにしようと、巴は苦笑いを浮かべた。


「哉彦、お爺ちゃん道場?」

「おう」と短く答えた哉彦の声に、聖は湯呑みに残った茶を一気に飲み干すと、そそくさと腰を上げる。


「巴ちゃんに手ぇ出しちゃだめですよ? 加茂さんの助平」

「くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと行け」

「はぁーい」


 徹也が追い払うように空中で手を払う。まるで扱いが犬である。

 くすくすと笑いながら部屋をあとにする聖の足音が道場に向かうのを聞き流しながら、徹也は哉彦へと視線を向けた。


「哉彦、龍三んとこが巡回から帰ってきたら、休むように伝えてくれ」

「わかった!」

「それとお前、一昨日の巡回記録出してねぇぞ」

「……やっべぇ忘れてた! すんません!」

「今日中に出しとけよ」


 徹也にそう言われて哉彦が慌てて自室へと駆けていく。


 残された二人の間に流れる沈黙。だがそれは非常に穏やかで、嫌な沈黙ではなかった。

 飲みかけの湯呑みを手にして文机に移動した徹也の背中を眺めながら、巴は小さな金平糖をひとつ口に運んだ。どうやら彼の休憩は終わりらしい。


「……」

「……」

「……巴」

「はい?」


 不意に声をかけられる。出てけとも言われなかったので居座っていたが、やはり気が散るのだろうか。邪魔だと言うなら縁側か隣の部屋に移動するしかないが、どうやら徹也の様子をうかがうに、そうではないらしい。

 肩越しにちょいちょいと手招きする徹也に、巴は素直に応じて彼のそばに膝をついた。


「って、へ? え?」


 無言のまま自身に向かって伸ばされた手の行方を首のうしろに感じると同時に、体が前のめりに倒される。ぽすん、とふれた左の頬に当たる袴の感触に、巴はなにが起きたのか理解できず頭が混乱していた。


「お前、あんま寝てねぇだろ。しばらくしたら起こしてやるから、ちっと寝てろ」

「え、あの……」


 徹也の言葉に、巴はおもわず目を丸くした。まさかそこまで見破られるとは想定外である。たしかに昨日の朝から一睡もしていないのは事実であるが、うっすらとにじんだ目の下の隈は化粧でごまかせているはず。


――でもだからってこんなっ、どうしたら……。


 思いもよらぬ状況に必死に頭を働かせるが、やはり寝不足のせいもあってうまく思考が回らない。どうしたらいいかわからずに、巴は困惑した表情で徹也の膝に頭を乗せたまま視線だけで彼を見上げた。


「特別だからな。ありがてぇと思え」


 ちらと巴を見遣った徹也は、すぐにまた視線を書類に戻す。だが片手はふんわりと巴の頭をなでていた。

 心地よいぬくもりに、巴のまぶたが自然と重くなる。正直、昨日からの疲労と寝不足で少々頭痛していたのだ。子どもを寝かしつけるような徹也の手に無意識に安堵感を覚え、巴は彼に身を委ねて意識を手放した。


――眠ったか……。


 数分とたたぬうちに重みを増した膝の感覚に、徹也はそっと息をつく。彼は座椅子の背もたれに掛けていた羽織を手に取ると、猫のように背を丸める巴にふわりとかけてやった。


 そうして、巴の桃花色の着物の袖口から覗く包帯に目を留めた。指先でなぞった真っ白な包帯に、うっすらと血がにじんだ痕跡が残っていた。



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