第39夜 裏と表
◇◇◇◇◇
「いっ……!」
行灯の薄明かりの中、佑介はさびれた四畳半で小さく声を上げた。消毒液のにおいがつんと鼻をついたが、それ以上に手首の傷にしみるじんじんとした痛みに指先が震えた。
「珍しいですね。あなたが怪我をして帰ってくるなんて」佑介の細い手首に包帯を巻きながら、創二郎は率直な感想を述べた。
「少し皮膚をかすめただけで、大事には至らなくてなによりです。傷口がふさがるまで多少の痛みは残るでしょうが、なるべく安静にしておいてくださいね」
いつもと変わらぬ微笑みを浮かべているはずなのに、創二郎の表情が少なからず安堵しているように見えるのは気のせいではないだろう。
輝真組に対する佑介の足止めが功を奏し、恭介たちも無事に逃げきったとつい先ほど連絡があった。とりあえずは一段落である。
「どうでしたか? 副長さんと対峙した手応えは」
なんとはなしに、創二郎がたずねる。
しかし佑介からの返答はない。うつむき加減で神妙な面持ちのまま、佑介は憑かれたようにじっ、と一点を見つめていた。
「……」
「……佑介くん?」不審に思った創二郎が、佑介の顔色を覗きこむ。
「……あの人は、たぶん本気じゃなかった……」
きっと彼が本気を出していたら、ここには戻ってこれなかっただろう。
夜叉と対峙しているにもかかわらず、彼の剣筋には殺気が感じられなかった。それどころか、意図的に見逃された可能性すらある。彼ほどの剣客であれば、一瞬の死角をついて逃げる夜叉にすら対応できたはずなのに。
佑介は静かにまぶたを閉じると、ゆっくりと息を吐き出した。
◇◇◇◇◇
突き抜けるような青空が、暖かな陽射しを降り注いでいる昼下がり。
畳の上に正座した巴は、聖と相対していた。彼らの目の前には、今日のためにと持ち寄った茶菓子がずらりと並べられている。干菓子や大福、金平糖や煎餅などさまざまな菓子に、二人の視線は釘づけである。
「用意はいい? 巴ちゃん」
「はい! もちろんです」
「では!」
「「いただきまーす」」
二人そろって両手を合わせ、思い思いの菓子に手を伸ばす。干菓子をつまんだ聖に対して、巴はふわふわの豆大福にかぶりついた。
「……おい」
庭から差しこむ陽射しが、大きな影にさえぎられる。第三者の声に顔を上げれば、そこには着流し姿で仏頂面の徹也が腕組みをして立っていた。
「なんでおめぇらは、俺の部屋でくつろいでやがんだ」
徹也は室内の様子を眺めながら、ため息まじりにそう言った。たしかにここは副長の執務室である。
「えー、だって前から巴ちゃんと約束してたんですもん。ねー」
徹也にあいさつしようにも、聖の言葉に同意しようにも、ひと口に頬ばった大福が邪魔をして口をひらけない。急いで飲みこもうにも、もちもちとした食感がそれを妨げてしまっていて、喉に詰まらせようものならそれこそおおごとである。
せめてもと巴はこくこくと聖に向かってうなづく。そうして大福を手にしたまま懸命にあごを動かしながら、いまだ縁側に立ったままの徹也を見上げた。
「だったらてめぇの部屋でやりゃいいだろーが。それか巴の部屋に行け」
そう言って徹也は、隣にある空き部屋を指さした。そこは以前、巴が三日間ほど使用していた部屋である。いつの間にか彼らの中では、そこは巴の部屋として定着してしまったらしい。
「細かいことは気にしなーい。ほら、加茂さんも休憩、休憩ー」
「ったく……」
なんだかんだ言いつつも、徹也は聖に促されるまま畳の上であぐらを組んだ。煎餅を手に取るあたりがなんとも彼らしい。
やっとのことで大福を飲みこんだ巴は、そばに置いてある急須から熱い緑茶を湯呑みに注いだ。おかわりを要求してくる聖のそれとともに、ひとつを徹也の前に差し出す。
「おつかれさまです。加茂さんもどうぞ」
「あぁ、すまん」
「ところで、取り調べ終わったんですか?」
茶を口に含む徹也に、聖が干菓子を口に放りこみながらたずねた。二人の横顔をちらりと盗み見て、巴は小さく大福をかじる。
聖はおそらく、昨晩捕縛した浪人たちのことについて言っているのだろう。進之助の報告によれば、梅木荘への御用改めで捕縛された浪人は少なくないと聞く。
巴が詰所に着いたときには道場奥の蔵から苦痛にのたうちまわる男たちの声が聞こえていたので、中でなにがおこなわれていたのかは想像もしたくない。
「八田の野郎が強情でな。なかなか口を割らねぇってんで、朝から組長が張り切っちまってな」
「うっわぁ、お爺ちゃんに尋問されるとか最悪じゃないですか」
「おかげで昼メシが食えねぇ隊士が、何人も道場で伸びてやがる」それを聞くなり、聖は「かわいそうに」と言いながら笑っていた。
「っと、悪いな。女のお前に聞かせる話じゃなかった」
「あ、いえ、お気遣いなく」
どうせなら八田がどんな情報を吐いたのか知りたかったが、そうは問屋が卸さないらしい。徹也の謝罪とともにこの話題は終わりを告げ、しばしの沈黙が三人の間に流れた。
すると、徹也がおもむろに巴の顔を見つめた。
「……巴」
「はい?」
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