第38夜 花影の刃
建物内や玄関先から、男たちの怒号と刀のぶつかりあう音が響く。
立ちはだかるたったひとりの敵を前に、隊士たちは刀を構えたまま息を飲んだ。夜叉はまだ刀を抜いていない。間合いに踏みこめぬまま、両者の息づかいだけが空気を震わせていた。
「まさかとは思ったが、やはりいたか……。紅夜叉」
双方の均衡を破ったのは、ほかでもない輝真組副長だった。冷静な彼の声色に、隊士たちの恐怖心が一蹴される。
刀を握りなおす隊士たちのうしろから、徹也は落ち着いた足取りで先頭まで歩み出た。
「ここは俺が引き受ける。お前たちは中の援護に行け」
「「「はい!!」」」
夜叉と真っ向から向かい合ったままの徹也の指示に、隊士たちはきびすを返して宿のほうへと駆けていく。
「……」
「……」
徹也はゆっくりとした動作で刀に右手を添えると、夜叉に視線を突きつけたまま上体を傾けた。
次の瞬間、刀を鞘に納めたまま夜叉が駆け出す。間合いへの踏みこみと同時に引き抜き振りかぶった刀は、甲高い音を立てて徹也の刀に阻まれた。重心を移動させ、身をひるがえしながら刀身を捌く。すばやく彼の背後に回り、夜叉は徹也の膝裏をめがけて足を蹴り出した。
しかし攻撃は容易くかわされ距離を取られる。一瞬でも彼の動きを止めることができれば、この場から逃げる隙ができる。だが、今の立ち位置は夜叉にとって非常に不利な状況だった。
夜叉は一気に間合いを詰め、彼の懐へともぐりこむ。下から振り上げた刀は徹也によって止められ、迫り合った刃がカタカタ……、と音を嫌な音を奏でた。
夜叉は瞬時に左手で刀身の峰を支える。上からの重圧に両手で耐えながらも、一気に押し返そうと重心をいくばくか移動させる。
同時に、刀身をすべらせて力を逃がした徹也が、下段から刀を振り上げた。金属音が鼓膜を揺らし、あまりの衝撃に弾き飛ばされそうになる刀を、夜叉はかろうじて手放さずに持ちこたえる。
だが間髪入れずに、徹也は身を低くして地面を足で払った。紙一重で飛び退くことで転倒は回避した夜叉だったが、重心をずらしていたせいで体勢を崩してしまっていた。
その隙を徹也が見逃すはずがない。彼はすばやく小手を狙って刀を振り上げた。
切っ先が、夜叉の左手首をとらえる。
「くっ……!」
瞬間的な痛みに表情をゆがめた夜叉は、咄嗟に自身の笠に手を伸ばした。それを徹也めがけて投げ捨てる。
幅の広い笠が、互いの姿を一瞬だけ覆い隠す。
逃げるなら今しかない。夜叉は一気に駆け出すと、躊躇なく徹也の横を走り抜けた。
笠が地面に落下する。徹也の視界の先に夜叉の姿はない。ゆっくりと背中を振り返った彼のまなざしの奥で、走り去っていくうしろ姿が小さくなり、それはすぐに闇に溶けていった。
「逃がしたか……」
「追いますか!?」
「いや、いい。それより、怪我人の手当てをしてやれ」
「はい!」
副長の指示を受け、近くにいた隊士たちが玄関先へと戻っていく。建物内を取り巻いていた喧騒は、落ち着きを取り戻してきたようである。どうやらあちらも片がついたようだ。
――紅夜叉、か……。
徹也は夜叉の消えた闇を、もう一度、静かに見遣った。
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