第34夜 華の街

 町はずれを流れる市中で一番大きな川。そこにかかる立派な橋は、中州へ渡る唯一の手段である。火の灯されていない外灯は眠ったように静かで、真っ赤に塗られた欄干もどこか息をひそめているようだった。正面に見える大手門は固く閉ざされ、高い壁がすきまなくぐるりと周囲に延びている。


 そこは男たちの桃源郷、花街への入口である。


 大手門脇の番所にひと声かけ、馴染みの顔ぶれと二、三、言葉を交わすと、佑介は通用口から門の内側へと足を踏み入れた。

 昼間はほとんどひとけのない大通りを、風呂敷包みを片手に涼風の手を引いて進む。夜になれば遊女や客たちがひしめいている格子窓には、今はひとっこひとり張りついてはいない。

 提灯も暖簾もない通りを抜け、つきあたりをぐるりと迂回した先の一番奥。佑介は、一軒の見世の前で足を止めた。


 楼閣『華乃屋』は、笠置一派行きつけの遊郭である。人気花魁をかかえる見世の規模は花街一であり、数ある見世の総元締でもある。

 佑介は勝手知ったる見世の裏手に回ると、前掛けをして掃除に勤しむ若衆に声をかけた。


「山科さん? と、涼風じゃあないか。どうしたんでぇ?」


 馴染みの顔に手を引かれて帰宅した禿かむろの姿に、若衆は驚いた声を上げた。遣いに出されたはずの少女が佑介に連れられて帰ってきたのだから、驚くなというほうが無理である。

 佑介が簡単に事情を説明すると、若衆はすぐに若旦那を呼んでくると言って見世の奥へと駆けていった。


「大丈夫。怒られやしないさ」


 つないだ手をぎゅっと握る涼風に、佑介はなるべくやわらかい声色で語りかけた。おそるおそる顔を上げる涼風は、微笑みを浮かべる佑介の顔を見るなり小さくうなづいて前を見据える。

 しばらくすると、見世の主人―東山幸之助ひがしやまこうのすけが、体格のいい広い肩に女物の派手な着物を羽織代わりに引っかけて、大股で勝手口に姿を見せた。遊郭の主にしては年若い。まだ見世を開けるような時間ではないからか、彼はまばらに生えた無精髭を指先でなでつけていた。


「おう。悪かったな、手間ぁかけさせちまって」

「いえ。ちょうど暇だったので」


 幸之助にもあらかたの事情を説明して涼風を引き渡せば、大きな手のひらがずいっと佑介の頭めがけて伸びてきた。そのままわしゃわしゃと豪快になでまわされる。

 子ども扱いするなと言いたげな視線を投げつければ、彼は「怖い怖い」と言いながら手を引っこめた。そう言うわりには目が笑っている。


「ほれ、涼風」

「あ、あの、えっと……」


 幸之助に背を押されて促された涼風は、彼の隣でおどおどと視線を泳がせていた。街道で事のなりゆきを見ていた露店主の厚意で新しく交換してもらった風鈴の入った木箱をかかえる手に力が入る。


「っ、な、まえ……」

「……あぁ。佑介だ、山科佑介」

 名を告げれば、涼風はうれしそうに目を細めてはにかんだ。

「ゆ、佑介、お兄ちゃん、あ、ありがとう……!」


 そう言って笑顔を見せた涼風は、木箱をかかえて見世の奥へと去っていった。きっとこれから、世話になっている姐さんに風鈴を届けるのだろう。


「なんだ、本名は教えてやらねぇのかい?」


 幸之助の指摘に、佑介はわずかに肩をすくめてみせた。幼子に嘘をつくのは忍びないが、『巴』と『佑介』のつながりを知る者をあまり増やしたくないのも事実である。それでなくとも、幸之助をはじめとした華乃屋の人間の大半には正体が知られているのだから。


「面倒だからいいです。それに、この格好じゃ混乱するでしょう?」

「それもそうか。それよりお前、花火大会の日来なかっただろ。志乃しのがえらく拗ねてたぞ」


 着流しの袖の中で腕を組んだ幸之助が、意地の悪い笑みを浮かべた。見世一番の花魁の名を出されては、佑介も苦笑するしかない。あとから聞いた話では、『巴』の不在を知った志乃が言いだしっぺの恭介を見世から締め出したというからよっぽどだったのだろう。


「たまにゃメシでも食いに帰ってこい。みんなもよろこぶ」

「今日は遠慮しておきます。仕事があるんで」

「そうかい? それじゃあ仕方ねぇなぁ。笠置によろしく言っといてくれ」

「はい。それじゃ、おれはこれで」


 幸之助の誘いはありがたいが、残念ながら今夜は仕事である。軽く頭を下げた佑介は、幸之助に見送られながら見世をあとにした。



「……山科、佑介……、ね」


 華乃屋の裏手に面した塀の影。頭巾を目深に下げた男が、小さくつぶやいた。



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