第31夜 波紋

「巴っ!」


 目の前に立ちはだかる浪人を瞬く間に叩き伏せると、徹也は巴のいる方角に向かって体を反転させた。すでに恭介の背中は間合いの外である。

 このままでは巴を人質に取られてしまうかもしれない。自分がついていながら、みすみす彼女に危害を加えられるわけにはいかなかった。


 徹也の叫びがこだまする中、巴は咄嗟に足元に転がっていた刀をつかむ。勢いを殺さずに身をひるがえした恭介の動きに合わせて、刀身は横薙ぎに彼の姿を追った。


――まったく、世話が焼けるんだから!


 刀にかかる若干の負荷。幸い刀を拾った瞬間に峰打ちに反転させたので大事には至らないだろうが、それでも多少は痛いだろう。自業自得だと思いながら恭介を見れば、わずかに表情が苦悶にゆがんでいた。

 恭介の体が、欄干を飛び越える。すぐにバシャンっ、と大きな水柱が上がった。夜の川は暗い。あとは闇に乗じて、うまいこと逃げてもらうしかない。


「っお前……!」


 恭介の身を案じる間もなく、巴はなかば強制的に振り向かされていた。咄嗟に離した刀が、カラン……、と音を立てて足元に転がる。


「あ、わたし、必死で……! あの、えっと」


 取り乱したふうを装い、巴は慌てたように視線を泳がせた。橋の上から足がつかないように恭介を逃がすには、こうするしかほかに方法がなかったのである。浪人二人が忠軍に属しているならなおさら、敵前逃亡ともとられるような形をとらせるわけにもいかない。

 なかなか苦しい言い訳なのはわかっているが、なんとかごまかされてはくれないだろうかと願いつつ、巴は胸の前で両手を重ねた。


「……そういや、実家が剣術道場だったな」


 こぼれたのは安堵のため息だったのだろうか。

 思い出したようにつぶかれた徹也のひと言に、巴はこくりとうなづいてみせる。


――そういえば、聖くんにそんな話したんだっけ。


 ちゃっかりと報告されていたことに内心で苦笑しながらも、どうやら徹也は、巴が咄嗟に刀を扱えたことに関してはそれで納得してくれるらしい。


「あっ、どうしよう……! わたし、人を斬って……!」

「大丈夫だ」

「ほ、本当に……?」


 ほっとした表情を見せたのもつかの間、今度はありありと不安を口にする巴に、徹也は足元に転がる刀を一瞥した。刀身に血痕はなく、辺りに返り血の類いも見受けられない。


「どうやら、峰打ちになってたみてぇだな。……なんだ、そんな顔しなくても捕まえねぇよ」


 よほど不安そうな顔でもしていたのだろうか。あやすようにくしゃりと頭をなでられ、巴は彼の袖の向こうにあきれ顔を見た。


「とりあえず、さっさと葵家まで帰るぞ」

「え、でも、あの人たちどうするんですか?」


 巴が指さした方向には、無様にひれ伏す浪人が二人、橋の外灯に照らされていた。

 一瞬の無言のあと、あからさまにため息をこぼした徹也の顔が、面倒だと言わんばかりに眉間の距離を近くしている。


「あの、わたし、ひとりでも帰れますから。ここまで来れば葵家もすぐそこですし」


 狼藉を働いた浪人二人を、輝真組副長としてはこのまま解放するわけにはいかないだろう。男たちが忠軍を名乗っていればなおのこと、詰所へ連行しなくてはならないはずだ。

 恭介の安否も気になるところではあるし、巴はこれ幸いとばかりに一人でこの場から離れようとする。


 しかし徹也から返ってきたのは盛大なため息である。


「馬鹿が。こんなのに絡まれた直後に、ひとりで帰らせるわけねぇだろーが」


 徹也に軽く頭を小突かれる。「なんでお前はすぐひとりになろうとするんだ」とのつぶやきに、巴はあいまいな表情を浮かべるしかない。


「放っておいても、どうせすぐに起きやしねぇよ。だいぶ酒が入ってるみてぇだからな。とりあえず縛ってその辺にでも転がしときゃ、そのうち聖が見つけるだろ」


 そう言って、徹也は懐から呼び笛と荒縄を取り出した。


 浪人二人に同情のまなざしを送る巴の横顔を、徹也は黙って見つめる。細められた視線は、まさに輝真組副長のもので。


――さっきの剣捌き……。まさか、な……。


 徹也は視線をずらして欄干の先を見遣る。眼下の水面は、静かなせせらぎを奏でていた。



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