第26夜 沈殿する蟠り
◇◇◇◇◇
「おや、今日は一人かい? 珍しいねぇ」
「あぁ、ちょっとな」
夜が明けても胸のわだかまりを解消できずにいた龍三は、朝から葵家を訪れていた。
昨夜見た光景は、まだ誰にも話してはいなかった。もちろん、徹也にすら報告はしていない。
――だいたい、突拍子もなさすぎるだろ……。
巴と紅夜叉を関連づける確証はなにひとつとしてない。宵闇の、それもおぼろげな月光のもとでの認識などたかが知れている。夜叉の顔をしっかりと見たわけではないのだ。角度や陰影が、無意識のうちにそう見せてしまっただけの可能性もある。
巴と紅夜叉の関係性に確信を持たせるためではなく、無関係の確証が欲しかった。真偽のほどを確かめたくて、龍三は早々に彼女の仕事場へと出向いた次第である。
しかしいくら店内を見回せど、巴の姿は見当たらない。せわしなく厨房と客席を行ったり来たりしているのは女将ただ一人だけ。
嫌な想像が脳裏をよぎる。
「女将、巴はどうしたんだ?」
「あぁ、あの子なら二階で寝込んでるよ」
「寝込んでる?」
「どうにも具合が悪いらしくてね。医者の見立てではただの風邪らしいんだけど、まだ熱があるから上で休ませてるんだよ」
客とのやりとりが一段落ついたらしい女将が、そう事情を説明してくれた。詰所での家事手伝いから戻ってきて間もなく、彼女は熱を出して倒れたのだという。どおりで店に出ていないはずだ。
一瞬感じた嫌な予感は、幸いにも気のせいで済みそうである。
「巴ちゃんに用事かい?」
「あぁ。けど寝てるんなら邪魔しちゃ悪いな。またにするよ」
「ちょいと待っとくれ、龍さん」
具合が悪いところを押しかけるわけにもいくまい。弱っている姿など、あまり人には見せたくないものである。病人に変に気を遣わせるのもよくないだろう。
後日出直そうと女将に礼を言ったところで、今度は彼女のほうから呼び止められた。
「悪いんだけどねぇ、ちょいと二階まで朝ごはんを持っていってやってくれないかい? あたしゃこのとおり、手が離せなくってねぇ」
申し訳なさそうに眉を下げる女将の指さす先では、主人が厨房の隅で粥を炊いているらしかった。火から上げられた小さな土鍋が、盆に置かれた鍋敷きの上に移動する。そうして早く持っていけとばかりに、主人が大きくあごをしゃくった。
店の奥の少しばかり急な階段を、龍三は盆を手に静かに上がる。
「巴、起きてるか? 邪魔するぞ」
「う~……、はぁい……」
遠慮がちに声をかければ、襖の向こうから力ない声が返ってきた。寝起きなのか。風邪のせいなのか。かすれ声にはいつもの覇気がない。
両手がふさがっているので仕方がないと言い訳しつつ、不躾ながら足で襖を開ける。さすがに熱々の土鍋の乗った盆を片手で持つ勇気はない。ひっくり返しでもしたらおおごとである。
「よぉ、生きてっか?」
「っ、大江さん……!?」
やはり巴は横になっていたらしい。予想外の人物の登場に、彼女は掛け布団を蹴飛ばして飛び起きた。
「寝てるとこ悪いな。女将に頼まれた。起きれそうか?」
「起きた……。わざわざすみません……」
「いや、俺のほうこそ、いきなり押しかけて悪かったな」
くらくらする頭を両手で支えている彼女の肩に、そっと羽織をかけてやる。
やや間を置いて、はっきりと意識が覚醒したらしい。寝乱れた着物の襟をすばやく整え、蹴り飛ばした掛け布団をたぐり寄せる巴を横目に、龍三は運んできた土鍋の蓋を開けた。
たちどころにのぼる湯気とともに、優しい出汁の香りが広がる。熱々の粥を碗に取り分け、端にやわらかい梅干しを添えてやった。
「熱いからな。気をつけろよ」
「はぁい、いただきま~す」
両手でそろりと受け取った碗から、巴は粥をひと
――気のせいか……。
唇をとがらせて熱い粥を冷まそうと懸命に息を吹く巴を見ていたら、昨夜の光景は自身の勘違いのような気もしてきた。確証がないゆえになんとも言いがたいが、少なくとも今はふれないでおこうと龍三はひそかに思う。時期が来れば、おのずとわかることだろう。
小さく「おいし……」とつぶやかれたひと言に、龍三の顔に自然と笑みがこぼれた。
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