第3章 他人の空似
第24夜 淡い希望
「う゛~……」
葵家の二階の一室から、低いうめき声が漏れ聞こえてくる。鼻にかかった声は若干かすれていて、あきらかに風邪を引いているとわかるほどだ。
「大丈夫か? 巴」
「無理、死ぬ……」
鼻の下まで掛け布団をかぶって、巴はかわいげのない鼻声のまま朱里に返事をした。布団のすぐそばで手ぬぐいを水にひたしている朱里の横には、空になった土鍋や小鉢が小ぶりな盆の上に無造作に重ねられていた。
水滴の残る湯飲みの隣には、広げられた小さな薬包紙。先ほどこれに包まれていた茶色のにがい粉薬を、白湯とともに一気に胃に流しこんだ次第である。薬というものは、なぜこうも苦くてまずいのだろうか。
「あ゛~」
「三日も敵陣にいたんだ。疲れが出たんだろうよ」
輝真組詰所での家事手伝いから解放された翌日から、巴は熱を出して寝込んでいた。みずから引き受けたとはいえ、敵の懐で三日間も寝泊まりするということもあり、無意識に気を張っていた部分もあったのだろう。役目を終え葵家に戻ったとたん、気が抜けたのか瞬く間に体調を崩してしまった。
「う゛~」
「ったく、ほら」
意味もなくくぐもった声を響かせる巴に、朱里は手にした手ぬぐいを固くしぼる。じんわりと汗ばむ巴のひたいに張りつく前髪を左右にわけ、井戸水の冷たさを蓄えた手ぬぐいをそっと乗せてやった。
「あ゛~、きもちいい……」
全身の倦怠感に、ひんやりとした心地よさがしみる。だがゆっくりと吐き出された息は、まだ思いのほか熱を帯びていた。完治するにはまだ数日はかかりそうである。
「おとなしく寝とけ。笠置さんは、八木さんに出禁を言い渡されてる。ここには来ない、はずだ」
自信なさげな語尾をつけ加える朱里に、巴は乾いた笑いをこぼした。
普段あれだけ「巴」「巴」とやかましい恭介が、見舞いにきたのは初日だけである。つきっきりで看病すると言って聞かなかった恭介を創二郎が引きずって帰って以来、彼は一度もここには顔を見せていない。そろそろ創二郎の監視の目をかいくぐりそうな気がしないでもないが、さすがに病人を気遣う心は彼にもあるだろう。
――もし来たら八木さんに密告してやろ……。
巴は掛け布団もろとも、ごろん、と寝返りを打った。指先はまだ熱でしびれているし、体の節々がじくじくと痛い。脈打つような頭痛からは解放されたが、頭は重たいままである。
「今夜は仕事がきませんように……」
「……」
「……ちょっと」
「……」
「……ねぇ」
ぽつりと口にした淡い希望に、朱里はなにも反応しない。聞こえていないはずはないと思い彼を見上げると、朱里はあからさまにスッ、と視線をそらした。なんだかもう嫌な予感しかしない。
「失礼しますよ。佑介くん、起きてますか?」
ひかえめな断りのあとにひらいた襖の先には、進之助を引き連れた創二郎が立っていた。
「具合はどうですか? あぁ、寝たままで構いませんよ」
とは言われても、そういうわけにもいかない。乱れた髪を軽くなでつけ、朱里に差し出された羽織を肩にかける。布団の上で居住まいを正せば、創二郎はなぜか眉尻を下げていた。
「佑介くん、体調が優れないところ申し訳ないんですが」
「……」
なんとなく、場の雰囲気と創二郎の言いまわしで察してしまった。つい先ほど声に出したばかりのわずかな希望は、もろくも崩れ去ろうとしている。なんとも世知辛い世の中である。
「お仕事です」
「……」
「巴! って、お前らなんで全員ここにいるんだ!」
「佑介です……。てか、静かにしてください。頭に響く……」
素直に受け入れがたい創二郎の言葉に無言を返していたら、勢いよく襖が左右にひらかれた。この面子でこんな登場の仕方をするのは一人しかいない。
恭介は相変わらず巴の本名を叫び、室内を見回してから不服そうにむくれていた。仲間たちの姿が見えないと思っていたら、全員がそろって巴のところにいたのである。自分だけが出入り禁止を言い渡されているにもかかわらず、ぬけがけもいいところである。
「恭介、ちょっと静かになさい。いま仕事の話をしているんですから」
「おっと、すまん」
創二郎に叱られた恭介は、おずおずとその場に腰を下ろした。そのうしろで、ひらかれたままの襖が進之助によってそっと閉じられる。
恭介の乱入で場を乱された創二郎はひとつ咳払いをすると、仕切りなおしとばかりに巴と朱里に向かい合った。
「今夜、八田一派が会合をひらいていることは、すでに知っていますね?」
「……はい? 聞いてませんけど?」
こくりとうなづいた朱里に対して、巴はそんなことは初耳である。目を細めて隣を見遣れば、小声で「すまん」と謝られた。謝って済む問題ではない。こっちにも心の準備というものがある。
「ですが輝真組に情報が露呈、彼らが会合場所に突入する可能性が高まりました。こちらとしては大変不本意なのですが、手を貸してあげましょう」
別に八田一派が捕縛されようが、笠置一派としては特段影響はない。むしろさっさと捕まれとさえ思うのだが、この状況を利用しない手はなかった。
輝真組に包囲された八田一派の逃走を手助けし、彼らに恩を売っておくというのも悪くない考えだ。なにかと騒ぎを起こす彼らを牽制しておくには、いい理由づけになる。
創二郎からの説明を聞きながら、巴は恨めしそうに進之助を見遣った。情報を仕入れてきたのは彼である。彼は自分の職務を全うしただけなのだが、そのおかげで淡い期待は露と消え去ったのだ。彼を責めたところでなにも解決しないのだが、なんとなく悪態をついてやりたかった。
苦笑いで顔の前で手を合わせる彼に、巴は小さく息をついた。
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