第23夜 盃の中の箒星
潜入三日目の最終日は、みな忙しく本来の職務を全うしていた。紅夜叉による辻斬りの現場には通行規制が敷かれ、検分やらなにやらでだいぶ慌ただしかったようである。汗だくになって詰所に戻ってきた隊士たちが、冷たい麦茶を求めて厨に殺到したときはどうしようかと思った。
「なーんか、あっという間だったねぇ」
「そうですねー」
夕焼け空の下、巴は聖につき添われながら、葵家までの土手沿いの道を歩いていた。
本当はひとりで神田屋へ帰ろうとしていたのだが、徹也を筆頭に全員から猛反対を食らってしまったため、仕方なく帰る先を葵家へと変更した次第である。まだ近くに夜叉がひそんでいるかもしれない。危ない、心配だと、平隊士たちまでもが口をそろえて言うものだから、断りきれるはずもない。
「楽しかった?」
「はい、毎日騒がしかったですけどね」
巴の荷物を小脇にかかえて、聖は覗きこむようにして首をかしげた。
楽しかったか否かと聞かれたら、正直大いに楽しかったと答えるしかない。にぎやかな食卓も、みなでわいわいと炊事や洗濯に勤しむのも、想像していたより悪くなかった。
「それに、なんだか意外でした」
「なにが?」
「輝真組って、もっとお堅くて、鬼みたいな人の集まりかと思ってました。けど、わたしたちとあんまり変わらないんだなって」
「ふふっ、僕らも人間だからね。鬼なのは加茂さんだけ」
「そんなこと言ってー。怒られますよ?」
この三日間で、巴の中の輝真組に対する印象がいい意味でくつがえされてしまった。他者を寄せつけない、突き刺すような殺伐とした雰囲気を想像していたのに、彼らはいとも簡単に部外者である巴を受け入れてしまった。
日々の生活は輝真組も忠軍も、それほど大差はないのかもしれない。むしろ輝真組のほうが、明るく自由でのびのびとしている気がする。
毎日稽古に汗を流し、仲間とともにゆっくりと風呂につかり、にぎやかな食卓を囲む。みんな一緒に笑ったりくやしがったり、時には命懸けで任務に就いたり。
――まさか、うらやましいと思うなんて……。
彼らの人間的な一面を目の当たりにした三日間は、巴にとって新鮮そのものだった。家事手伝いの依頼がなければ、きっとそんなことなど知らないままだっただろう。
「っ、とと……」
詰所でのできごとを思い出しながらくすくすと笑っていたら、足元の段差に気がつけなかった。小石に下駄の爪先を取られてつまずいてしまう。袴であれば大股で足を出して転ぶことは避けられたのだが、いかんせん今は女物の着物である。咄嗟に対応することもできずに、巴は前のめりに平衡を崩してしまった。
「大丈夫?」
すかさず伸ばされた聖の手によって、なんとか転ばずに済んだのはありがたいが、それはそれで恥ずかしい。
「すみません……。って、あの、聖くん?」
「気にしない気にしなーい。巴ちゃん、意外と危なっかしいからね」
するすると、支えられた左手をそのままつながれてしまった。幼子じゃあるまいし、さすがにちょっと耳が熱い。
しかし聖の表情を見るに、どうやら手を離してくれそうにはない。無邪気ににこにこと笑う彼は、何事もなかったように巴の手を引いて歩きだしてしまった。
「あれ? 巴ちゃん、剣だこあるんだね」
ふいに足を止めた聖が、つないだ巴の手のひらをまじまじと見つめた。
左手の中指と薬指、小指のつけ根あたりの皮膚が、ほかの箇所に比べて硬くなっている。こればっかりは避けようのない、刀を扱う者の
「実家が、剣術道場だったんです。もう、なくなっちゃいましたけど……」
嘘はついていない。事実、実家はたしかに剣術道場だった。遠い昔のことではあるが。
あまり追求してくれるなと思いながら、巴は困ったようなあいまいな笑みを浮かべた。
そんな巴の心情を察したのか、聖はそれ以上その話題にはふれなかった。代わりに、再び巴の手を引いて歩きだす。
「そういえば、お爺ちゃんがいつでも遊びにおいでって言ってたよ」
「え、でもご迷惑じゃ……」
「いいんじゃない? 隊士たちも、巴ちゃんがいるとやる気が出るみたいだし」
玄関先で巴の帰宅をそろって惜しんでいた隊士たちの姿を思いだし、聖は目を細めて笑みを浮かべた。
◇◇◇◇◇
一方神田屋では、宿場通りに面した窓から往来を眺めつつ、恭介が朱里を相手に盃を酌み交わしていた。同じ室内では、創二郎が文机に書物を広げている。
「おや、帰ってきましたね」階段を駆け上がる足音に、頁をめくる創二郎の手が止まった。
「ただいま戻りましたー。あ、いいなぁ。僕も一杯いいですか?」
「おぉ、進坊! 早かったな!」
「おかえり」
恭介に手招きされ、進之助は彼らの近くに腰を下ろした。朱里から差し出された盃を受け取ると、すぐさまなみなみと酒をそそがれる。
「巴さん、無事に葵家に戻ったみたいですよ」
「そうかそうか! ひと安心だな!」
「あなたが迎えに行くと言い出さなくてよかったですよ、本当に」
やれやれと肩をすくめる創二郎が、最後の盃に手を伸ばす。
「それと」進之助の声がとたんに真剣みを帯びた。一瞬で空気が張りつめる。
「三日後の晩、
上機嫌でほろ酔い気分に身を委ねていた恭介の表情が、そのひと言で瞬きのうちに険しくなった。あごに手を当てて思案する彼は、じっ、と盃の水面を見つめている。
「八田か……。どうも、きなくせぇな……」
八田一派は、忠軍の中でも過激派に分類される集団である。役人御用達の店に押し入り、現金を奪った挙げ句に店に火を放ったのは一度や二度ではない。つい数ヵ月前には、帝府要人の屋敷に乗りこみ、屋敷の主人を殺害しようとしたらしい。
当然、輝真組からも目をつけられている。
「船井くん、八田の動向に注意しておいてください」
「承知しました」
創二郎の指示に、進之助は神妙な面持ちで
――なにも起きなきゃいいんだがな……。
恭介は盃を口に運びながら、窓から見える夜空を仰ぎ見た。
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