第22夜 緊急出動

 それは突然のできごとだった。日付が変わるか変わらないかくらいの時分のことである。

 シン……、と静まり返っていたはずの詰所内が、急に慌ただしい空気に包まれた。階段を駆け下り廊下や前庭を駆ける足音、指示を飛ばす怒号があちこちから響き渡る。


――あきらかに、ただごとじゃない……。


 物音に目を覚ました巴は、そっと寝床を抜け出した。静かに障子に手をかける。日ごろから眠りは浅いほうなので、思考は思いのほかはっきりとしていた。

 障子のすきまから顔を覗かせたところ、中庭越しの大広間や玄関に明かりが灯っている。どうやら宿直の隊士たちが集まっているようで、いくつもの影が揺れていた。


――出動? 事件でも起きたの……?


 巴は息をひそめて、冷静な足取りで縁側を進む。角を曲がり隊長格の部屋の前を通りかかったところで、ちょうど哉彦が自室から飛び出してきた。


「巴!? わりぃ、起こしちまったか?」

「いえ。それより、なにかあったんですか?」


 隊服の袖に腕を通す哉彦は、襯衣シャツボタンも留めきらぬほどに慌てている様子。巴の問いにこくこくと首だけを上下に振って、彼はひと息に呼吸を整えた。


「夜叉だよ! 夜叉が出たんだ!」

「っ!?」


 哉彦の言葉に、巴は息を飲んだ。どくんっ、と鼓動が脈打つ。


――朱里……!?


 まさか輝真組に潜入している間に夜叉が出るなど、巴は思いもしなかった。哉彦の言うことが真実ならば、その夜叉の正体は朱里以外にはあり得ない。

 手のひらにじんわりとにじんだ汗を悟られないように、巴は胸の前で両手を握った。


「今、巡回に出てる耕平の隊が追ってんだ。おれのとこもこれから増援に行く」

「亀岡隊長! 参番隊準備できました!」

「哉彦! 急げ!」

「わーってるよ、龍兄!」


 玄関先から呼ぶ龍三の声に大声で返事をした哉彦は、その場に立ちすくむ巴に向きなおる。不安そうに視線を落とす巴に声をかけると、哉彦は握ったこぶしを前に突き出して、歯を見せて笑った。


「すぐに捕まえて帰ってくるから心配すんな! じゃ、行ってくる!」


 きびすを返して一目散に玄関へと駆けていくうしろ姿を、巴はただ黙って見つめる。


「お前は部屋に戻ってろ」

「加茂さん……」

「大丈夫だ」


 ふわりと肩に羽織がかけられると同時に、いつの間にかうしろにいた徹也に頭をなでられる。背中を包むぬくもりと大きな手のひらに、巴は小さくうなづくことしかできなかった。

 遠ざかっていく背中を見送って、その場に残された巴は静かに部屋に戻る。障子を閉めた室内は暗いまま。


――……朱里、お願い。逃げきって……!


 彼にかぎって捕まるような失態は犯さないはず。しかし巴は、祈るような思いできつくまぶたを閉じた。



 それから数刻後。ぞろぞろと足並みそろえて戻ってきた面々に、巴は人知れず安堵の息をこぼした。彼らの表情から察するに、どうやら朱里はうまく逃げたようである。

 すでに遺体は関係者に引き渡され、現場では下手人が紅夜叉であること以外に大した手がかりは得られなかったらしい。


「くっそー、また逃げられたー」


 くやしさを隠すことなく口にする哉彦を、参番隊の隊士たちがなだめる。彼らもまた、隊長と同じように浮かない表情をしていた。

 辻斬りや暗殺の現場で、紅夜叉と輝真組が鉢合わせることはあまりない。輝真組は事が起こったあとに出向くのだから、易々と逃げられて当然である。しかし治安維持を担う輝真組の威信にかけても、このまま好き勝手に凶行を許すわけにもいかないのだろう。


「わりぃな、巴。こんなことまでさせちまって」

「いえ、みなさんお怪我がなくてなによりです」


 徹也にねぎらわれながら、湯にひたして固くしぼった手ぬぐいを隊士ひとりひとりに手渡していく。

 ほかほかとあたたかい手ぬぐいに、龍三は顔をうずめて深く息を吐いた。心地よいぬくもりに、殺気立っていた心が落ち着いていく。


「この状況じゃ、さすがに今日は遊んであげられないかなぁ」


 上がりかまちに腰を下ろして首の汗をぬぐいながら、聖は残念そうにそう言った。仁王立ちで腕を組む徹也を見上げ、視線だけで次の指示をあおぐ。


「龍三、弐番隊はこのまま伍番隊と交代して現場保全に当たってくれ。耕平の肆番隊は再度市中の巡回を頼む。日中の巡回当番になっている壱番隊は、伍番隊とともに待機。いいな、聖」


 次々に出される指示に、各隊長は短く返事をする。


「加茂さん、おれんとこは?」名前を呼ばれなかった哉彦が高々と手を上げた。


「参番隊は、陽が昇り次第現場検証だ。いまのうちに休んでおけ」

「うげぇ、今日は巴の手伝いしようと思ってたのにー」

「哉彦は邪魔しかしないでしょ」

「そんなことねーって! なぁ!?」

「……」


 哉彦に同意を求められたが無視である。昼間のことはまだ根に持っているのだ。巴はまぶたを薄くひらいて冷めた視線を送った。


「ふふっ、巴ちゃんまだ怒ってるね」

「嘘だろ!?」

「あーあ、まぁ自業自得だよねー」

「なっ!? 耕平も同罪だからな!」


 最終的にはいつものように、みんなが哉彦をからかって笑いが起こっていた。案の定、徹也からの拳骨が落ちるのは、すぐあとのことであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る