第20夜 深山幽谷

 にぎやかだった広間の明かりが落とされ、宿直の隊士たちもすでに就寝したらしく、詰所は静寂に包まれる。

 巴もあてがわれた部屋で寝る仕度を整えるが、どうにもこのままおとなしく寝つけそうにない。


――なんだか、そわそわして落ち着かない……。


 本来であれば敵対すべき輝真組の懐にいるという緊張感からなのかはわからない。だがそれとはまた違うような気もする。それはまるで、旅先でなかなか寝つけないような一種の高揚感に似ていた。

 巴は羽織を肩にかけると、そっと障子を開けた。中庭に面した縁側に出れば、足裏がひんやりと冷たい。


――風、気持ちいい……。


 左右に開け放たれたままの硝子戸の間に腰を下ろし、中庭に向かって足を投げ出す。ぷらぷらと交互に足を揺らしながら、ぼんやりと夜空を見上げた。夜独特の澄んだ空気が、ざわつく肌に心地いい。

 今夜は満月なのだろうか。彼女の目線の先に夜空に浮かぶ月の姿は映らないが、流れゆく雲の形がわかるくらいには、空は明るさをたたえている。降り注ぐ月光が、庭に日中とは違う陰影をえがいていた。


「どうした? 寝れねぇか?」

「加茂さん……!」


 唐突に声をかけられて肩が揺れる。驚いて振り返ると、隣の部屋、副長の執務室から徹也が半身を覗かせていた。


「ちょっと寝つけなくって。すいません、起こしちゃいましたか?」

「いや、ちょうど書類仕事が溜まってたもんでな」


 他人の気配に気づかないほど油断していたのか。はたまた、もうここの空気に馴染んでしまったのか。

 おもわず自分自身に苦笑していれば、徹也は無言のまま巴の隣にあぐらをかいた。手にした煙管からは細い煙が上がっている。


「……すまないな」


 紫煙とともに吐き出された謝罪の言葉に、巴は反射的に徹也を見遣る。謝罪される覚えがないと視線で問えば、紫煙が右の方角へと遠ざかっていく。


「緊急事態だったとはいえ、こんな男所帯に泊まりこませちまって。だが助かった」

「あー、いえ。わたしもまさか、みなさんにあんなによろこんでもらえるとは思ってなくて……。うれしかったです」

「あぁ。女中たちにゃ悪いが、久々にうまいメシを食えたよ。俺好みの味つけだった」


 やわらかい微笑みを浮かべる徹也に、巴もつられて頬をゆるめる。夕餉の席でのみんなの様子を思いだすだけで、なんだか満たされたような気持ちになるのは不思議な感覚だった。


「ふふっ、ならよかったです。あ、お給金はちゃんといただけるんですよね?」

「ちゃっかりしてんな、お前も。弾んでやるから期待しとけ」

「ふふっ、やった♪」


 小首をかしげたまま楽しそうに笑う巴に、徹也はおのずと手を伸ばしていた。小さな頭に手のひらを置き、さらさらと流れる髪をふわりとなでつける。


「おら、冷える前にさっさと寝ちまえ」

「はーい、おやすみなさい」


 徹也に促され、巴は笑みを浮かべたまま軽い足取りで部屋へ戻っていった。




「やあぁああぁぁ!!」

「次!」

「お願いします!」


 道場から聞こえる威勢のいいかけ声を背に、巴は大きなたらいの水を新しくする。水の中でふよふよと揺れる布地に向かって勢いよく両手をつっこめば、くみ上げたばかりの井戸水はひんやりと冷たい。汚れは白い泡とともに流れていったらしく、何度か入れ換えた盥の水は大して濁ることもなかった。そろそろ水気をしぼって干してもよさそうだ。


「巴さーん、こっち干し終わりましたよー」


 ひろげた手ぬぐいを、パンッ、と小気味よい音を弾ませたときである。洗濯当番の隊士から声をかけられる。彼らの後方に視線をやれば、陽射しの下で、洗い上がったばかりの隊服や手ぬぐいが気持ちよさそうに風にそよいでいた。


「ありがとうございます。こっちもあと少しで終わるので」

「じゃあ、残りは俺たちがやっときますよ」

「巴さんに頼ってばっかりじゃ、副長に怒られますからね」

「え、でも」

「それに、なんか隊長があそこで待ってますし」

「へ?」


 隊士たちが指さすほうを振り返れば、道場の広縁に腰かけ柱に寄りかかるようにして、のんきに裏庭の様子を眺めている人物がいた。

 膝に小ぶりな手提げ袋をかかえ、空いたほうの手をひらひらと振っている。目が合ってにっこりと微笑まれてしまった手前、無視するわけにもいかない。


「じゃあ、あの、すみません。お願いします」

「はい、お任せください」

「ごゆっくりどうぞー」


 残りの洗濯物を引き受けてくれた隊士たちに頭を下げ、彼らに見送られるままに巴は駆け足で広縁へと向かう。彼の性格上、あまり待たせるとうるさそうだ。



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