第15夜 異常接近

◇◇◇◇◇



 蕎麦処『葵家』の朝は早い。夜も明けきらぬうちから主人は自慢の蕎麦を打ちはじめ、女将はかまどに火を入れていた。

 糠床ぬかどこから掘り出した漬物を刻み、昨夜から仕込んでおいた煮物の味をみる。濃いめに合わせた出汁が、旬の根野菜によく染みこんでいた。上出来だったのか、女将は満足そうにうなづく。


 慌ただしく仕込みを終えて店先に暖簾をかければ、待ってましたとばかりに常連客たちが顔を出す。朝一番の客は、夜間の勤めを終えた者や夜も明けぬうちから仕事に精を出す者、数量限定の定食を目当てに来る者などさまざまだ。


「だからって、なんでわざわざうちに来る……」

「巴ー、茶ぁー」

「……」

「巴ー」

「……」


 巴は空の盆を小脇にはさみ、うんざりしたように目の前に冷めた視線を送った。店内の片隅で朝定食を頬ばっているのは、よく知った顔ぶれである。


「巴さんに会いたいだけですよ、恭介は」

「巴ー」

「名前呼んでも怒られませんしね」

「とーもーえー」


 怒られないのをいいことに名前を連呼する恭介に無視を決めこんで、巴は大げさに肩を落としてため息をついた。それでなくとも忙しい朝の時間帯に、恭介の相手などしてられようか。


「……巴」


 黙々と白米を咀嚼していた朱里が、一瞬の隙をついて彼女の名を呼ぶ。わずかに首を動かして「なに?」と応えれば、彼は空になった茶碗を差し出していた。


「……ん、おかわり」

「はーい」

「なんで朱里には返事するんだ! 巴! 俺もおかわり!」

「はいはい」


 すかさず自分のを差し出す恭介からも茶碗を受け取って、巴はやれやれと店の奥へときびすを返した。

 笠置一派が定宿にしている神田屋でも朝食は出してくれるのだが、どういうわけか彼らはたまにみんなで連れだって葵家へやって来るのである。立地的には宿と店は正反対なのだから、早朝からわざわざ出向くのは面倒ではないのかと思うのだが、そういう理屈ではないらしい。


「いいじゃないかい。なんなら巴ちゃんも、一緒に食べてきてもいいんだよ? 今日はそこまで忙しくないからね」


 そう言って追加の小鉢を盆に乗せた女将の提案に、巴は苦笑いを返した。あれだけ恭介が騒がしいのでは、落ち着いて食べれそうにない。


「わたしはあとでいただきます。ごはんはゆっくり食べたいので」

「そうかい? それじゃあ、あとで特別に果物でもむいてあげようね」と女将が顔をほころばせたときだった。


「あ! いたいた。巴ちゃーん!!」

「うるせぇ」「痛っ!」


 店先から大声で名を呼ばれ、おもわず店にいた全員が振り返る。

 反射的に返事をしたはいいが、そこにいた人物の姿に巴はおもわず語尾をうわずらせた。


 呼んだのはもちろん恭介たちではない。


 普段着姿でにこやかにこちらに向かって手を振っているのは聖である。そのうしろでは、徹也が大声を出した聖の頭に拳骨を落としてあきれた表情をしていた。


――いつも昼にしか来ないのになんで!?


 聖が店に来るのはいつも決まって昼時である。朝食は詰所で出されるのだからわざわざ外に食べに出る必要もないのに、今日はどういう風の吹き回しだろうか。

 しかもよりにもよって徹也同伴とは。二人とも私服であるのを見るに、巡回中というわけではないようだ。しかし腰にはしっかりと帯刀している。

 なんというか、非常に間が悪い。店内には忠軍の笠置一派がいるのだ。こんなところで騒ぎになるのはまっぴら御免である。


「巴ちゃん、あっちは任せな。あんたはほら、聖くんのほうに」

「女将さん……!」


 自然と茶碗を引き受けた女将が、そうささやいて目配せをする。ちらと店内の隅に目を遣れば、恭介たちがこそこそと身を縮めて味噌汁を流しこんでいた。

 巴や恭介に肩入れしてくれている女将の機転はありがたい。このまま巴が恭介たちのもとへ向かえば、彼女の姿を目で追うであろう聖と徹也に、一派の存在が気づかれていたかもしれない。


――女将さんには、あとでちゃんとお礼言わなきゃ。


 巴はそそくさと店先へ向かうと、聖と徹也を恭介たちとは反対側の、店内をも視角になる衝立の奥の席へと案内する。

 女将のことだから、隙を見計らって恭介たちを逃がしてくれるに違いない。それまでは、彼らの気をそらすために話し相手になっているしかないだろう。一派の存在が二人に露見しないように、なんとか彼らの視線をつなぎ止めておかなくてはならない。


「加茂さんもいらっしゃるなんて、珍しいですね」


 熱い茶を淹れた湯呑みをふたつ並べる。客の出入りする気配を横目に感じながら、巴は徹也に笑いかけた。

 頻繁に葵家へ赴く聖に対して、徹也がここへ来るのは初めてではなかろうか。珍しいこともあるものだと言いつつも、内心気が気ではない。


「あのね、実は巴ちゃんにお願いがあるんだけど」


 椅子に腰かける聖に上目づかいでそう言われて、巴はこてんと小首をかしげた。両手のひらを合わせる聖の仕草から、巴には聖の言う『お願い』とやらに思い当たる節がなく頭をめぐらせる。

 すると、茶をひと口すすった徹也が口をひらいた。彼もなにやら真剣な面持ちである。


「女将にも話を通しておきたい。少し時間をもらえるか?」

「あ、はい。女将さーん」


 巴が振り向いた先に恭介たちの姿はなかった。どうやらうまいこと逃げたらしい。やれやれといったふうに苦笑する女将に、巴は小さく会釈をした。



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