第2章 男はみんな狼よ

第14夜 不測の事態

「逃がしただぁ!?」


 詰所内の奥の一室から、いらだったようなあきれたような怒声が漏れ聞こえてくる。

 朝特有のひんやりとした空気を震わす振動に、早朝から道場で鍛練に勤しむ隊士たちはおもわず手を止めて互いの顔を見合わせた。

 声の主は、鬼をも黙らせる我らが輝真組副長である。そしてあきらかに彼は、それはそれはたいへんご立腹の様子。


 触らぬ鬼になんとやら。隊士たちは互いに気づかなかったふりをして苦笑いをこぼすと、日課の素振りを再開した。木刀を振り下ろすたびに発していたかけ声が、先ほどよりも大きくなったのは気のせいではない。



「辻斬りの現場で怪しい男を見つけておきながら、『逃がした』って言ったのか? お前は」

「すんません……!」

「すんませんで済むか、馬鹿が」


 徹也の執務室で正座をさせられた哉彦は、肩をすくめて目の前の副長に頭を下げた。

 昨夜の巡回中、寺の境内で発見された斬殺死体。犠牲となった男は複数の寺の檀家に金銭を要求し、私腹を肥やしていた帝府の役人の一人であった。彼が夜中に寺の境内で誰かと会っていた可能性は非常に高く、また犯行の動機としては十分だろう。


 一方で下手人は不明。だが紅夜叉による犯行であることは明白だった。ひと太刀で息の根を止められていたことと、遺体の上に無造作に置かれた『天誅』と記された和紙がなによりの証拠である。


「これだけの状況証拠がそろっていながら、不審者を取り逃がすとはな」


 事件が発覚する直前に哉彦が呼び止めた人物は、状況的にもっとも疑わしい人間だった。

 提灯も持たずに犯行現場となった寺から下りてきた男。彼が夜叉本人であった可能性はかぎりなく高い。


「どう考えても、そいつが関わっているとみて間違いねぇだろーな。夜叉でなかったとしても、関係者であることは疑いようがねぇ」

「おれもそう思って、すぐに戻ってみたんすけど……」

「まんまと逃げられたってわけか」


 現場の状況を確認した哉彦はすぐに階段を下り表通りへと走ったが、すでに不審者は姿を消していた。哉彦が己の失態に気づいたのはそのときである。


「監視役に誰か残しておかなかったのは、お前の落ち度だ」

「はい、すんません……」


 哉彦は小さく縮こまりながら、チラチラと徹也の顔をうかがった。

 徹也は葉を詰めた煙管に火種を入れると、肺に煙をくゆらせた。ため息とともに紫煙を吐き出し、再度哉彦に視線をやる。


「ったく、お前は」「加茂さん加茂さん加茂さぁああぁぁん!」

「うるせぇ! なんだ!?」


 説教を始めようとしたのもつかの間、バタバタとせわしなく縁側を走る音とともに、聖の叫び声に続きをさえぎられる。勢いよく左右に開け放たれた襖が、スパンっ、と小気味よい音を響かせた。

 差しこんだ朝陽のまぶしさに顔をしかめ、徹也は大の字になって戸口に立つ聖をどなりつける。逆光になっているせいで、後光を背負っているように見えて余計に腹立たしい。

 しかし徹也のいらだちを知ってか知らずか、聖はあっけらかんと笑っている。


「緊急事態発生ですよー」

「ぁあ!? こっちも十分緊急事態だ!!」

「そーじゃなくて!」


 あっちもこっちも緊急事態だらけである。朝から本当に騒々しい。厄介ごとはひとつで十分だ。

 徹也は吐き出した煙に大きなため息を乗せた。


「お女中さんたちが、みんなそろってお休みでーす」

「……はぁ?」


 聖の言葉に、一瞬思考が停止した。休みとはどういうことか。しかも全員とは、また面倒な話である。


「ヨネさんとキヨさんは風邪のお子さんの看病で、ハナさんはお子さんからうつされちゃったらしいです。お登勢さんとこは、旦那さんもそろって風邪みたいですよ。トメさんとこも看病ですって」


 最近子どもたちの間で風邪が流行っているらしい。そういえば数日前にも、聖がそんなようなことを言っていたのを思い出した。くれぐれもうつされるなよと忠告したのは、まだ記憶に新しい。


「ったく、そろいもそろって……」


 もはやため息しか出てこない。子どもの風邪は、大人がうつされるとたちが悪いのだ。なかなか治らないうえに、子どもに比べて重症化しやすい場合もある。

 理由が理由なだけに、今日一日だけ休みというわけにはいかないだろう。現に、数日間の休暇を希望している者がほとんどだ。


「どーします?」

「どうするもなにも、てめぇらでなんとかするしかねぇだろ。とりあえず哉彦、お前の隊は厠掃除だ」

「ぅえっ!?」


 普段は女中たちに任せている炊事やら洗濯やら、彼女たちが仕事に復帰するまでは自分たちでなんとかするしかない。

 幸い掃除は朝の鍛練の一貫として隊士たちに課しているし、炊事洗濯も手伝い程度にはできるはずだ。隊ごとに担当を割り振ればどうにかなるだろう。男所帯のため、作業が雑なのはこの際目をつむるしかあるまい。


「あ! そうだ!」


 次から次へと発生する問題に徹也が顔をしかめていれば、聖がなにか閃いたように手を打った。その表情は、おもしろいものでも見つけたように輝いている。


「ねぇ、加茂さん! 僕、いいこと思いついちゃいました♪」



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