第13夜 朧の犯行現場
◇◇◇◇◇
宵闇がすべてを飲みこんでしまいそうな真夜中のことだった。
目の前で繰り広げられた惨劇に、虫や獣たちですら口をつぐんでしまう。気味が悪いほどに静まり返った空間に、生暖かい空気がまとわりつくように吹き抜けていった。
「『天誅』――」
はらりと和紙が舞い落ちる。
無造作に地に横たわる男は、指先一本すらピクリとも動かない。じわり、じわりと地面に広がっていく血だまりの中、男は刀を手にしたまま息絶えていた。
うつ伏せで転がる男の背中の上に落ち着いた和紙に、赤い鮮血が染みこんでいく。墨で書かれた二文字が、血の色と混ざりあうようにして赤黒くにじんだ。
事切れる寸前に彼が口にしたのは、いったい誰の名前だったのだろう。
家族の名か。恋人の名か。
途切れ途切れにつむがれたそれを、正確に聞き取ることは叶わなかった。否、聞き取れたところで自分にはどうしようもないのだけれど。
今宵もまた、指示されるままに人を斬る。命を奪う相手のことで知っているのは、名前と肩書きくらいだった。年齢も生い立ちも、その人がどんな人物なのか、その素性は一切知らない。否、知ろうともしなかった。
知れば情が湧く。情が湧けば剣が鈍る。苦痛を短くしてやるには、一瞬で終わらせてやるのがせめてもの情けだった。
余計なことは、知らないほうが都合がいい。
「……」
男の亡骸をぼんやりと眺め、片手で小さく手を合わす。別に罪悪感があるわけでも、後悔しているわけでもない。ただ、こうすることが自然なような気がした。
佑介は、ゆっくりとした歩調でその場をあとにする。
寺の境内は暗い。かろうじて周囲を照らしているのは、夜空に細々と浮かぶおぼろげな月明かりだけ。
遠くのほうで、牛蛙が鳴いていた。
「……」
寺の境内から表通りへとつながる長い石階段を下っていく。灯籠に明かりはない。
佑介は、すっかり闇に慣れてしまった視界と足裏の感覚だけを頼りに、危なげなく足を前へと踏み出した。
――……誰か来る。
ふと、静まり返っていたはずの空気がざわざわとさざめく。
通りの向こうから人の気配がした。それも複数である。気配は徐々にこちらに近づいてきているらしく、足音は次第に大きくなっていった。
しかし佑介は、これといって慌てるふうでもない。至極落ち着いた様子で、彼は階段を下りきって進路を右に取った。
「待ちな!」
ちょうど身をひるがえしたところで、先ほどの気配の集団に追いつかれた。
焦るそぶりなど見せずにただのんびりと振り返れば、紺青色の隊服に身を包み、頭に鉢金を巻いた哉彦がそこにいた。
昼間子どもたちと遊んでいた無邪気な表情とは違って、まとう空気は張り詰めた緊張感を放っている。彼のすぐうしろで提灯を下げている数人は、彼の率いる隊の者たちなのだろう。
「あんた、こんなところでなにやってんだ? こんな夜分にさ」
「……」
「墓参り、ってわけじゃなさそうだよな」
その推測はごもっともである。こんな夜更けに、提灯も持たずに歩いている者などそうはいない。いるとすれば、なにかやましい事情でもかかえた者くらいだろう。
市中の治安維持を担っている輝真組からすれば、佑介の出で立ちは十分に不審人物だった。呼び止めて話を聞くのは、当然の対応である。返答いかんによっては、そのまま詰所への連行もあり得るだろう。
だが佑介はなにも答えない。無言を貫き、じっと哉彦の顔を凝視していた。
「質問に答えな。でないと」
「誰か!」
哉彦が言い終わるよりも先に、何者かの叫びがこだまする。それはあきらかに丘の上、寺の方角から聞こえてきた。
とたんに、輝真組に緊張が走る。
「こっちだ! 早く来てくれ!」
「ちっ、おいお前! こっから動くんじゃねーぞ!」
「……」
「寺に向かう! 急げ!」
「「「はい!!」」」
切羽詰まった叫び声に、哉彦は階段上と不審者の顔を交互に見比べた。優先すべきはあきらかに寺のほうである。
小さく舌を打った彼は目の前の人物にそう吐き捨てると、隊士たちを引き連れて急いで階段を駆け上っていった。
――……今の、朱里の声か。
佑介はおもわず口角を上げた。階段の上のほうから聞こえたのは、よく聞き慣れた声色だった。普段大声を出さない彼にしては、なんとも珍しいこともあるものだ。
仕事帰りに運悪く輝真組に絡まれた佑介を見かねて、咄嗟の判断で彼らを引き離しにかかったのだろう。作戦はうまいこといったようである。
「『動くな』と言われて『はいそーですか』ってわけには、いかないんでね」
哉彦たちの背中が闇の中で見えなくなるまで見送る。せわしなく砂利を踏む足音にまじって、焦りや動揺といった声色が加わった。
闇の向こうがにわかに騒がしくなる。おおかた、境内に転がる遺体を発見したのだ。哉彦が「呼んだのは誰だ!」と言う声がしていたから、おそらく朱里は本殿の裏の林を抜けて逃げたあとなのだろう。彼とはこのまま合流せずに、宿に戻ったほうがよさそうだ。
佑介はそそくさときびすを返すと、夜の闇の中へと姿をくらませた。
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