第11夜 他意ある再訪

「御免くださーい」


 門から顔だけを覗かせて、巴は屋敷に向かって声をかけた。

 だが返事はない。みな出払っているのだろうか。今日はそこまで大きな事件は起きていないはずなのだが、待てども誰も出てくる気配がない。

 さすがに無人というわけはないだろう。屋敷の右手、くりやか風呂場の煙突からは白い煙が立ちのぼっているし、風に乗って流れてきたのは魚の焼ける香ばしいにおいである。


「御免くださーい。どなたかいらっしゃいますかー?」


 中の様子をうかがいながら、巴は再度声を上げた。今度は敷地内に足を踏み入れ、玄関に向かって歩きながらである。勝手に入るなと怒られるのは嫌なので、そろりそろりと歩を進めた。

 門から玄関までは少しばかり距離がある。付近に誰か居やしないかと、巴は辺りを見回した。


「あ、加茂さーん!」


 敷地の左手に広がる前庭に面した広縁の奥、かわやから出てきたばかりの徹也と目が合った。

 出会ったのが顔見知りでよかったとおもわず顔をほころばせた巴だが、彼はそうでもないらしい。厠から出たばかりのところで若い娘に手を振られたとあっては、どうにも居心地が悪いのだろう。小さくたたんだ手ぬぐいを袖にしまって、彼はなんとも言えない表情を浮かべている。


 母屋に向かって伸びる広縁を歩きながら、彼は褐返かちかえしの着流しの襟を正した。指先でちょいちょいと手招きし、その場に立ったままの巴を呼び寄せる。

 招かれるままに駆け寄れば、どうやら広縁の奥はは道場になっているらしい。壁にずらりと並べられた竹刀や木刀は、日々隊士たちの稽古に使用されているのだろう。

 庭に面した道場の木戸は手前も奥側もすべて開け放たれており、心地よい風が、すー……っ、と吹き抜けていった。


「……なんだ、お前か。どうした?」

「巴です。先日はお世話さまでした」


 そう言って巴は頭を下げると、かかえていた風呂敷包みを徹也に手渡した。中には先日借りたばかりの矢絣やがすり柄の着物と、ささやかながら菓子折の包みが入っている。気に入りの菓子屋の煎餅だ。枚数はそれほど多くないので隊士たちにまでは行き渡らないだろうが、隊長格だけで食べるには問題ないだろう。というか、隊士たちのぶんまで用意していたらとてもじゃないが一人ではまかないきれない。


「わざわざすまないな」

「いえ、みなさんのお口に合えばいいんですけど」

「その気持ちだけで十分だ」


 風呂敷の中身をちらっと確認した徹也が、巴の頭に手を伸ばす。一瞬身構えた巴だったが、次の瞬間には軽く弾ませるように頭をなでられていた。だが不思議と嫌な気分ではない。

 されるがままにおとなしくなでられている巴に対して、徹也も完全に無意識の行動だったのだろう。はたと我に返ったのか一瞬その動きを止めると、彼は気まずそうにその手で自身の首のうしろを掻いた。


「なんなら、聖に持たせてもよかったんだがな。あいつなら数日と空けずに店に来るだろ」

「えぇ、まぁ。ですが、そこまでご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」

「迷惑なんざ思っちゃいねぇよ。俺たちは当然のことをしたまでだ」


 たしかに聖は、二日ないし三日に一度は葵家にやって来る。隊服ではないので、非番のときを見計らって来ているのだろう。

 彼が来るのはいつも昼時だが、来ると必ず巴にひと言声をかけ、彼女の仕事ぶりを眺めながら食事を済ませる。そうして他愛のない短い会話を交わすと、また来るねと言って満足そうに帰っていくのである。

 彼はいつも決まったものしか頼まないので、自然と注文内容を覚えてしまった。暖簾の奥に姿が見えただけで、盆に小鉢やら薬味やらを準備してしまう自分に苦笑いだ。


「では、わたしはこれで」

「ちょっと待て」

「はい?」


 用事も済んだので、さっさと帰ろうと思う。今夜は仕事があるのだ。早めに帰って準備がしたい。

 ところが、軽く頭を下げたところでちょうどいいとばかりに呼び止められてしまった。なんだか嫌な予感がするのは気のせいであってほしい。


「ついでと言っちゃ悪いが、隣にいる馬鹿どもを呼んできてくれ」

「は? なんでわたしが?」

「細けぇことは気にすんな」

「え、ちょっと、加茂さん?」

「頼んだぞ」


 嫌な予感というのは当たるものである。

 ひらひらと手を振って去っていく徹也のうしろ姿に、巴はため息をついて小さくぼやくしかなかった。


「なんでわたしが……?」



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