赤い花

吉川伶

第1話

 台湾の白色テロの話をよくしていた。日本人の父とその台湾人の友人のこと。まだ小さかった俺を横浜の中華街に連れて行くと、父は必ずその友人と酒を飲んだ。友人はつるんつるんにハゲてて、その反射光がむしろ俺にとって白色テロだった。

 その後はサッカー場に行き、マリノスの試合を見るのが常だった。父は競技場に着いたときには、たいてい酔っ払っていて、試合が始まると、ジャンプしたり、歌を歌ったりした。普段は無口だったから、その姿が気持ち悪かった。

「父は、あのオウム真理教の草分けなのかもしれない」

 そう不安に思ったのを覚えている。それが1990年代の思い出。90年代ってのはそんなに悪い時代ではなかった。空にある星の光のうち、90年代の光はいったいいくつあるんだろう。と、感傷に浸って空を見上げたのは、21世紀になってからのこと。

 人間が滅びれば、カレンダーなんて概念もなくなる。でも、時は流れ続ける。地球がなくなっても、太陽がなくなっても。

 時の流れとかいうシロモノのおかげで、俺たち無数の生誕と消滅を見なきゃならない。生誕の方はあんまり見る気はないけど。鬱陶しいだけだから。でも消滅はつい見入っちゃう。誰かが、何かがなくなっていくのってそれだけで恐怖がある。そして、恐怖の裏で、俺はまだだと実感できる安堵感がある。

 マリノスが優勝した年、父は死んだ。俺はまだ小学生だった。

 肺に水が溜まり、人工呼吸器をつけた父は余命あと数時間というとき、俺を枕元に手招きした。

 「お前に会えてよかった」「母さんを大切にしろよ」「幸せに生きるんだ」とか言うんだろうなって思った。俺は「ありきたりだなあ」と思いながら、父に頬を寄せた。父はかすれた声で言った。

「信じられないかもしれないが、お前もいつか死ぬ」

 父は3時間後に死に、俺は20年後にその言葉の意味を理解した。



「私たちは絶対死にません」

 俺の手を握り締めながら、父の遺影に向かってそう言った母は、ベイスターズが優勝した直後に死んだ。会社の上司と毒が混入したフグ刺しを食べて。俺はその時もまだ小学生だった。

 母は父が台湾赴任時に見つけてきた女だった。母の父は抗日戦で活躍した国民党員だったが、中華人民共和国の赤い旋風に吹き飛ばされて台湾にやって来た。そして、国共合作してまで打ち倒した日本人に娘を取られた。

 母は日本に来た当初、生モノを食べるのが苦手だった。でも父が死んでから、食べるようになった。働かなくちゃいけなかったから。会社の上司に、「せっかく日本にいるんだから、おいしい刺身を食べなきゃダメだよ」ってよく誘われたらしい。

 そして、勧められるがままフグ刺しを食べたらあっという間に死んだ。料理人はフグみたいな顔だったけど、フグの調理免許を持っていなかった。母と一緒に死んだ上司は既婚者だったけど、七年間妻とセックスレスだった。けど、遺留品からはコンドームが見つかった。

 台湾人の祖父は娘が死んだとき、国民党のある役職についていた。けど、それは一種の名誉職だった。年のせいで、もう脳の言語野がすっかり衰弱していて、仕事なんか何もできなかった。祖父は日本からの娘の訃報を聞いても、鼻くそをいつも以上に入念にほじくっただけだった。そして、しばらくしてから、こうつぶやいた。

「九二年合意は確実に存在する」

 体制は頑張る。いつの日も、雨の日も、風の日も。勝手なことはやめてくれ。人民は叫ぶけど、赤い風と白い風は疾風怒濤となり、偏西風よりも強くそんな声を吹き飛ばしていく。




 両親が死ぬと、けっこう金持ちの叔父が俺の家にやってきて、残高欄のゼロがけっこう長く並んだ銀行通帳をくれた。そしてニコッと笑って「達者でな」と言い、去っていった。

 その日、庭の蘭が花を咲かせた。母が台湾に帰省したときに買った蘭の種が咲いたのだ。花弁は、しみひとつない赤だった。世の中には綺麗な赤と汚い赤があることを知った。

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赤い花 吉川伶 @yoshikawaray

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