穿つ闇の廃屋

長谷川昏

夜更けの廃屋にて

『穴が開いてるよ、ほら、あそこにも』

 時々思い出したようにそう言っていたのは、親の離婚で七才以降離れて暮らすことになった双子の妹、怜音れいねだった。

 僕は今、朧気な月の光の下に佇む廃屋の前にいる。

 長年放置され、荒んだ気配を放つ廃屋の屋根には一体どうしてそうなったんだとしか言いようのない大きな穴が開いていた。陽の光も月の光も届きそうもない、深い闇を穿つ大きな穴だった。

「な。この家、スゲーだろ」

 興奮を帯びた声で隣にいる本田ほんだ哲夫てつおがそう言う。スゲーと言うのがこの荒み方を指すのか、屋根の大穴を指すのか。でもどちらにしてもなぜそんなに楽しそうなのか僕には分からなかった。

 僕は全くこんな所には来たくなかった。高一にもなって心霊スポット如きで騒ぎたくない。何かと親しげに絡んでくるこのやや強引な同級生には、少し辟易している。しつこい誘いを躱すのが途中で面倒臭くなって、完全に断わらなかった僕も悪いのだが。

「この家ってさ、俺らが生まれる前からこんなんなんだってさ」

 本田は厳つい顔を綻ばせながら、柔道家みたいな身体を揺らして楽しげに言う。

野坂のさかは家がここら辺じゃないから、よく知らないよな。俺んここからすぐだから、この家、ここいらじゃ割と有名よ。もう三十年くらい前からこの状態で、それ以前から誰も住んでないし、誰も手を入れようとしないんだってさ」

 本田が近所だと言うように、この廃屋は住宅地の一角にある。

 僕や本田が住む町は地方都市の更に片田舎、住宅地と言っても田畑や空き地の合間に、昔からあるコミュニティが点在している。廃屋がある場所も前方は地元民しか通らないセンターラインもない狭い道路、背後は空き地、左右の隣家とは数十メートルも離れていた。

 僕はもう一度廃屋を眺めてみる。

 三十年ほど前からということは、九十年代始め頃からこの状態なのか。

 煉瓦を模した壁面を持つ洋館風の外観。建物の前に五、六台停められるほどの駐車スペースがあるくらいだから、周りの家々に比べると敷地面積はかなり広い。家屋は苔むしたコンクリート塀で囲まれ、その上成長しすぎた木々が建物に覆い被さるように生い茂って、鬱蒼としている。屋根の大穴は家の正面からも見える二階部分にあった。長年風雨に晒され、内部の木組み部分までが露わになった様子は、家全体の荒み方に拍車をかけている。暗闇の中でより深い闇を形成するその穴は、まるで上空から何かが落下して突き破ったようにも見えた。

 頼りない灯りを漏らす街灯の下で僕は隣の本田を見る。本田はこちらを見ると、にやりと笑った。

「ビビった?」

「……別に」

「ふぅん、そっか。まぁ野坂っていつも何にも動じないって顔してるもんな」

 言いながら本田はぶらぶらと歩いて壊れた門を抜けると、廃屋に近づく。僕はその後を追う前に門柱に残された表札を見てみた。以前の住人の名がローマ字表記で記されているが、その大半が掠れてしまっていて読めない。Hで始まり次はIか。SやAもかろうじて読めたが、結局判読できなかった。

「そういえば野坂、こんな時間に出かけて家族には何も言われなかったか?」

 駐車スペースを横切る本田が肩越しに振り返って訊いた。 

「いや、別に……父さんは出張でいないし、元々週の半分は夜中じゃないと帰ってこない」

「へぇー、で、母ちゃんは?」

「両親はだいぶ前に離婚した。だから家族は父さんしかいない」

「ふーん、そうなんだー。でもさぁ、それってなんか最高じゃね? クソ面倒な親父は全然家に寄りつかなくて、口うるさい母親は元からいないなんてマジうらやま」

 親近感を増した面持ちで本田はこちらを見てくる。この相手に余計な情報を与えるべきではなかったと僕は後悔した。これを機により親しげに関わってくる気しかしない。自らの迂闊さを悔やんでいると再度本田が話しかけてきた。

「ここって元は新興宗教施設だったとか、殺人事件が起きたとか一家心中があったとか、そんな噂もあるらしいけどどれも本当じゃないってさ。親父に訊いたけどそんな話は多分なかったって。だけどまぁ、ここが廃屋になった頃親父もまだ子供だったから確信はないとも言ってたな。なにやら自称まじない師の胡散臭い婆さんが一時期棲み着いてたみたいなことも言ってたけど、それも曖昧だったな。ホント、年食ってるだけでマジ使えねーの、あのクソ親父」

 本田は悪態をつきながら玄関前まで来ると、いきなりドアノブをガチャガチャと回した。無論施錠された扉が開くことはなく、本田は舌打ちすると腹いせのように扉を蹴飛ばした。

「……噂話がどれも本当じゃないなら、どうしてここが心霊スポットみたいになってるんだ?」

 相手の所業に眉をひそめながら僕は訊いた。暗がりでこちらを見遣った本田は再びにやりと笑った。

「どれもまぁ噂レベルを出ない話なのは確かなんだけど、これだけは本当らしいぜ。なんかさ、この家の前でぼーっと立ってるんだってよ、死んだ奴が。どいつも元はこの近所に住んでた奴らで、最近ならこの隣の工藤くどうの婆さんとか、あと大原おおはら……だったかな、そこん家の小学生とか」

「小学生?」

「ああ、虐待やらネグレクトやらされてて、最終的に親がほら、アレしちゃったって話。よくは知らんけど」

「よくは知らないって、なんか適当だな……そんな話、それこそ噂レベルでする話じゃないだろ?」

「うん、まぁ……ああ、そういえば親はそのあと捕まったらしいってどっかで聞いたから、きっと本当だったんだろ。多分」

 そう答える相手に僕は再度眉をひそめた。真偽不確かな幽霊話より適当な噂話が拡散される方が怖いと思った。

 玄関からの侵入を諦めた本田は別の入口を探ろうと、家の側面に回り込んだ。晩秋になっても足元には青々とした雑草が生い茂り、夜露も気にせず進んでいく本田の後ろを僕はついていった。

「そんでさ、最近ウチのじーちゃんもここに出るって噂を聞いてさ」

 スマホのライトで前方を照らす本田が振り返りもせずに言った。

「……出るって、本田のお祖父さんは亡くなったのか?」

「ああ、先月。でももうだいぶ前からボケてたから、やっとって感じ。親父もお袋も妹もほっとしてんじゃねぇかな。もちろん俺も。いや、どっちかって言うと清々したって感じか」

 僕はその言葉に無言を返した。本田のことは元々好きでもなかったが、より好感を持つのが難しくなったと思う。

「なぁ野坂、ここ、開きそうだぜ」

 家の裏手にある掃き出し窓の僅かな隙間を見つけた本田は早速歩み寄ると、力任せに横に引いた。砂を噛んだような耳障りな音と共に戸が開き、途端室内から蓄積された数年分の黴臭が漂った。

 翳したライトで内部を照すとそこはリビングのようだった。ソファやテーブル、テレビ台、食器や調度品が並んだ大きな飾り棚などがあるのが見える。それらの家具も敷き詰められた絨毯も、吊されたままのカーテンも、どれも埃にまみれて薄汚れていたが、何者かに踏み荒らされたり破壊されたりはしていない。全体的に思ったほど荒れ果ててはおらず、放置されて三十年は経っているというのに当時の生活感がまだあちこちに残っていた。

「うげ、なんか気味悪ぃ」

「どうする? もうやめる?」

 どんな理由があったのか、この家の最後の住人は家財を置き去りにしたままここを去ったようだった。未だ残る前住人の痕跡に尻込みする素振りを見せた本田に僕は訊いた。

「やめる? まさか。せっかく来たんだ、途中で帰れるかよ」

 僅か期待したが、本田に引き下がる気はないようだった。遠慮の欠片もなくスニーカーのまま家に上がり込むと、本田はリビングを大股で横切った。

「どこまで行くんだ?」

「あの穴の下までだよ。一体どんなになってるか野坂だって興味あるだろ?」

 興味があるかと問われれば答えは微妙だったが、僕は迷った末に結局家の中に入った。自分でもスマホのライトを灯し、先を行った本田の後を追う。

 リビングから廊下に出ると右手側に先程入れなかった玄関が見えた。リビングの真向かいは位置的に恐らくキッチンだろうと思った。薄暗い中を見回して思ったが、中に入ってみると外から眺めた時より手狭に感じる。それは狭苦しい廊下や暗い色の壁紙のせいかもしれなかった。それらも当時にしてみれば結構洒落たものだったと言えるのだろうが、三十年後の現在では至る所に時代的な古さが見られた。

「おい野坂、こっち」

 二階に続く階段を見つけた本田は足音を響かせて、さっさと上がっていった。

 僕は本田がやたらとこの廃屋の探索に積極的な理由が分からなかった。いつも教室の中心で騒いでいる彼が明日の話題のネタに、ここでの武勇伝を披露したいのだろうというのは推測できる。でもそれ以外にも理由があるような気がしていた。

「本田」

「なんだ?」

「今日お前がここに来たかったのは、もしかしてお祖父さんに会いたかったからか?」

「は?」

「僕も幽霊なんて別に信じてない。だけどお前がお祖父さんに……」

「あのさぁ野坂、何を期待してるのか知らないけど、んな訳ねーだろ。こっちの迷惑も考えずに夜中に徘徊したり小便垂れたり、俺らに面倒かけてばっかだったじじいになんか会いたくもねーよ。今夜来たのはここにもしじじいがいるなら、一体どんな顔して突っ立ってんだろうって思ったからよ。恨めしい顔でもしてんのか? 俺が散々ぶっ叩いたり罵ったり、のけ者にしてたからよ」

 言いながらこちらを見た本田は邪悪な顔をしていた。

 僕はその時なんとなく思った。虐待疑惑があった小学生に家族に邪険にされ続けた本田の祖父。生前に身内から不適切な扱いを受けていた人達が未だどこにも行けず、この世を彷徨っている。その人達が身を寄せる場所がこの無人の廃屋だった……。

「おい野坂、早く来てみろよ。この部屋が穴の下みたいだぜ」

 二階に辿り着いた本田は手前の一室に向かうと、何の迷いもなく扉を開いた。部屋の内側からは黴の臭いに加えて湿り気を帯びた気配が流れ出し、身体にまとわりついた。

 そこは六畳ほどの和室のようだった。覗き込むと畳や襖や障子、それらが数十年分の風雨に晒され続けた様相が目に入る。中でも一番酷いのは畳で、黒ずんで腐食している様子には無意識に顔をしかめていた。

「うげぇ、マジで汚ね」

 本田は舌打ちの後に惑いながらも一歩踏み込んだ。僕も足元に注意しながら歩み入ると、部屋の中程に立って上を見た。

 板張りの天井が無残に破れ落ち、その更に上にはより深くて暗い空間がある。

 本田は悪ふざけの面持ちで「おーい」と穴に向かって呼びかけた。もちろん返る言葉があるはずもなく、それでも本田はもう一度「おーい」と言った。二人で再度穴を見上げれば、天井も屋根も通り越したその向こうに夜空が見える……はずだった。

 しかしそこに夜空の姿はなかった。代わりに何かの影が見える。

 よくよく目を凝らしてみれば、それはこちらを見下ろす〝自分達の姿〟だった。

『ぅおーい』

 が声を発した。穴ぐらから響いたような本人の声よりくぐもって届くそれは、あそこにいるもう一人の彼が相手に成り代わろうと、つたなくも模倣しているようも感じた。

「な、なんだよ……これ……」

 本田が怯えた表情で後退った。

 僕はその時彼の背後に何かがいることに気づいた。

 部屋の入り口、薄汚れた肌着とズボンを身につけた痩せこけた老人が俯き加減で立っている。

「……本田、誰かいる……」

 腐食した臭いに混じって別の腐臭が鼻を掠めた。暗がりで俯く相手のその気配がとても生身の人間のものには思えなかった。

 「じ、じーちゃん……?」

 振り返った本田が掠れ声を上げた。

 届いた声に反応した老人が緩慢な動作で顔を上げる。

 ぅうおああああああああああああああああああああああああ……。 

 老人の皺だらけの口から表現し難い唸りが漏れた。自らの両腕を大きく広げた相手は、その唸り声を発しながら本田めがけて走り寄ってきた。

「うわぁ! こっち来んじゃねぇ!」

 抱きつく勢いで駆け寄った老人を既で躱した本田は部屋を飛び出した。老人は痩せ細った身体から想像もできない勢いで、逃げる本田を追いかけていく。

「クソっ! こっちに来んな!」

 階段を駆け下りた本田の怒声が一階から届いた。続けて扉が乱暴に開かれる音が響き、本田は一階の部屋を駆け巡りながら老人の追跡を躱しているようだった。乱雑に響く本田の足音、それを追う老人の止まない呻き。「ついて来んな!」「こっち来んじゃねぇ!」しかしなぜか本田はこの家の外へと逃げ去ろうとしていなかった。いつまでも一階の部屋を駆け回る音と声が響いていた。

 僕は突然身に降りかかったこの出来事を前に、声も出せず立ち竦んでいた。

 連続する不可解な出来事が思考と身体から動きを奪っている。何よりも僕を怖れさせたのは鼓膜を痛いほど震えさせた老人の意味不明な呻き。

 僕は上を見た。

 大きく開いた天井の穴。

『穴が開いてるよ、ほら、あそこにも』

 妹の怜音の言葉を思い出す。

 彼女には多分、他の人には見えない〝何か〟が見えていた。

 それを目にする度怯える妹を、なだめたり慰めたりするのが僕の役目だった。

 一体彼女には何が見えていたのだろう。

 もしかしたら彼女が言う〝穴〟の向こう側からはが覗き込んでいたのかもしれない……。

「……本田?」

 ふと気づくと本田の声も老人の呻きも止んでいた。

 意を決して一階に向かうとあちこち開かれた扉、割れて粉々になった花瓶、勢い余って踏み抜いた床、至る所に本田が必死に逃げ回った痕跡が残されていた。しかし本田本人の姿は見えない。

「一体どこに……」

 最後にリビングを確認すると侵入口に使った掃き出し窓が外れて倒れていた。本田はやはりここから逃げ出したのだろうと思った僕はどうにか窓を原状回復すると、逃げるように廃屋を後にした。

 自宅に戻った僕を待っていたのは、珍しく出張を早めに切り上げて帰宅した父親だった。その後はこっぴどく叱られたが、今日ほど家に誰かがいることに感謝したことはなかった。一度寝る前に本田に連絡を取ってみたが結局既読もつかず返信も来なかった。

 心配を持ち越したまま翌日登校すると、本田は学校に来ていなかった。

 次の日もその次の日も本田が学校に現れることはなかった。 

 あれから二週間が経過し、本田の家族が捜索願いを出したと聞いた。

 どんな経緯で捜索願いが出されたのか詳細は僕には分からない。

 でも多分、本田はあの夜あの廃屋でいなくなった。 

 あの場で起きた不可解な体験も次の日になれば、どうにでも言い訳ができるものに変わると思っていた。

 しかしそうではなかった。あの夜の湿った不可解さは今も僕の傍にある。

 本田が消えた理由を深く考えたくはなかった。それを考えて出した結論を認めてしまえば、今後どう過ごしていけばいいか分からなくなる。

 今夜も一人きりの部屋で孤独と不安に押し潰されそうになりながらぼんやりそんなことを考えていると、家の電話が鳴った。

『お兄ちゃん?』

 届いたのは数年ぶりに聞く妹の怜音の声だった。

「怜音か? 一体どうした?」

『ねぇお兄ちゃん、最近何かなかった?』

「いきなりなんだよ、藪から棒に……」

『穴が開いてるよ、お兄ちゃんの後ろに』

「……え?」

 不意に耳の奥であの夜の呻きが谺した。

 しかし多分そうではなかった。あの夜からずっとと思った。

 後ろを振り向くのが怖かった。

 でも振り向かなくても僕はもうあの穿つ闇に呑み込まれているのかもしれなかった。


〈了〉

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