感情消毒

解体業

感情消毒

 「効率性」や「合理性」を重視する風潮というか制度が企業や社会全体で広がりつつあるこの世界。この世界では、全自動のシステムは少ないものの、政府によって自ら法律や規制が作られて、「合理的であること」が最も重要なこととされていた。また、政府は全国民に「感情抑制スプレー」を配給していた。このスプレーは、その名の通り使用時に感情を抑制することができるものであった。しかし、これらを使った人は感情的であり、合理的でない、そして不衛生な劣等人として酷く扱われていて、社会に溶けこむことがほとんどできないようになっていた。ただ、いくら感情的な者であっても、直接に政府や企業が手を下すということはなかった。

 また、企業や教育機関も「無駄を排除し、効率を最大化する」という大義の下で、人々の行動を厳しく制限し、社会の合理化を目指していた。仕事や学校生活では細かくルールが決められており、非効率的とされる行動が禁止されていた。その生活の中で感情的になった者がいれば直ちにブザーが鳴り響き、その者が平静を取り戻すまでそれは続いた。

 個人の間、すなわち家族や友人関係でも合理化は進みつつあった。結婚は「合理的な相性診断」によって決定された。恋愛感情を持つことは「時間の無駄」とされ、相性が最も良い相手と結婚し、互いに効率的な家庭運営をすることが当たり前とされた。このため、家庭も合理性重視であった。時間を無駄にしないために家庭内の食事や会話の時間を短くし、親子や夫婦間でさえも効率性を優先する風潮が強まっていた。誕生日や記念日といった「感情的なイベント」もほとんど行われず、結婚や子育ても「合理的な計画」の一部として捉えられていた。そのような「一般常識」から、育児放棄や離婚の数はかつてに比べて大きく減少した。結婚の数も激減したからである。それは人々は大規模な集団生活をするようになったので、わざわざ二人という小規模な共同体を作る必要がなくなったことが原因である。


 この世界を生きる若者の大木と中谷は、街中の「効率的な休憩スペース」に来た。ここは、座ることができる簡素な椅子とテーブルが並んでおり、目的は「最短時間での効率的な休息」を提供するため。休息は無駄だと言う者もいるが、適度な休憩は効率化のためにはむしろ必要である。もっとも、無駄な会話や長時間の滞在は好まれないが。機械的で無機質な雰囲気が漂っているため、好まれなくとも長居する者はない。

 警備員も合理的に配置されていた。初めは一単位面積あたり四人いたのが、合理化が進むにつれて半分まで減った。さらには、合理的に考えて事件は起こされるはずがないと考えて、警備員が一人もいないというところまであった。

 そのスペースに座り、広告を見ながら淡々とゲームのアイテムを集めている男がいた。それを大木と中谷は遠目で見ていた。

「この効率的休憩スペースですら、あいつはひたすら広告見てるよ」と大木が嘲笑うように言った。

「広告ずっと見てた方がバトルするよりアイテムを多くもらえるし、合理的だからだろうな」「なんかさ、たとえ無駄をなくすための効率化とは言っても、あの行動は流石にバカすぎないか?」

「完全に感情が『消毒』されてるな、あんな機械的にアイテムを集めてる姿は」

「そうだな。そもそもゲームをすること自体合理的じゃないし」

「そんなことには気づかずに、ゲームを『楽しむ』ってことが非効率だって考えてるんだろうな。こういうのが合理化社会の犠牲者って奴だな」

 その言葉を中谷が言い終わる前にその「広告を見るゲーム」をしている奴が立ち上がり、その場を去っていった。

 休憩スペースで談笑している大木と中谷の目の前を、模範的市民として知られる角田が通った。角田はいつも通り、無駄のない動きで移動している。
 白いシャツとスラックスはシワ一つなく、持ち物は必要かつ十分。カバンの中にはスケジュール管理をするためのアプリがインストールされたスマートデバイスと、その他細々としたものがきちんと整理されて入っているだけだ。

 角田は職場でも社会の模範として名を知られていた。仕事中、他人との雑談は一切せず、必要最低限のコミュニケーションしか取らない。どんなに忙しい時でも感情的になることはなく、淡々とタスクをこなしていた。

 休憩スペースを歩きながら、角田は淡々と携帯端末に指を走らせた。周囲の視線を気にする様子もない。
「合理的な市民、っていうのはこういう奴のことを言うんだろうな」

 大木がぼそりと呟いた。

「俺らみたいに一歩立ち止まって考えられる人間とは違ってな」

 中谷が笑いながら答えた。

 彼らの声が届いたかどうかも分からないまま、角田は振り返ることもなく通り過ぎていった。


 大木は休憩スペースを去って、自室に戻った。

「あ、ニュースの時間か...」

 大木はそう言いながらテレビの電源をつけた。テレビの電源が入り、画面が明るくなった。定時に行われる記者会見で今日成立した法律について詳しく説明する音声が流れた。

「今後、年金制度に関しては、これまでの非合理的な方法を改め、全てを『払った分だけ受け取る』というシンプルな方式に変更することが決定されました。これにより、無駄な管理コストを省き、年金受給者の公平性を確保します。」

 大木はそれを半分も聞かないうちに、身体中に熱が走り、顔を真っ赤にして怒鳴り出した。

「年金なんて元からいらねえよ!変更じゃなくて廃止しろよ!高齢者のせいで社会全体が重荷を負ってるんだろ!そのせいで俺たちがこんな目に遭ってるってのに・・・・・・。高齢者は全員死刑でいいだろ・・・・・・。」

 大きなブザーの音が部屋中に響き渡り、大木は震えながら、おぼつかない足取りで部屋の隅に行き、そこにいくつかある「感情抑制スプレー」のうちのひとつを手に取った。そして彼はスプレーのキャップを外し、息を吸い込みながらスプレーを噴射した。何度も味わった感覚だが、スプレーが空気中に広がると、大木の体が一瞬で冷たく、麻痺していくような感覚に陥った。そしてまた、自分の内面が無理に「消毒」されていくような気にさせられた。自分が自分でないみたいだ、と大木は感じた。

 その夜、大木はなかなか寝付けなかった。このようなことはこれまでに何度もあったが、ここまで眠れないのは初めてだった。


 翌日も、大木と中谷は休憩スペースで議論をしていた。ベンチに座り、昨日と同じように目の前を通り過ぎる人々や社会の風潮について小声で語り合った。

「お前さ、このスペースで長時間いるのって非合理的なんじゃないか?」

 中谷が言った。


「おいおい、効率的に休憩するためにここにいるんだろ。俺たちの存在自体が合理性の象徴じゃねえか」

 大木が応じて、二人で笑い合った。

 その時、近くに立っていた警備員が二人に声をかけた。

「お二人さん、何かお困りですか?結構な頻度でここにいらっしゃるのをお見かけしますが」

 大木が軽く首を横に振った。

「いや、別に。ただ、少し休憩してるだけです」


 中谷も同調するように頷いた。

「そうそう、俺たちのやり方で」

 警備員は微笑みながら、一瞬視線を宙に泳がせた。

「なるほど、合理的な休憩の仕方というわけですか。ですが、この場所、本来は短時間の利用を想定して設計されているんですよね。効率を考えると…少々、妙な使い方にも見えなくはありませんが」

 大木が慌てて言葉を返した。

「いや、別に無駄にはしてませんよ。ただ、話をしながら社会について考えてるだけです」
「そうですね、深い議論があれば、それはそれで価値があるでしょう。もっとも、それがどこかに繋がるならば、ですが」

 中谷が口を開こうとしたが、警備員は静かに話を続けた。

「どうぞ、ごゆっくり合理的な時間をお過ごしください」

 警備員は軽く頭を下げてその場を離れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

感情消毒 解体業 @381654729

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画