第2話

伊助を前にすると岩之助はいかめしい顔をくずして、

「おう、伊助か。おめぇも神社に参りにきてたんや。わしもこれから行くところや。雨空で普請のほうを長く休んだぶん、頼まれものがいっぱいあるんや。これから忙しくなる。とどこおりなく進められるよう、願をかけにきたってわけさ」

「それはご苦労なことです」

「伊助。わかっているやろうが、おめぇにもがんがん働いてもらうぞ」

 そういうと伊助の肩をたたいた。

「へい、承知しておりやす」

 伊助は深々と頭を下げた。

尊敬する岩之助棟梁のために、身を粉にして働くつもりだ。


「そうだ。隣にいるこちらさん」

 岩之助は喜兵のほうに顎をしゃくった。

「これから、おめぇも世話になるかもしれねぇから紹介しておくぜ。材木問屋いろり屋の主人の喜兵さんや」

 さっそく喜兵は両手をもみわせて頬を緩ませた。

「いろり屋の喜兵と申します。岩之助棟梁には材木の取引で、ようしてもらっています。ごひいきに願いますわ」

 商売人らしく頭が低い。

 女のほうは、伊助には知らん顔をしている。

 挨拶を終えると、岩之助は大きな背中を揺らして、喜兵と女を連れて神社の人混みのなかへ消えていった。


岩之助は四日市宿で一番の棟梁といわれている。

宿場内の豪壮な建家の多くは岩之助の手がかかっている。陣屋の建て増しも、お友紀が働く旅籠の濱の屋も岩之助が普請した。濱の屋は、本陣を除けば、宿場でもっとも見事な建家といわれている。

宿場一の棟梁といわれるのは、それだけではない。急場の普請にも、大工を多数集める力があったからだ。

宿場の顔ともいえる岩之助であったが、絶大な力を持ついっぽう悪評も高かった。

儲けた金子に物をいわせ、女房がいるのに、別邸を三軒も四軒も持ち、そこに妾を囲っていた。この日連れていたのも、妾のひとりだ。

そんな岩之助は成り上がりこそが一番と考え、

『お江戸じゃ、大店が金子にまかせて、贅沢三昧な生活をしている。わしは四日市宿の大物大工や。そいつらにも負けやしない』

というのが口癖だった。


岩之助の背中が参拝人のなかに紛れると、伊助は待たせておいたお友紀を連れて、こちらも人で混みあう街道へと出た。

ひさびさに岩之助からよい話が聞けたので自然と足は軽い。

街道沿いに並ぶ店々を見ながら歩いていると、一軒の小間物屋が眼についた。お友紀になにか買えと勧めて、店に入った。所帯を持って、この二年間、もったいないといって、丸髷(まるまげ)には同じ簪(かんざし)をつけたままだ。

店頭には工夫をこらした簪(かんざし)や櫛(くし)が並んでいた。これも時代の流れだ。

「可愛らしいものが色々あるわ」

お友紀が顔を輝かせて、紅色の蒔絵簪を手にとったところだった。いきなり背後が騒がしくなった。男の怒鳴り声が飛んだ。


「はなせ! はなせってんでぇ。このクソガキ」

二人が振り返ると、街道のど真ん中で多くの町人や旅人らが立ち止まっていた。野次馬が集まっていたのだ。

人だまりの真ん中で二人の男が揉みあっている。

裾からげ又引き姿の若い男が、暴れる男を後ろ手につかんでいる。

「あっしと来てください」

若い男は背が高く、取り巻く野次馬のなかにあっても頭ひとつ出ていた。下っ引きの巳之吉であった。

腕をつかまれた男のかっこうはだらしない。小袖の衿はゆるみ、胸と腹が丸見えだ。

「なんやぁ。てめぇ! 放せ! 俺の周りには気の荒いやつがわんさといるんや。こんなことをしてただですむと思うなよ!」

髷(まげ)はくずれ、髭だらけの顔を歪めている。


「一緒に来てください。あっしはこの宿場の下っ引きで巳之吉といいます。おめぇさん、そこの旅人から巾着を抜きとったでしょう」

男の腕を捻り上げる。

 かたわらにいた旅姿の男が、懐に手を入れると慌てて叫んだ。

「ない! わたしの巾着がない。お伊勢さんまでの路銀が入った大事な巾着だ!」

 巳之吉は後ろ手で髭面の腕を縛りあげると、

「逃げも隠れもできねぇんだ。これからおめぇを岡っ引きの源五郎親分のところへ連れていく。そこからは陣屋送りだ」

右手でその懐から市松模様の巾着を抜き取った。

「これ、おたくのものでしょう」

「おっ、そ、それはわたしのものだ!」

 喜ぶ旅人に巾着を返した。

「ここいらは人出で賑わっているから、それを狙った盗人や強盗が横行しているんですよ。気をつけてください。あとは、あっしに任せて、旅を楽しんできてください」 

 そう注意すると、巳之吉は掏りの背中を押して、人波をかきわけていった。

いきさつを見ていた野次馬から、安堵の声がもれた。


伊助と並んで、小間物屋の店先にいたお友紀が、怯えながら口にした。

「四日市宿って怖いところなのね……」

 所帯を持つ前は、宮宿の反物屋の娘で、お嬢さんとして育てられてきた。こんな捕り物に遭遇したことはなかったのだろう。 

伊助はお友紀の気を紛らわせようと、

「さぁ。終わったことは忘れて、おめぇ、その簪が欲しいんやろ」

と、手にした簪に向かって顎をしゃくってみせた。陳列されたもののなかでは安価なものだった。

 お友紀はしばらく考えていたが、簪をもとの棚に戻した。

「やっぱりやめておくわ」

伊助はお友紀の気持ちがわかってがっかりした。自分のものを買うより、家の蓄えに回したほうがよいと考えたのだ。

ひと言いおうとすると、お友紀が伊助の手を引っぱった。

「さぁ、ゆきましょう」

 伊助の口をつぐませてしまった。帰りの途で夫婦は手を繋ぎ合ったままであった。


  ( 続く )


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三途の渡し MAHITO @mahitok

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