天和九蓮宝燈を想え

愛工田 伊名電

 

 麻雀を趣味にしている方なら、『天和テンホー九蓮チュウレン宝燈ポウトウを出すと死ぬ』というジョークを聞いたことがあると思います。でも、アレはどうやらジョークの範疇からはみ出しているもののようなのです。


 これから話すことは、そこら辺の麻雀おじさんが考えたつまらないジョークなんかではなく、本当に私の古い友人が体験し、私に聞かせてくれた恐怖のエピソードです。

 この話の始まりは、半年前。すっかり街が冬に包まれた、肌寒い土曜の夜からです。

 この日も、私は古い友人たち3人と雀荘に集まり、飽きもせずに通算何十万局目の麻雀をしようと卓に座り、各々がいつものメニューを注文しました。おつまみやらお酒やらの到着を待っている間、局を始める準備をしていました。「足先が冷えてさぁ」とか、「子どもの受験がさぁ」とか、年相応のくだらない会話をしつつ、牌の群れたちをじゃらじゃらかき混ぜ、

牌山を作っていました。

 そして、全員分のお酒がやってきました。卓を囲む4人が「かんぱ〜い」といって一口飲んで、コップをテーブルに置いた音が、われわれの局が始まるゴングなのです。

 そのときの親は『水野くん』という古い友人のひとりで、なかなか真面目な性分なのです。そのキャラを強調するように、なかなか度が強い黒縁メガネをかけ、髪型はいつも七三。学生時代は勉強とバドミントンに6年間を捧げていて、大人になってからは仕事と家庭一筋の人生を送ってきたような人間です。彼のギャグっぽい発言などは聞いたことがありません。そんな彼が手元の牌を見た直後、「おあっ」と小さく鳴きました。メガネの奥の目は大きく見開かれていました。

 水野くんがそんな声を出すのは珍しいため、私を含めた3人は少し身を乗り出し、

「どうしたんだよ?」

「早く牌切ってくれよお」

「水野が切んなきゃ始まんないぞ」とか笑い混じりに文句を言いました。ですが、水野くんがこんなふざけ方するワケ無いのです。ましてや、牌を切るワケが無いのです。だって、彼は既にアガっているのだから。

 「それがさ、もう終わってんだよ…」水野くんの見開かれた目がこちらを向きました。口は困惑と歓喜が混ざった形をしていました。水野くんの信じ難いジョークを聞き、私は小さく「え」と声を漏らすばかりでした。古い友人のひとりである『土井くん』が眉間に皺を寄せて、水野くんに聞きました。

「…天和テンホー?」すかさず水野くんは「天和…」と小さい声で返しました。

「天和ッ〜!」水野くん以外の3人が叫びました。私たちが最後に天和を局中で見たのは8年ほど前のことで、相当珍しいものだからです。とはいえ、私たちが気を落とす必要もありませんから、水野くんの運の良さを褒めることにしました。「すげ〜じゃん、水野!」

「まだまだ始まったばっかだろ、運使い果たしたんじゃないの?」みたいなふうに。

 私たちはヘラヘラと盛り上がっていましたが、水野くんは神妙な顔で冷や汗をかいています。そして、私たちの言葉を遮り、こう言いました。「揃ってるんだよ…全ての数が!」雀荘全体の空気が凍りついたような気がしました。

 私は彼に聞きました。「それって」水野くんはおでこに冷や汗を浮かばせ、牌をこちらに見せて答えました。

「あぁ…天和九蓮宝燈だよ。」

 

 『天和テンホー九蓮チュウレン宝燈ポウトウを出すと死ぬ』なんて、つまらないただの迷信なのです。ですが、私たちは怯えていました。不運とも捉えられるほどの彼の運の良さと、あの迷信の真偽のことを。私たちや、周りの卓の人達は大騒ぎでした。

「人生のうちに天和九蓮宝燈を見れるなんて!」と水野くんに握手していた常連さんもいたほどです。しかし、当の水野くんはあまり嬉しくない様子で、作り笑いが見透かせました。今思うと、彼の息は荒くなっていたような気さえします。

 お店の人の提案で、水野くんが天和九蓮宝燈を出している景色の撮影をしていた時です。水野くんが「ぐっ」と短く呻きました。直後、彼は天和九蓮宝燈を卓の上に解き放ち、卓に突っ伏しました。

私は「おいおい、調子乗ってんのなんて珍しいなぁ」なんてほざきながら彼の肩を叩き、顔を覗き込みました。頬は死が近い病人のように青くなっており、顔中に冷や汗の水滴を作ってうんうん呻いていました。私の直感がこれはまずいと判断し、急いで救急車を呼びました。


 その日から2週間後の土曜の昼、水野くんから連絡がありました。心不全で倒れてしまったが、ほとんど回復したので病院で会って話したいとの事でした。

 2週間後の水野くんというのは、頬がこけていて手も細くなっていました。歳のこともあり、健康に見えていた水野くんは哀れな老人にさえ見えました。


 お見舞いのチーズケーキへのお礼をパッと済ませて、水野くんは心不全の訳を私に話してくれました。

「あの時…僕が心不全起こしちゃった時ね。天和九蓮宝燈を出してすぐだったろ?」

「だったね。」

水野くんは私の顔から部屋の隅へ視線を移し、こう言いました。

「迷信、あるだろ?『天和九蓮宝燈を出すと死ぬ』っていう」

「ああ、あるね。」思わず、私は唾を飲みました。

「あれ…本当の事なんだよ。今もこうして生きているけど…臨死体験というか…」

私の背筋にゾワゾワした感触が走りました。水野くんの顔はいたって真剣で、彼の真面目な性分は健在のようでした。


 私がメモ帳の用意をしたことを確認してから、水野くんはあの時のことを話してくれました。

「僕が天和九蓮宝燈を出して、それをみんなが認めた瞬間…その瞬間から、なんか違和感があったんだ。脳がぶるぶる震えたような感触というか。そこから、自分の具合がだんだん悪くなっているのがわかったんだ。主に胸の当たりがジワジワ痛くなってきて。」

「うん。」だから、あんな作り笑いだったんだなぁ。

「そして…痛みが限界に達して、卓にぶっ倒れちゃった後。失神してる間のことだけど…」

水野くんの言葉は急に途切れ、目線は下を向いてしまいました。

「ちょっと、俺はそれが一番聞きたいんだよ。」

すると、水野くんはこちらに向き直して、私に聞きました。

「…嘘っぽい話になるけど、信じてくれよ?」

「もちろん!」


「で、失神してる間ね、夢を見たのさ。」

「ほう。」

「真っ白い空間に、スーツを着た3人の小柄な男の人と、普通の麻雀卓と、大きめの観葉植物がポツンとあるんだよ。」

なんだそりゃ、フィクションすぎてめちゃめちゃ面白い。俄然興味が出てきたぞ。

「ええ?…うん」

「そんで、彼らの1人が僕を呼んで、『麻雀しましょう。勝ったら天国。負けたら現世。』って言うんだ。」

「キャッチコピーみたいだな。」

「多分、そうなんだと思う。で、僕も訝しんだけども、麻雀に誘われてんだから、したいじゃない?それ以外することも無いような所だったし。」

「まあ、ね。」

「それで、彼らと麻雀を始めたんだ。彼らは一言も喋らず、こちらの質問にも返さない。無機質な麻雀だったなぁ。…それで、これがな〜んか上手くいかないんだよ。ツキがこないというか。点が高い役になる組み合わせが全然出来ないんだ。仕方ないから、しょぼい点数をちまちま稼いで、結局26000点くらいでビリになっちゃって。その後も三局やったけど、全然ダメなんだ。全敗さ。」

「そりゃ、怖いな。」

「本当に恐ろしかったよ。それで、四局目が終わったタイミングで急に話しかけられてね。『残念です。あなたは運を使い果たしたようだ。天国には行けません。』みたいなことを言って、パン、パンって二拍手したんだ。そうしたら、座ってた床の部分が下に開いて、真っ暗の中に放り出されて落ちていった。その落下感で、この世に戻ってこれたんだ。」

「はぁ〜。」

 メモをまとめる私をよそに、水野くんは机の上に置いてあったA4の紙を手に取りました。

「何それ?何が書いてあるんだ?」

「ああ、これ?はい」水野くんのA4の紙には、『新NISAを始める』とか『生前整理を済ませておく』とか『ギターを練習する』とか、水野くんのやりたいことが沢山書いてありました。理由を聞いてみると、

「あの部屋で麻雀を打ってから、前より死が間近にあるような感じがしてるんだ。そう思ったら、なんだかやりたいことがいっぱい思いついちゃって。それで、そのウィッシュリストを書いてるんだ。」

「へえ。そりゃ、いい老後じゃないか。」

「うん。清々しいよ。」水野くんは満足気な顔を浮かべ、左側の白いカーテンを眺めていました。

 

 私もメモをまとめ終えたので、病院から出ようと取材のお礼と別れの挨拶をし、スツールから立ち上がると、水野くんがこう言いました。

「そういや、『メメント・モリ』って言葉があった。」

「ああ…『死を想え』だったっけ?あるね。」

「最近、よく思い出すんだよ。いつ死ぬか分からないんだから、今と未来を楽しみなさい…」

水野くんはにこやかにこちらを見て、

「ちゃんといいエッセイにしてくれよ?下手な風に書かれちゃ、また心不全起こしちゃうからさ」と、冗談交じりに私に発破をかけてくれました。

「任せてくれよ。」

私は病室のドアを開けました。廊下の窓は半分開いていて、冬の街に枯れた街路樹が並んでいました。

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