屋上の姫

takemoana

屋上の姫

 実験棟の屋上にいる姫のことはみんな知っている。姫はいつでも誰もいない屋上にいて、もうずっと使われていない天文室を根城にしているらしい。でも、姫のことをほんとうに見たことがある人は、ほとんどいない。だって姫のいる屋上の扉には、とっても大きな南京錠がかかっているのだから。その屋上は使われなくなって久しいから、南京錠の鍵はいつの間にかどこかへいってしまって、先生たちでさえどこにあるのかわからないという。だから、もしも屋上の姫の噂をたしかめたくても、誰にもたしかめることはできない。


 ここまでは、みんなが知っているうわさの話。そしてここからが、たぶんわたししか知らない話。


 屋上の扉の南京錠には秘密がある。実は固くて頑丈そうなのは見せかけなのだ。南京錠の天地を逆にして、右上の角を金槌で叩けば、かちゃ……、というかわいた音がして、ツルの部分ははずれてしまう。そうすれば、扉は簡単にひらく。これは一週間前、わたしがたまたま見つけたやり方だ。南京錠はこわれてしまったわけではなくて、もう一度ツルの部分を差し込めば、また元のように頑丈なふりをできる。だから、屋上の秘密は保たれたまま。


 わたしはこの一週間、休み時間がくるたびにここへきて、南京錠をあけてはしめてをくりかえしている。扉をあける覚悟がなかったから。実際に扉をあけたとして、そこに姫がいなければ、やはりわたしはがっかりするだろうし、もしも仮に姫がいたとしても、わたしが想像していたような姫じゃないかもしれない。すごくブサイクだったら残念すぎる。実は休み時間のたびに屋上にこもってタバコをふかしている不良少女だった、なんてオチもいやだ。前者はともかく後者だったばあいは、見つけてしまったわたしはどうなってしまうのだろう。そうやって想像が想像をよんで芋づる式に樹形図みたいにどんどん広がってしまったせいで、結局、扉にかけた手に力をこめられないまま授業の予鈴を聞くはめになる。そういうのを一週間繰り返してきた。


 だけど、今日のわたしは一味ちがう。なにせ、屋上の扉をあけるためだけに、数学の授業をサボってきているのだ。これであけられなかったら、なんのためにお母さんや先生に怒られる危険を冒しているのか、わからなくなってしまう。


 それに今日は、お気に入りのインスタントカメラを持ってきていた。これで姫の写真を撮って、姫はほんとうにいたんだ、っていう決定的証拠を、しっかり残してやろうと思ったから。


 わたしは南京錠を扉からはずすと、ほこりっぽい床に音を立てないようにそっとおいた。それから、さびで微妙にざらざらしている冷たい扉の表面にてのひらをあてて、ゆっくりと、ビードロをならすみたいな深呼吸。


 扉をおそるおそる押す。


 それから、急に世界が真っ白な光につつまれて、わたしはしばらくなにも見えなかった。うす暗い室内から、とつぜん昼間の外にでたからだ。わたしはなんどもまばたきをして目をならした。


 そして、噂がほんとうだったことを知る。


 扉のむこうの屋上には、たしかに姫がいた。


 ▽


 なんとなく屋上へきた。ほんとうは、屋上へいかなければ……、っていう、なんだかとてつもない使命感をかかえていたような気もするけれど、それが正確にはどんなものだったか忘れてしまったのだから、なんとなく、でいいだろう。


 あたし、宮入葵は、冬になったばかりのある日の昼下がり、なんとなく授業をサボって屋上へきた。


 あたしは屋上が好きだ。とくに、実験棟の屋上は最近見つけたお気に入り。なぜって、もう誰も使っていないから静かな上に、扉を閉じている南京錠の鍵が行方不明だからだ。鍵の所在をだれも知らない以上、この屋上にわざわざこようとする人なんて一人もいない。いや、一人はいるか。それはもちろん、このあたし。この前ぐうぜんにも、あたしはこの屋上にくる別ルートを発見してしまったのだ。一つ下の階の教室のベランダに、避難用の折りたたみのはしごが置いてある。はしごの上端はタカのつめみたいに曲がっているから、それを屋上にひっかければ、そこから登れてしまう。この作業、うまくいけば三十秒もかからない。こんなに簡単に登れるのに、どうしてみんなやらないのだろう。降りるためのはしごを登るために使おう、とか考えるひねくれ者なんて、そうはいないってことかな。


 けれど、屋上へでてみると、どうやらあたし以外にもひねくれ者の中学生が、それも女子がいたらしいってことを、あたしは知るはめになった。


 屋上には先客がいた。髪の毛の長い女子生徒が、一番奥のフェンスから地上を見下ろしていたのだ。真っ黒い髪と真っ白い肌がセーラー服の上にはおったダッフルコートによく映えている。それを見て、なんだかCDのジャケットみたいだな、と思う。後ろ姿だけで、そのくらい絵になっていた。ぼうっとしていたあたしの手から力が抜けて、右手ににぎった音楽プレイヤーが、硬い音をたてておっこちた。CDジャケットが、それに気づいてふりかえる。


 きっと二人の目が合って数秒間は、世界中の時計の秒針が止まっていたにちがいない。


 女子生徒は、正面から見ても絵になった。もしかすると、ほんとうにまちがえて絵画から飛び出してきてしまったのかもしれない。あたしはこれからこの子を美術室へ案内すべきだろうか、いや、それなら図書室の画集コーナーかな……、なんてばかなことを、時間が止まっている間、あたしは真剣に考えていた。そのくらいきれいな子だったのだ。


 一方、女子生徒の方は、あたしの顔に巨大なチョウでも止まっていたのか、もしくはあたしが生き別れたハトコと同じ顔をしていたのかはわからないけれど、とにかくあたしの顔を見て、とんでもなくおどろいているような表情を浮かべていた。


「……あなた、名前は?」


 止まっていた時間は、女子生徒の声に発破されていっきに動きだした。


「葵……。宮入葵、十四歳、中学二年生です」


 不意をつかれたあたしは敬語で答えていた。女子生徒はまるであたしが答えたのが予想外だったといわんばかりに目をぱちくりさせて、それから目を伏せて、高級なチョコレート菓子を食べるときみたいに感慨深げに、「そう、葵、というの」と小さな声でいった。


「わたしは、物部姫子」

「姫子……」


 物部、プラス、姫子、なんて大層な名前も、その子にはよく似合っていた。あたしは下の名前をちぢめて、口の中でなんども「姫、姫……」とくりかえした。なんだか、なつかしい名前だな、となぜか思う。


「それでえっと、姫はどうしてここに?」


 姫は「姫?」といぶかしげにいってから、直後に自分のことだと気づいたようで、これを見ればわかるでしょ、といったふうに、足元に置いてあった金槌を持ち上げた。けれど、金槌なんて見せられても、あたしには意味がわからない。


「あ、もしかして工作しにきたとか? わざわざ屋上に。でもここ、すごく寒くない?」


 姫は合点がいったというふうな顔をして、それからだまったまま、首にさげているカメラを持ちあげた。カメラっていっても、カメラマンが使うような凸の字みたいなやつではなくて、またあたしが持っているような四角くて安っぽいデジカメでもなくて、ほとんど正方形の、角がまるっこい、すこしいびつなかたちをしたカメラだった。もしも真ん中にレンズがなければ、あたしはそれをカメラだとは認識できなかっただろう。


「それ、かわったカメラだね」

「インスタントカメラ」と姫は答えた。それからフェンスの外へ指をむけて、そっけなくいう。

「こうやって風景をとってる。写真、好きだから」

「インスタント?」


 あたしは頭の中でカップラーメンとレトルトカレーを思いうかべた。それから、カメラに熱湯をかける姫の様子を想像した。こういうことだろうか、ちがうような気がする。


「インスタントカメラっていうのは」と、姫はあたしの想像を見抜いたようにあきれた声でいいかけて、それから口で説明するのがめんどうになったのか、カメラのレンズを外の風景にむけてシャッターを切る。するとねじまきのおもちゃみたいな音がして、カメラの上の部分から長細いかたちの白い紙が、あっかんべーをするように飛びだした。

「それ、写真?」

「そう」


 姫は紙を指先でつまんでカメラからひっぱりだすと、それをあたしに見せてきた。あたしは姫のほうに何歩か近づいて、その紙をまじまじと見つめる。表面がなんだかつるつるしている紙だ。だけどそこには外の風景は写っていなくて、真っ白ののっぺらぼうである。


「これ、しばらくおいておくと、色がはっきりして写真になる。こうやってすぐにできるから、インスタント」

「へえ、なんだかいかしてるね」

「そうかしら……」

「姫、ってかんじ」


 あたしはかなりてきとうなことをいった。姫は困った顔になって、顔をうつむかせる。想定にない反応をされたので、あたしもすこし困る。とりあえず、回れ右。


「あたしはそろそろ帰らないと。姫はいつでもここにいる? あたしはまた明日くるよ」

「いるわ。……あなたがくるのなら」

「え?」


 最後がよくききとれなかったから、あたしはふりかえった。すると姫は慌てたように首をふって、


「なんでもないわ」


 それからぷい、と横をむいて、小さな声で「また明日」といった。


 それが、あたしと姫の初めての出会い。



 それから一週間、あたしは毎日屋上におとずれた。始業前にいっても昼休みにいっても終業後にいっても、姫はたいていそこにいた。たまに屋上にはいないときがあるけれど、そういうときは必ず学校の敷地内のどこかで写真をとっているから、屋上からその姿は視認できた。そういうとき、あたしは姫にむかって大きく手を振る。姫ははじめのころは三回に一回くらいしか気づいてくれなかったけど、だんだんと気づく確率が増えてきて、最近では必ずあたしに手をふりかえしてくれるようになった。ただし、かなり控えめに。あたしみたいに腕全体を振るのではなく、手首だけを使ってお上品にふっているから、それもまた姫っぽいのだ。でも、どうやら姫は姫っぽいっていわれることがそれほど好きじゃないみたいだったから、口にはださなかったけど。


 一度、もしかすると、と思って授業中に屋上にきてみると、やっぱり姫はそこにいた。いじわるそうに「授業はいつもサボっているの?」ってきくと、姫はばつの悪そうな顔でうつむいたあと、上目づかいであたしをにらみつけた。


「それはあなたもでしょ」

「いわれてみれば」


 あたしがけらけら笑うと、姫はたまに困った顔をする。まるで、こういうときのための表情を用意していないから、どうしていいのかわからない、という表情だ。あたしはその顔があまり好きじゃないから、すぐに笑いをひっこめて、別の話をすることにした。


「どうしていつも、同じ場所の写真を撮ってるの?」


 それは、ずっと気になっていたことだった。姫はいつも屋上からの写真を撮っている。雨の日も、晴れの日も、曇りの日も。もう、撮るものはなくなっているのではないだろうか、とあたしは思うのだけど、今日も姫は変わることなく、屋上からの風景にレンズをむけてシャッターを切る。


「同じ場所だけど」カメラのレンズをのぞきながら姫はいう。「写っているものは、ちがうもの。たとえば、空は毎日ちがう。天気はもちろんだけど、同じ晴れの日だって、雲の形は一秒ごとに変わっていく」

「でも」とあたしは口を挟んだ。「姫は空の写真だけじゃなくて、地上の写真もたくさん撮ってるよね。というか、そっちの方が多い気がする」

「そうね。地上はもっとちがうわ」


 姫はフェンスに指をからませて、グラウンドをかけまわる人形みたいな生徒たちを見おろした。屋上をふくそよ風が、姫の髪をなでるようにゆらしていく。


「グラウンドを使っている部活は曜日によってかわる。体育の授業だって、あそこを使うクラスは毎日ちがう。毎日ちがう生徒やちがう先生が、あそこにはいるわ」

「姫は、人を撮っているの?」

「ええ」姫はうなずく。「痕跡を残しているの」

「痕跡?」

「そうよ。ある人が教えてくれた……。こうやって人の写真を撮ることで、痕跡を残せるの。そして、神様の消しゴムは、痕跡を消すのには時間がかかる」


 姫はくるりとからだを反転させて、こちらをむいた。それから、コートのポケットに手をつっこんで、小さなノートをとりだした。


「なにそれ?」


 あたしがきくと、姫は困ったような顔をした。まただ、どういう表情をすべきかわからないような顔。これは予想外のタイミングで現れるから、あたしの方も困ってしまうのだ。


「日記帳」と、姫は困った顔のまま答えた。

「へえ、姫は日記をつけるんだ」

「ちがうの」


 姫は首をふった。続く言葉を待ったけど、姫は口を閉じたままじっとこちらを見すえるだけだった。あたしはしかたなく口をひらく。


「ちがうってことは、それは別の人の日記帳ってこと?」


 姫はそれには答えず、無言のままあたしの方へ近づいてきて、そのノートをさしだしてきた。あたしは少々面食らいつつそれをうけとると、うけとった手前なにもせずに返すわけにもいかないから、とりあえずまじまじと見つめてみる。ありがちな黄色のキャンパスノートだ。あたしも同じのを持っていたはず。近くで見ると、けっこう汚れているがわかった。日記帳なら、いつでも自分の部屋に置いておけばいいのだから、こうは汚れないだろう。だからあたしは、これの持ち主は、日記というよりメモ帳のような使い方をしていたのではないだろうか、と想像した。その日に起こったことというよりも、そのときどきに思ったことや考えたことなどを、忘れないうちに記しておくのだ。そういうメモ帳は、あとから眺めたときの、なんていうか臨場感がちがう。まるで自分のこころがからだから切りはなされて、その瞬間に戻ったみたいな感覚を得ることができる。いうなれば、瞬間の結晶、あるいは、記憶の引き出し。どうしてそういうことがわかるかというと、あたしが実際にそういうノートを持っているからだ。


「めくってみて」と姫がいった。

「いいの? これを書いた人は、いやがらないかな」

「いいわ……。それの持ち主は、気にしないと思う。それに、もう誰に読まれたところで、変わらないもの」


 あたしは姫の言葉に首をかしげながら、ノートの表紙をめくった。


 しかし、使いこまれたふうの表紙とうらはらに、そのノートの一ページ目にはなにも記されていなかった。


 あたしはそこで底知れない胸騒ぎを覚えて、ページをぜんぶめくってしまう。それからノートをひっくりかえして、反対側からもう一度、すべてのページをめくってみる。


 やっぱり、見まちがいではない。


 そのノートは、すべてのページが空白だった。


 姫がいう。


「それも、写真と同じ」


 からかわれてるのかと思って姫を見てみたけれど、その表情は真剣そのものだった。


「写真と同じって……、さっきいってた痕跡ってやつ?」

「そう。すこし前までは、もっといろいろ書かれていた。だけど、もう残ってない。神様の消しゴムが、痕跡まで消してしまったから」


 そこまでいわれて、ようやくわかった。姫が、なんの話をしているのか。


「これは、消えてしまった人の日記帳、なんだね」


 あたしがきいても、姫はなにも答えない。ただ困ったような、どういう表情をしていいのかわからないような顔をしているだけだった。



 それから何日か経って、例の真っ白な日記帳のことが木枯らしにふかれてあたしの記憶のかなたへ飛んでいったころの昼休み。やっぱりあたしは屋上にきていて、やっぱり姫も屋上で写真を撮っていた。


 空を厚い雲がおおっているから、そろそろ初雪とご対面できるかな、なんてことを、姫のとなりにしゃがんでマフラーにくるまりながらぼんやりと考えていた、ちょうどそのとき。


 どこか遠くの方から、大きな羽ばたきの音がきこえてきた。


 あたしは空を見上げて、大きくため息をつく。羽ばたきの音がした方向には、ジャンボジェットほどの大きさの白い鳥がいる。


「きたよ、鳥だ」


 姫はカメラを構えていた手をおろして、あたしの真後ろに立った。


「天文室の鍵があるの。そこで羽宿りができるわ。あなたが、もう帰りたいっていうのなら、別だけど……」


 あたしがふりかえると、姫はぷい、と横をむいてしまい、そのまま屋上の隅へ歩いていった。そちらの方には天文室がある。もう誰も使っていないはずなのだけど、さいわい屋根も壁もあるので、たしかに羽宿りにはもってこいだ。


「待ってよ」あたしは姫の後ろすがたを追いかける。


 天文室の中は、案外あたたかかった。まあ、風が強い屋上と比べれば、たいていの場所はあたたかいだろうけど。


 床に姫が用意したらしい毛布が何枚か積まれていたから、二人でそれにくるまった。周りを見る余裕ができたあたしは、天文室の中を見回してみた。ここに入るのははじめてだけど、思った以上に広い。これなら二十人くらいは入れそうだ。真ん中には大きな天体望遠鏡、壁は一面にコルクボードがかけられていて、壁際にはいくつか長い机があった。コルクボードは、きっともともと授業で使うためにあったのだろうけど、今では姫の撮った写真が繁雑に留められて、ちょっとしたギャラリーになっている。でも、こっちの方がコルクボードとしてはしあわせなんじゃないかな、とあたしは思う。机の上にはブックスタンドが並んでいて、ファイルがたくさん立てられている。ファイルには、それぞれタイトルらしき文字の書かれたシールが貼ってあった。中にはやっぱり写真が入っているみたいだ。すみっこには、なぜか古びたレジャーシートが転がっていた。


「あの鳥は……」


 姫がとつぜん顔をあげた。


「え?」

「あの鳥は、なんのために地上に羽を落とすのかしら」


 あたしは姫の視線をたどって、天文室の中に唯一あった窓を見つけた。窓のむこうでは、白いものが舞っている。雪のようでいて、雪にしては大きすぎるし動きがにぶいもの。羽だ。


 たぶん今頃あたしたちの真上を飛んでいるであろう、気の遠くなるほど大きな鳥が羽ばたくたびに落とす、白紙のノートみたいに、あるいは消しゴムみたいに、真っ白な羽。寿命を克服できないことや、人間がジャンプしたところでせいぜい一メートルくらいしかとべないことや、世界が決して平等にならないことみたいに、もうみんなが知っていて、そしてみんなが諦めていることの一つに、あの羽がある。


 あの羽に触れた人間は、例外なくきれいさっぱり消えてしまう。一瞬で消えるのではなくて、やる気のない小学生がノートの文字を消すように、ゆっくりと、まるで病気で死ぬみたいに、すこしずつ消えていくらしい。でも、死ぬのとはちがって、なきがらが残ることはない。存在がまるごと消えてしまうのだ。そして、その人が完全に消えてしまうのと同時に、みんなその人のことを忘れてしまう。その人が残してきたものもいずれは消えてしまうし、そうなれば、誰もその人のことを思い出せなくなる。はじめからいなかったのと同じになる。ただ、誰かがそこにいたような気がする、っていう、大昔に治った大けがみたいな痕だけが、残されたあたしたちのこころにきざまれるのだ。


「さあ、わからないけど」あたしはてきとうに考える。「たぶん、人間が嫌いなんじゃないかな。たいてい神様っていうのは、人間が嫌いで人間にいじわるをするものだし」


 いい終えてから、あたしは後悔した。姫は消えてしまった人の日記帳を大事に持っていたのだ。きっと、大切な人を失ったのにちがいない。そう思って、あたしは姫の顔をこっそりうかがってみた。だけど、姫はとくに気分を害したふうでもなく、むしろうれしそうに、小さくほほえんでいた。姫のそんな顔ははじめてのはずなのに、妙になつかしいような気がする。


「……やっぱりあなたはあなただわ」

「え?」


 あたしが言葉の意味をきくまえに、姫は立ち上がって、壁際の机の方へ歩いていった。首にさげていたカメラを置くためみたいだ。


「ねえ、姫」あたしはふと思いついて、姫に声をかけた。

「そのカメラで、あたしのことも撮ってよ。いいでしょ?」


 姫はふりかえって、すこし考えてから「いいわ」と答えた。けれど、カメラを構えてシャッターを押そうとしたところで、その動きはとまって、そのまま撮影せずに、カメラをおろす。


「どうしたの?」


 姫はすぐには答えなかった。手元のカメラに視線をおとして、しばらく考えているみたいだった。あたしは自分がなにか重大なミスを犯したのではないかと思いはじめたところで、姫がいった。


「ごめんなさい。フィルムが足りないみたい」

「なんだ、なら仕方ないね」


 姫はあたしのとなりに戻ってきて、毛布にもぐる。


「まだしばらく降りそうだから、やむまで寝るわ。あなたも寝れば……」

「うん、眠れたら寝るよ」


 姫が寝息を立てはじめたのを確認してから、あたしはこっそり立ちあがって、壁際の机に近づいた。ブックスタンドに並んでいる写真入りのファイルの中で、気になるタイトルのものを見つけていたのだ。あたしはそれを手にとって、端正な字でシールに書かれたタイトルを、小声でつぶやく。


「屋上の姫」


 屋上の姫、とあたしがきいて思いうかべるのは、もちろん姫のことだ。その呼称は、姫にこそふさわしいと思う。


 あたしはファイルをひっくり返して、中にあった二十枚ほどの写真をとりだした。一枚ずつめくってみる。ほとんどが、屋上の風景を写しただけのものだった。屋上の姫、というタイトルでありながら、人は写っていない。一方で、妙な空白感というか、物足りなさを感じさせる写真だ。なにか大きなパーツが一つはまっていないような、そんな感覚。屋上だけでなく、教室や廊下で撮られた写真もあった。しかし、どの写真にも、やっぱり空白感はまとわりつく。


 やがてあたしは、最後の一枚にしてようやく人が写っている写真を見つけた。


 それは、屋上の写真。


 髪の短い快活そうな女子生徒が、フェンスに背中をあずけてこちらにむかってほほえんでいる写真だった。おそらくその生徒が、屋上の姫なのだろう。


 それは、天文室のすみで寝ている姫ではない。


 だけどその女子生徒のことを、あたしはよく知っていた。だぶん、この世のだれよりも。


 そしてあたしは思い出す。物部姫子ではない別の姫が、この屋上にはいたということを。


 ▽


 わたしは名前を知らない彼女のことを、暫定的に屋上の姫、と呼ぶことに決めた。姫は短い髪をゆらして快活に笑う、どちらかというとアウトドアっぽい明るい女の子で、実際のところ、あまり姫って感じはしない。それどころか姫曰く、わたしの方がよほど姫っぽいらしい。まあたしかにインドアではあるけれど、でも、別にわたしはお嬢様じゃないし、特別所作がお上品ってわけでもない。わたしの姫っぽいところなんて、せいぜい姫子っていう名前くらいだと思う。


 姫はいつも屋上にいて、レジャーシートを敷いてうたた寝をしたり、寝転がって空を眺めたり、グラウンドで部活動中の生徒たちを眺めたりしている。そして、たまに気がむいたように、小さなノートになにかを記す。そのノートは日記帳のようなものらしく、その日に起こったできごとや、そのときどきに思ったり考えたりしたことなどを、姫はどうやら書きとめているらしい。


 一方のわたしには、姫のように授業をサボり続ける度胸なんてとうぜんないから、屋上へくるのは基本的には昼休みや放課後になる。そして、たたずんだり寝転がったり歩き回ったりしている姫の姿を、首からさげたインスタントカメラで撮影するのだ。


 二人はよくわからない関係だった。


 わたしと姫は、べつに友達ではない。第一、たがいに名前も知らないのだ。わたしは彼女のことを屋上の姫としてしか認識していないし、姫だって私のことを、屋上で写真を撮りまくる物好きな女子生徒としてしか認識していないだろう。知り合いといっていいのかすらも微妙だ。この関係を既存のことばにむりやり当てはめるのなら、顔見知り、あたりが適切か。


 さいわいなことに、姫は自分のテリトリーに入りこんできたわたしという異物に対して、これといった排斥行動を起こさなかった。ただし、積極的に話しかけてきたりもしないから、べつに歓迎しているってわけではないみたい。きっと彼女にとってのわたしは、野良猫みたいなものなのだろう。いてもいなくても、そうは変わらない存在。そういうわけだから、二人の会話のはじまりは、いつもわたしからだった。


「どうしてあなたは、いつも屋上にいるの?」


 レジャーシートにあおむけに寝転がっていた姫は、長い指を空にむけた。


「羽に触れたらどうなるか、気になるからだよ」


 わたしはそのことばの意味を、すぐには理解できなかった。


「そんなの決まっているじゃない。消えてしまうのよ。あとかたもなく。その人がいたっていう、記憶や記録も、ぜんぶ」

「そうじゃないよ。あたしがいっているのは、もっと主観的なはなし」

「主観的なって……」すこし考えて、わたしは理解した。

「もしかして、羽に触れようとしているの?」

「いえす」

「それって……、死にたいってこと?」

「うーん、どうなのかな」


 姫は立ちあがって、レジャーシートをたたみながら、


「あの鳥は、なんのために地上に羽を落とすんだと思う?」

「それは……、そんなの、わからないわ。いまごろ科学者たちががんばって研究しているんでしょう。わかったら、きっとニュースで流れるはずよ」


 それから、もしかすると姫は答えを知っているのかと思って、「というか、あなたはどう思うの?」ときく。


 姫は笑いながら、「あたしもわからない」と答えた。


「けど……、たぶん、人間が嫌いな神様が、あの鳥をけしかけているんじゃないかな。たいてい神様っていうのは、人間が嫌いで人間にいじわるをするものだし」


 わたしはそれには納得がいかない。


「そんな、怪しい宗教団体の妄想みたいな……」

「それをあたしはたしかめたいんだ」


 姫は天文室の扉をあけて、たたんだレジャーシートを放りこむ。


「もしも人間が嫌いだったら、羽で消した人間には、さらにいじわるをするはずだと思う。たとえば、どこかに閉じこめたり、それとも、地獄みたいなところでずっと働かせたり。だって、そうでもしないと、いじわるにはならないでしょう?」


 結局のところ、姫は興味本位で羽に触れてみたがっているだけのようだった。だけどわたしには、それがただ死にたいと思っているのとどうちがうのかわからない。だって、好奇心を満たせたところで、この世から消えてしまうのでは、本末転倒ではないか。わたしにいわせれば、それは消極的な自殺願望だ。


「そうかもしれないね」と姫がいう。「あたしは親戚のおばさんと二人暮らしなんだ。お父さんもお母さんもいないから。たぶん、二人は消えてしまったんだと思う。だけど、寂しさとか、悲しさとか、そういうのがまったくないんだ。もしかすると、兄弟姉妹だっていたかもしれないのに。いつのまにか大切な人が消えているかもしれないのに、それに気づけないで、それについてなにも感じられないの」


 姫は天文室の扉をしめて、こちらに背をむけたまま、


「自分もいつかそうやって忘れられちゃうのかもしれないって思うと、生きている意味とか目的とか、ぜんぶわからなくなっちゃう。あたしにはむしろ、みんなが平気な顔して生きていけるほうが、よっぽど不思議だ」


 そんなのはあたりまえだ、とわたしは思う。多くの人々は、羽に触れて人が消えてしまう、という現象を、雷にうたれて人が死んでしまうのと同じように、あるいは、世界のどこかの紛争でたくさんの人が死んでいるのと同じように、おそろしいことではあるけれど、自分とは直接の関係がないことだと思っている。なぜなら、実感がわかないからだ。人が羽に触れて消えてしまえば、その人がいたころのことなんてみんな忘れてしまう。姫みたいな考え方を持っている人間なんて、そんなにいない。




 姫はいつでも屋上にいた。雨の日も晴れの日も、土日祝日も、そして、空に大きな鳥が飛んでいる日も。


 空に鳥がいる間は学校が休みになる。みんな羽に触れたくないのだから、当たり前だ。鳥は、短いときは数時間から、長ければ数日間も同じ町の空を飛び続ける。羽が落ちれば、学校だけでなくいろいろなものの機能が停滞してしまう。その間は、周囲の他の町が、止まってしまった町のぶんまでがんばって回るのだ。そうやってバランスがとられているってことを、いつだったか社会の授業で習った気がする。


 わたしは頭から雨がっぱをかぶって、大きな傘をさして、こっそりと家をぬけだした。この日はわたしが屋上の姫と会って、初めての羽の降る日だったから、もしかすると、今日のうちに姫は消えてしまうのかもしれない。最後に一度会っておきたかった。


 純白の絨毯がしかれたみたいになった街を駆け抜けて、人気のない学校に忍びこむ。休日の学校って夜中の学校の次くらいに不気味だ。下駄箱の陰やカーテンの裏や掃除用具入れの中とかに、だれかがかくれていそうな気がする。そうでなくても、だれもいない廊下というのは、世界の終わりみたいでさびしげだった。


 さいわいにも、わたしが屋上の扉から南京錠をはずそうとしている時点では、わたしは自分がここにきた理由を忘れてはいなかった。忘れていないということは、姫はまだ消えていないということだろう。


 わたしは雨がっぱのフードをかぶりなおして、扉をあけた。


 姫は屋上のまん中に立っていた。こちらに背を向けて。傘をさしている。傘以外はいつも通りで、つまりぼんやりと街をながめているみたいだった。わたしも同じように傘をひろげて、姫の後ろ姿に声をかける。


「おはよう」


 姫はおどろいたように振りかえった。


「あれ、今日学校休みのはずだけど。なんでここに?」

「それはおたがいさまでしょ」


 姫はおかしそうに笑って、


「きみって意外とアクティブだよね」

「そうかしら」


 姫が近づいてきて、わたしの手を取った。


「だれもいない学校なんてめったにないよ。一緒に校内を回らない?」


 思わぬ提案に、わたしはしばらくあっけにとられていて、その様子を見た姫がまた笑う。


「あたし、別に屋上に囚われたお姫様ってわけじゃないんだよ」

「そうなの。わたしは地縛霊みたいなものだと思っていたわ」

「ひどいなそれ」


 姫に手を引かれて、わたしは校舎の階段を降りた。行きは不気味でひどくさびしげに見えた無人の校内も、二人で歩くとそれほどでもない。しばらくすると、少し前を歩く姫が振り返って、「いつも持ってるカメラ、今日も持ってる?」ときいた。


「持ってるわ」

「それじゃ、写真を撮ろうよ、お互いの」


 顔にはださなかったけれど、わたしは内心かなりびっくりしていた。だって、姫がわたしに積極的に接してきたことなんて、今までなかったから。どういう心境の変化なのだろうか。急激な変化っていうのは、たいてい悪いことの前触れか、なにかの終わりの前振りとして現れる。この場合、それは姫が消えてしまうことなのだろうか、そんなふうに考えてしまう。きっと羽が降っているせいで、思考がネガティブになっているのだ。


 廊下や図書室や中庭で、わたしは姫の写真を撮る。そのあと、姫もわたしの写真を撮る。廊下をいくつもわたり、階段をなんども昇り降りし、ポケットの中身はしだいに厚みを増していって、やがて予備のフィルムも残り少なくなってきたころ。


「最後は教室で撮ろう」と、姫がいいだした。

「教室って、どこの?」

「あたしたちのホームルーム」

「あなたたち……?」わたしはそのことばの意味をすこし考えて、「もしかして、あなたと、わたし?」

「うん」


 姫はけらけらと笑う。わたしは動揺して、


「えっと……、わたしたちって同じクラスだったの?」

「うん」

「二年……」

「A組。そうだよ、同じクラス」


 姫はわたしにカメラを押しつけて、廊下を歩きだす。


「仕方ないよ。あたし、進級して早々授業放棄しちゃったから。だからあたしも最初、きみのことを見て同じクラスだってわからなかった。たまたまきみのカバンを見かけたから、わかったってだけで」


 わたしは教室の様子を思い出してみる。羽の影響で、教室には空席がけっこうある。それらはすべて、消えてしまった人のものだと勝手に思っていたけれど、どうやらそのうち一つは屋上の姫の席だったのだ。


「今日はありがとうね」二年A組の教室にむかいながら、姫はいう。「あたし、たぶん明日には消えているから。だけど、最後にちょっとだけ心残りがあって、それを解消したかったんだ」

「心残りって?」

「一度、そのカメラで写真撮ってみたかったんだ」


 教室に到着した。姫は引き戸に手をかけて、一気にひらく。鍵はかかっていない。いまどき泥棒なんて流行らないから、みんな防犯なんて概念を忘れているのだ。


「そう」とわたしは彼女のことばにうなずいて、それからカメラを差し出す。

「ありがと」


 姫はそれを受けとって、わたしに教室の机に腰かけるように指示をする。


「はい、チーズ」


 姫はシャッターを切った。それからわたしにそれを渡して、わたしのほうも同じように彼女の写真を撮る。それで最後だった。もうフィルムは残っていない。かつてフィルムだったものが、ポケットの中で重みを増しているだけだ。


「最後にひとつお願いがあるんだ」


 昇降口までわたしを見送りにきてくれた姫が、唐突にいった。


「なに?」

「あたしを撮った写真、何枚かくれない?」


 わたしはうなずいて、ポケットから写真を取りだす。今日撮った分すべてだ。


「好きなのを取って」

「ありがとう」


 姫はその中から何枚かとって、ポケットにしまう。それから上目づかいでこちらを見上げ、


「理由はきかないの?」

「きいても、あなたは教えてくれない気がしたから」

「べつにそんなつもりはないけど……」と、姫は苦笑いをして、「まあ、そう大した理由じゃないよ。記念みたいなもの。これでおわかれだしね」

「お別れっていうほど、長くは一緒にいなかった気がするけれど」

「それでもお別れはお別れだよ」


 わたしはうわばきとローファーを履きかえて、傘をひろげながら、校舎の外へでた。それから、桜吹雪みたいに舞い落ちる羽の中で、姫のほうをふりかえって、小さく手をふる。


「それじゃ……」

「うん、ばいばい」


 そうしてわたしたちはお別れを告げて、互いにいるべき場所へと帰っていった。わたしは自分の家へ、姫は屋上へ。たぶん、これが彼女と会った最後のときになるだろう、とこのときのわたしは思っていた。



 鳥は一週間もこの街の上を飛び続けた。勝手に家を抜けだしたわたしは帰宅した途端にこっぴどくしかられて、それからしばらくは軟禁状態にあったから、とうぜん姫の様子なんて見にいけなかったし、友達との接触も禁止されていた。お母さんはどうやら、わたしが友達にそそのかされて外出したのだと思っていたらしい。


 一週間が経過して、空から鳥がいなくなって、わたしの軟禁状態も解除されたから、久しぶりに学校へいくことになった。家を出ようとして、学校についたら真っ先に屋上にいこうと思っている自分に気がつく。それから、自分がまだ屋上の姫のことを覚えていることにも。鳥はもう空にはいない。この一週間飛び続けたあいつは、好き勝手に羽を降らせまくったくせに、その謝罪もなしにどこかへいってしまったのだ。つまり、この時点で姫のことを覚えているということは、姫は結局羽に触れなかったってことなのだろうか。なんだかんだで、死ぬのはいやってことだったのかな。でも、なんだかそれは、ちがう気がする。


「急がなきゃ」


 なんとなくそう思って、わたしはかけ足で学校にむかった。通学路で何人かの生徒を追いぬいて、グラウンドで朝練をしている部活を横目に、昇降口に入る。うわばきに履きかえたら、そのまま教室にはいかず、真っ先に実験棟の屋上へ。ほとんど息もつかずに階段を上り、一週間家にこもりきりでなまった足が湿ったプリントみたいにへろへろになるのを感じながら、どうしてわたしはこんなに焦っているのだろうと疑問に思った。わたしが姫のことを覚えているってことは、姫は消えていないってことで、それはどちらかというと嬉しいことで、だからこんなふうに焦ったり、不安に思ったりすることなんてないはずなのに。


 屋上の南京錠を金槌を使って開けて、扉を押した。


 とたん、強い風が一気に吹きこんだ。わたしの髪が後ろになびく。朝の陽光はまだそんなに強くはなくて、終わりかけた秋の屋上を消極的に暖めていて、その柔らかな光の中に、しかし姫はいなかった。


 わたしの指から南京錠が落ちる。


 屋上に姫がいない。彼女は消えてしまったの?




 けれどそんな予想は杞憂に終わる。わたしがしぼんだ風船みたいな喪失感をかかえて教室に戻ると、姫は平然とそこにいた。まだ、授業が始まるまでしばらくあったから、教室に他の生徒はいなかった。だから、姫と二人きりだ。


「……消えてしまったと思ってた」


 わたしの声はすくなからず震えていた。


「でも、どうして……」


 姫がこちらをむいて、すこし待って、というようにわたしにてのひらをむけてきた。


「一つ、頼みがあるんだけど」

「なに?」とわたしはきいた。

「きみが持っているあたしの写真、今ぜんぶ見せてもらえる?」


 ことわる理由はない。わたしは姫に、姫が写った写真の入ったファイルをわたした。


「ありがと」


 姫がそれを見ている間、わたしは一限の授業の支度をはじめることにする。足元にあるカバンの中身をのぞきこんだところで、ほとんど発作みたいにわたしはため息をついていた。ひかえめにいって、かなり安心していた。もともと互いの名前も知らないような友達未満で、その上姫はいつか消えてしまうとあらかじめ教えてくれていたというのに、わたしといえば姫が消えてしまうことをこころの底ではおそれていたらしい。でも、もう大丈夫。結局姫は消えなかったし、もう空には鳥はいない。しばらくはこないだろう。


「この一週間で消えてしまうと思っていたから、かなりびっくりしたわ」


 姫はこたえない。


 わたしは顔を上げた。


 ぱさぱさ……、と紙が落ちる音が連続した。わたしはすぐに、その紙の正体が写真だと気づいた。音を目で追う。視線の先に、床に散らばった細長い写真をとらえる。


 それから教室の扉が唐突に開いて、入ってきた人物が声を上げた。


「物部さん? おはよう、早いわね。一番乗りじゃない」


 わたしはそちらに目をむけた。うちのクラスの担任教師だ。


「あら、なにかしらこれ。写真?」担任は床に散らばった写真を見つけると、それを拾い上げる。「物部さんが撮ったの? きれいに撮れてるじゃない、先生写真部だったからわかるのよ」


 わたしは立ち上がった。椅子の足と床がこすれる音が響いて、担任がおどろいたようにこちらをむいた。


「あ、ごめんなさい、勝手に見てしまって。でもほんとうにうまく撮れてると思うわ。とくにこの写真……、あら、これ実験棟の屋上の写真じゃない? あそこ鍵がないのに、どうやって入って……」


 ちがう、といいそうになった。先生が見ているのは屋上の写真なんかじゃない、って。それは屋上の写真じゃなくて、屋上の姫の写真だ。どうして姫の姿に言及しない? どうして髪の短い快活そうな容姿の少女に言及しないの?


 わたしは担任の手から写真をひったくるように取って、それに目を走らせた。とたんに、わたしの抱えていた疑問がすべて破裂して消えた。


 たしかにそれは屋上の写真だ。他にも、学校の廊下の写真や、教室の写真もある。なるほど確かにきれいに撮れていると思う。けれど、わたしにこんな写真を撮った記憶はない。これとわたしの撮った写真の間には、決定的なちがいが一つある。それは、これらの写真には、決定的に欠けているものが一つある、ってこと。絶対になくてはならないものなのに、失われているものが、ひとつだけ……。


「先生」わたしは写真をポケットにしまった。「ちょっと、頭が痛いので、保健室に行ってきます」うつむくように足元を見る。「だから一限の授業は休みます」


 担任の返事を待たず、はじけるように教室を飛びだした。授業が始まるまでもうまもなくで、だから廊下にはたくさんの生徒たちが歩いていた。わたしは教室の前で立ち止まると、それらの生徒の中から姫の姿をさがそうとした。とうぜん見つかるはずはない。姫はこんなところにはいない。そんなのはわかっている。教室から、あんな不自然な消え方をしたのだ。そのうえ、写真からも消えて……。けれど、こういう可能性だってあるかもしれない。ずっと授業をサボっていた姫は、担任に見つかるのがいやで、あわてて教室を出ただけかも。だとすれば、まだ廊下にいてもおかしくはない。むしろそっちの方が自然だ。いきなり人が消えるだなんて、映画じゃないんだから、ありえない。でも、ありえないといえば、わたしが生まれる少し前までは、空から降ってくる羽に触れて人が消えてしまうなんてありえない、っていわれていたし、もっと前には、電話を持ち歩けるなんてありえない、とか、海を越えたむこうの国にたった数時間でいけるなんてありえない、とか、きっといわれていた。


 思考が壊れたてんびんみたいに悪い方へかたむいていく。しだいにほんとうに頭が痛くなってきて、わたしがこれからいくべき場所はどこだったっけと考える。保健室だろうか。あるいは、教室? もうすぐ一限がはじまってしまう。急がないと、遅刻になる。


「ちがう……」わたしは首をふって、ポケットの中の写真に手を触れた。「屋上にいかないと……」


 チャイムの音をききながら、わたしは実験棟の階段を駆け上る。一心不乱に屋上へ急ぐ。走りながら、姫の姿を想像してみた。髪の短い、快活そうな少女。大丈夫、まだ覚えている。でも、覚えているから、どうだというのだ。わたしは姫に会って、なにがしたいのだろう。お別れをいいたいのだろうか。どうせ忘れてしまうのに……。


 屋上の扉の南京錠はあいたままだった。さっきのわたしが放置したせいだ。でも、あのあと誰かが入った形跡はない。わたしは屋上の入口で膝に手をついて息をととのえながら、状況を整理しようとこころみる。教室から姫が不自然に消えたと思ったら、姫を撮ったはずの写真の中からその姿が消えていた。それは、姫が羽に触れたせいだろうか。そんな魔法みたいなこと、羽のしわざ以外に考えられない。でも、だったらどうして、わたしはまだ姫のことを覚えているのだろう。


 それから顔を上げて、屋上に姫の姿をさがす。とうぜんのようにそこに人影はない。けれどかわりにひとつ、姫の忘れ物を見つけた。屋上の真ん中にそれは落ちている。わたしはゆっくりとそれに近づいて、拾い上げた。


「日記……」


 姫がいつも持ち歩いてなにかを書き記していた、小さなサイズの黄色いノートだ。


 わたしはなんだかそうしなければならない気がして、その日記を開く。最初の数ページにはなにも書かれていない。白紙だ。そんなはずはないと思って、逆から開いてみる。やっぱり白紙。それから、なにか書かれているページを探して、ぱらぱらとめくってみる。


「なにも書かれていないでしょ」


 うしろで声がした。


「消されちゃったんだ、神様の消しゴムで……」


 わたしはふりかえった。屋上の入口で、姫がほほえんでいる。


「神様の消しゴムって」あたしはきいた。「あなたはやっぱり、羽に触れたの?」


 姫はうなずく。


「一週間前、きみに会ったあの日にあたしは羽に触れた」

「だけど、あなたはまだここにいる」

「違うよ。ほんとうのあたしはもう消えている。今のあたしはただの残りかすで、この世界に残っているあたしの痕跡が見せるまぼろしだから」

「痕跡……」

「たとえば写真とか、メモ帳とか、周りの人たちの記憶とか。神様は今ごろ、がんばってその痕跡を消しているところ。きみが持っている写真からも、あたしの姿が消えていたでしょう? 世界中のすべてのものから、あたしが存在した痕跡が消えるとき、あたしはほんとうに、完全に消える」


 わたしは一週間前のことを思い出していた。わたしは姫に、姫の写っている写真をわたしたのだ。


「もしかして、わたしから写真をもらったのは、それを知っていたから?」

「うん」

「さっき教室でいきなり消えたのは……」

「あたしがあの教室に存在していた痕跡は、この前羽の降る日にきみに撮ってもらった写真くらいだったからね。それが消えてしまえば、あたしはあそこに現れることができなくなる。だけど安心して。あたしはこの屋上には、たくさんの痕跡を残したから。まだしばらくは、ここに残るよ」


 姫はなんでもないことのように、そういって笑った。


「……そう」


 姫がもうすぐ消える。そんなことを告げられても、けれどわたしは意外と平気だった。もうすぐお別れだっていわれても、そんなに悲しくなかった。わたしは心のどこかでずっとわかっていたんだと思う。この少女はいつか消えてしまうんだろうって。それは、姫が自ら自分はいつか消えるだろう、って告げてきたときからではなくて、きっとはじめて会ったときから。


「わかったわ」とわたしは告げる。「だったらわたしは、明日からもいつもどおり、この屋上におとずれる。あなたがほんとうに消えてしまうまで、いつもみたいに接するわ」

「ありがとう、うれしいよ。だけど」姫はすこしいいよどんで、「あたしはもしかすると、きみのことを忘れちゃうかもしれない。もしも、きみと出会ってからの痕跡が消えてしまって、きみと出会う前の痕跡ばかりが残ったら、残りかすのあたしは、きみを知らないあたしになるから」


 わたしは、わたしを知らないころの姫の姿を想像してみた。簡単だ。はじめて会ったときがそうだったのだから。


 それからわたしたちは簡単なあいさつを交わして、その日は別れた。



 翌日、あたしはことばどおりに屋上におとずれた。今度は授業をサボらず、昼休みに。南京錠に金槌を打ちつけながら、そういえば姫はどうやって、南京錠をかけたまま屋上にでたのだろう、といまさらのように考える。あるいは、どうやって扉の外側から扉の内側に南京錠をかけたのだろう、と。手品か魔法を使わないと、そんな芸当はできないと思う。


 それから扉をあけて、昨日までは考えられなかったような冷たい風におどろいて、わたしはコートを着た自分のからだを抱きしめた。明日からはマフラーが必要になるかもしれない、なんて考えながら、屋上を歩く。姫の姿を探して、天文室の方へむかうと、扉に鍵がささりっぱなしなことに気がついた。ドアノブをひねってみる。簡単にひらいた。


 天文室に入るのはこれがはじめてだった。毛布やソファ、それと姫が屋上で寝ころがるときに使っていたレジャーシートなどが床にころがっていた。壁には、おそらくかつて授業で使っていたのであろう、コルクボードがたくさんかけられている。だけど、そこにはなにもとめられていなくて、なんだか殺風景だった。わたしはふと思いついて、肩にかけていたスクールバッグをおろすと、中からこれまで撮った写真を取りだした。姫の写真だけではなくて、学校の風景や、グラウンドで運動中の部活を撮影したものもある。それらを、おいてあったピンでコルクボードにとめていく。やがてちょっとしたギャラリーができた。姫が写っている写真は、ちょっと迷って、ファイルの中にしまったままにしておいた。だって、写真の中から姫が消えていくさまを見るのは、なんだかいやだったから。


「あ……」


 ギャラリー作りに満足して、一息ついてから時計を見ると、昼休みはとっくに終わっている時刻だった。一瞬だけ罪悪感でどきっとしたけど、すぐにまあいいか、という気分になった。昨日、体調不良を理由に休んだばかりだし、きっと先生もそういうこと、って判断してくれるだろう。


 わたしはインスタントカメラを首にかけると、天文室をでた。屋上にはやはり姫の姿はない。だけど、わたしが姫を覚えているってことは、まだ消えたわけじゃないんだろう。やきもきしながら、とりあえず写真を撮ろうと思って、グラウンドが見える場所まで歩いていく。


 そのとき、背後でなにかが落ちる音がした。


 わたしは振りかえる。屋上の反対側に立つ人物と、目があった。入口はそっちにはない。彼女の背後にあるのは、屋上を囲むフェンスだけだ。


 手品でも、魔法でも、なかった。


 屋上の姫は、フェンスをよじ登って屋上に参上していたのだ。想像よりもかなりアクロバティックな方法だった。


 わたしは声をかけようとした。今日はこないかと思って帰ろうとしてたのよ、って、ちょっとだけ非難がましく。だけど、姫の様子が目に入って、ためらいが走る。それからすぐに、時間が止まってしまったように、わたしの口は動かなくなる。


 姫はわたしを見て、明らかに驚いていた。まるでこの屋上に、人がいるとは思わなかった、というように。


 頭の中で、姫が昨日いっていたことばが再生される。姫は、もしかするとわたしのことを忘れちゃうかもしれない、といっていた。姫がわたしと知り合ってから残した痕跡が少なくなれば、それだけ姫のわたしに関する記憶はうすれていくと、たしかそんなようなニュアンスの話をしていたと思う。


 わたしは、ひらきかけたあとにとじてしまった口を、もういちどひらいた。


「……あなた、名前は?」


 屋上の姫は答える。


「葵……。宮入葵、十四歳、中学二年生です」



 宮入葵は、わたしと二度目の初対面をむかえたとき以来、屋上に入り浸るようになった。それに相関するように、わたしの方も、なんとなく授業をサボりがちになっていた。葵はいつもフェンスを登って屋上にきて、同じ経路で屋上をあとにするのだけど、他の場所で見かけることはない。きっと葵は、屋上以外には存在していないのだ。屋上の姫の痕跡が一番たくさん残っている場所は、やっぱりこの屋上だろうから。


 そうしている間にも、葵が写った写真はどんどんただの風景写真になっていく。葵がわたしのことを忘れてから十日がたつころには、ファイルがいっぱいになるくらいあった写真のうち、彼女が写っているのは一枚だけになっていた。わたしはそれを他の風景写真と一緒にファイルにほうりこんで、そのことを忘れることにした。どのみち、もうじきすべてを忘れてしまうのだ。写真のことくらい忘れてしまっても、大差はないはず。


 その初雪が降りそうな曇りの日も、葵は屋上にきた。しばらくふたりでいつもどおりすごしていると、いきなり空がかげる。鳥が飛んできたのだ。地上に羽を降らすために。


 わたしは葵の背中に声をかけた。


「天文室の鍵があるの。そこで羽宿りができるわ。あなたが、もう帰りたいっていうのなら、別だけど……」


 葵がふりかえるのを見てすぐに、わたしは天文室の鍵をあけにいった。


 最近のわたしは、葵との距離感をいまひとつつかみかねていた。これまでどおり普通に接すればいいのだろうけれど、葵が以前の記憶をなくしていることを思い出すたびに、どうしていいかわからなくなってしまう。結果、わたしは困った顔をしてしまうみたいで、それで葵も困らせてしまうのだ。


 天文室の中で、二人で同じ毛布にくるまって、わたしたちは話をした。どうして鳥は羽を落とすのか、とわたしがいつかしたような質問をして、葵はいつか返したような答えを返した。それから、カメラを首にかけたままだってことに気がついて、わたしはそれを壁際のテーブルにおきにいった。


「ねえ、姫」と、葵がわたしの背中に声をかけた。

「そのカメラで、あたしのことも撮ってよ。いいでしょ?」


 わたしは振り返って、すこし考える。痕跡の見せるまぼろしである葵を撮影したら、どうなるのか。ただ、まぼろしといっても、葵は実体のあるまぼろしだ。きちんとぬくもりもある。同じ毛布にくるまったとき、ふれあった肩にやわらかな息づかいも感じられた。


「いいわ」


 そう答えて、カメラを向ける。けれど、レンズをのぞきこんでも、そこにはひしゃげた毛布しか映らなかった。葵はどこにもいない。そんなのはあたりまえだ。葵は、羽に触れて、もうすぐ消えるのだから。だけど、葵が消えつつある確たる証拠をこの目ではっきりと見たのは、そういえばこれがはじめてだったかもしれない。いままでは、写真とか、記憶とか、いくらでもごまかしのきくものばかりだったから。


 わたしはそっとカメラをおろす。レンズ越しでなければ、葵はきちんとそこにいた。


「ごめんなさい」


 声がゆがんだ。葵に気づかれていないことを願って、わたしはうその理由を告げる。


「フィルムが足りないみたい」

「なんだ、なら仕方ないね」


 それからわたしは葵のとなりに戻って、顔を見られないように毛布にもぐりこんだ。


「まだしばらく降りそうだから、やむまで寝るわ」


 そういってから、目をつぶった。耳もふさいでしまいたかった。なにもかもから、自分を切り離してしまいたい、と思った。顔にあたる毛布が冷たい。もれそうになる声を、下唇をかんで押し殺した。ふるえそうになるからだをすこしでも葵からはなそうとしながら、わたしは毛布越しに、葵の息づかいをきく。せめてわたしが起きているあいだは、その音が消えてしまわないことを願って……。



 いつの間にか眠っていたみたいで、わたしは冷えてしまったからだをふるわせながら、毛布から顔をのぞかせた。寝起きだからか意識がぼんやりとしていて、ここがどこだか思い出せない。壁にコルクボードがかけてある。そこにはたくさんの写真がとまっていて、どれもわたしが撮った覚えのある写真だ。


「そうだ……」


 わたしは毛布の中でちぢこまりながらつぶやく。


「ここ、天文室……」


 それから毛布をマントのようにはおって立ち上がると、床に何枚かの写真が散らばっているのが目に入った。それをひろいあげる。どれも風景写真だ。屋上のものが多い。もちろん風景写真なんだから、人は写っていない。わたしは、どうしてこんなものを撮ったのだっけ、と首をかしげながら、それらを一緒に落ちていたファイルにしまおうとする。


 手がとまった。


「屋上の姫」


 ファイルに貼ってあるシールには、そう書かれていた。屋上の姫。その名を、わたしは知っている。生徒たちのあいだで流行っているうわさだ。実験棟の屋上には姫がいる、っていう……。だけど、姫なんていないことはこのわたしが知っている。なにせ、いまわたしがいる場所が、その屋上なのだ。


 しかしどうしてだろう。屋上ばかり写した風景写真が、屋上の姫、とネーミングされたファイルに入れられていたのは。屋上の姫、と名づけるのなら、せめて人が写っている写真をまとめるべきだ。わたしならそうしたはずだ。でも、この筆跡はまちがいなくわたし。だから、このネーミングも、わたしなのだろうか。


 答えのでない問いに首をひねるのをやめて、わたしは屋上へでることにした。インスタントカメラを首にかけて、コートの前のボタンをとめなおして、天文室の扉をあける。


 そこに待っていたのは、予想以上の冷たい空気と真っ白な世界だった。おどろいたわたしは半歩、部屋の中に引いた。だって、羽が降っているのだと思ったから。けれどそれはちがった。


 それは雪だった。


 そういえば、雪が降りそうな空だったような気がする。だけど、どうしてわたしはそんな日に、屋上へきたのだろう。


 雪には足跡が刻まれていた。それは天文室の扉の前、つまり今のわたしの足もとからはじまって、屋上の入口とは反対側の、グランドを見渡せるフェンスの方へと続いている。もしかして、わたしが寝ているあいだに、ここをおとずれた人がいたのだろうか。そして、フェンスの方へ……。まさか、そちらから出入りできるのだろうか。


「まあ、いいわ」


 今はとにかく、あたたかいところへいきたかった。寒いところで寝ていたせいで、まだからだのふるえがとまらないのだ。それに、考えごとをするのも、なんだかおっくうだし。


 わたしは罪悪感を覚えるくらいきれいな雪に足をしずみこませながら、入口へむかった。かじかんだ手で扉をひっぱって、たいしてあたたかくもない校舎の中へ足をふみいれる。それから、肩にうすくつもった雪を、てのひらではらう。


 背後でいきなり扉がしまった。


 わたしははっとしてふりかえる。風のしわざだろうか。屋上の扉は外開きだから、そうかもしれない。けれど、それにしては、あまり大きな音はしなかった。風っていうのは加減知らずだから、そんなに優しくはものをあつかえない。それに屋上の扉は観音開きだ。片方がしまることはあっても、両方同時にしまることなんて、そうはない。


 もしかして、外にだれかがいて、その人がしめたのかもしれない。わたしはそれをたしかめようと、扉に手を触れる。そして気がついた。扉には、南京錠がかかっていた。


「なんでっ?」


 おかしい。わたしは南京錠なんてかけていない。だけど一瞬前まではひらいていた扉だ。だれかがわざとやらなければ、南京錠なんてかからない。


 おどろいているわたしに追い討ちをかけるように、扉のむこうで声がした。


「実験棟の屋上にいる姫のことはみんな知っている」


 なんどもきいたことのある、うわさの一節だ。声は歌うようにそれをつづける。


「でも、姫のことをほんとうに見たことがある人は、ほとんどいない。だって姫のいる屋上の扉には、とっても大きな南京錠がかかっているのだから」


 あとずさろうとしたわたしの足がなにかにあたった。床に放置していた金槌だ。わたしはそれをひろう。


 たぶんわたししか知らない話。


 南京錠には秘密がある……。


 実は固くて頑丈そうなのは見せかけなのだ。南京錠の天地を逆にして、右上の角を金槌で叩けば、かちゃ……、というかわいた音がして、ツルの部分ははずれてしまう。そうすれば、扉は簡単にひらく。これはずっと前に、わたしがたまたま見つけたやり方だ。


 わたしはここのところずっと、休み時間がくるたびとはいわず、授業をサボりがちになってまで、ここにきていた。


 それはなぜ?


 それは、屋上の姫に会うためだ。


 わたしは南京錠を扉からはずすと、ほこりっぽい床に音を立てないようにそっとおいた。それから、さびで微妙にざらざらしている冷たい扉の表面にてのひらをあてて、ゆっくりと、ビードロをならすみたいな深呼吸。


 扉をおそるおそる押す。


 それから、真っ白な世界に、わたしはふたたび足をふみいれた。


 そして、噂がほんとうだったことを思い出す。


 扉のむこうの屋上には、短い髪をゆらして笑う、快活そうな少女。


 屋上の姫がいた。


「っ……!」


 その名を呼ぼうとして、しかし、ことばがでてこなかった。わたしは彼女の名前をきいているはずなのに、それがまるで思い出せないのだ。長い文章の中で、彼女の名前だけが消しゴムで消されてしまったみたいに。だけどそんなのはどうでもよかった。姫が、まだいるのだ。いちどはたしかに忘れてしまったはずなのに、また彼女に会えたのだ。わたしはなんども転びそうになりながら雪の中を進んでいき、屋上の真ん中でこちらをむいて立つ姫にだきついた。


「きみってやっぱりアクティブだよね」


 わたしの背中に腕を回しながら、姫がささやいた。


「どうして……」と、わたしは姫の首に顔をうずめながらきいた。「あなたは、消えてしまったはず……。あなたが写っていた最後の写真からも、あなたの姿は消えていた。それに、わたしもいちど、あなたのことを忘れていたのよ。なのに、なぜ?」

「みんな、屋上の姫のことは知っていても、あたしのことまでは知らなかったからね」

「ちがうわ。姫ってあなたのことよ」

「そうだね」と姫はうなずく。「でもね、あたしと姫は厳密には別物だよ。屋上の姫はあたしだけど、あたしは姫じゃない。あたしはあくまで、宮入葵」

「宮入葵……」


 わたしはその名前を反復する。しかし、てのひらに舞い降りた粉雪みたいに、その名前はわたしの中からすぐに消えてしまった。


「それは忘れてしまってだいじょうぶだよ。宮入葵はこの世界から消えたんだ」

「でも、それってあなたのことじゃない」

「そう。宮入葵はあたしだった。だけどそれと同時に、屋上の姫もあたしなんだ。そして、神様は宮入葵は消すことができても、屋上の姫を消すことはできなかった。なにせ……」

「実験棟の屋上にいる姫のことはみんな知っている」

「いえす」と、姫が笑った。

「あたしはどうやら、会ったこともないようなみんなの記憶の中に、屋上の姫、っていう痕跡を残していたみたい。これはもう、個人に関する記憶を消すだけの、神様の低性能な消しゴムじゃ、消しきれなかったんだろうね。なんたって、屋上の姫の存在は、あたしだけが残したわけじゃない、みんなのあいだで、いつのまにかできあがっていたうわさ、なんだから」


 姫の腕の力が強くなる。コート越しにも感じられるくらいのたしかな体温と息づかい。姫にいわせれば、これはあくまで痕跡の見せるまぼろしなのだろうけれど……。


 わたしはたしかに感じている。姫がここにいるってことを。


「まあ、これで正真正銘、あたしは地縛霊みたいな存在になっちゃったってわけ。みんなが屋上の姫のことを忘れてしまうまで、あたしはずっとここにしばられる。それは来年までかもしれないし、十年後までかもしれないし、この学校が取り壊されるまでかもしれない。そうなったらそれこそ幽霊だ」

「だったら」とわたしはいう。「わたし、ぜったいに忘れないわ、あなたのこと。あなたをぜったいに消えさせたりなんてしない」


 もちろん、そんなのは偽善だ。遠くへ引っ越してしまう友達に、いつまでも友達よ、というのと同じ。中学を卒業したら、もうこの屋上へはこられないだろうし、そんなのは姫だってわかっているだろう。だけど、そのことばにうそはないつもりだ。わたしはぜったいに、姫を忘れたりなんてしないし、彼女が消えるまで、なんどでもあいにいってやる。


 姫がうなずいた。


「ありがとう。あたし、うれしいよ。きみは屋上の姫のいちばんの友達だ」


 友達……。そんななにげないことばが、わたしの胸の中に、ホットミルクみたいにしみわたる。わたしたち、お互いのことなにも知らないけれど、それでも友達、なんだ。友達っていってくれるんだ。


 いつのまにか雪はやんでいて、うすくなった雲にはところどころに切れ間ができていた。そこからこぼれた太陽の光が、真っ白な地面にあたってはじけている。わたしたちはお互いに手をとりながら、屋上の端まで歩いて、そこから地上を見下ろした。何人もの生徒たちが、珍しい雪にはしゃぎながら、グラウンドを走りまわっている。やがてその様子は水彩画みたいににじんでいって、わたしは頬を熱いしずくがつたうのを感じる。



 実験棟の屋上にいる姫のことはみんな知っている。姫はいつでも誰もいない屋上にいて、もうずっと使われていない天文室を根城にしているらしい。だけど、姫は決してひとりぼっちじゃない。彼女には、かけがえのない友達がいるから。




おわり

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