第10話
初冬を迎えても、浜の太陽は春のように温かく、穏やかだった。潮風が頬に心地いい。
足に砂の感触が深くなったころ、百合香は海を見晴らした。波間に跳ね返る日差しも柔らかく、目を細めずとも見渡せる。
それでも、視覚より先に耳が捉えた。風に乗った減の音が、かすかな調べとなって耳を撫でてくれたからだ。胸が高まるのと同時に、百合香は駆けだした。見覚えのある後ろ姿に向かって、それこそ無我夢中に。
息が上がるのも構わず、目頭が熱くなっても気にすることなく、砂浜を蹴りつづけた。
「パッシーさん……」
リュートを奏でていたパッシーが驚いたように振り向く。
「ユリカちゃん……どうして、ここに?」
「わたし……わたしは……」
百合香と目を合わせたパッシーは、小さく微笑むと人差し指を口の前に立てた。そして、リュートの弦をつま弾いた。かすかなビブラートと余韻がふたりの沈黙を際立たせる。
「波の音にね……逆らわず、寄り添うように……そっと、そっと小鳥がさえずるように」
打ち寄せるさざ波とシンクロしたリズムは、ユリカの心を温め、やさしくさすってくれた。
「ごめんなさい。わたし、とんでもないヘマをしちゃって」
不思議なくらい、素直に言葉が出た。
「ヘマだなんて、君は間違ったことなどひとつもしでかしていない。むしろ、間違っていたのはボクのほうさ」
地平線を見つめながら、微笑みを絶やさないパッシー。
「広告や路上ライブでナイトビートを助けてくれたのに、気づかなかったわたしが悪いんです」
「フフフ、前にも言ったけど吟遊詩人は人助けなんて興味がないんだぜ」
「わかってます」気色ばんだ言い方は、なにか心に秘めていたものがそうさせたか。
「……」興味ありげに、パッシーが百合香を向いた。
「おばあちゃん……、ホノカおばあちゃんの時も、パッシーさんはそういって消えたんじゃありませんか」
「なにを……言い出すかと思ったら」
目をそらし、ふたたび海を向く。そのすきに、百合香はとなりに腰を下ろした。
「パッシーさんは、おばあちゃんと愛し合っていたんでしょ。まわりに隠していたつもりでも、バレバレだったって、お手伝いだったおばあちゃんから聞きました」
「ああ、フミさんのことか。あんなお年寄りの記憶を真に受けたのかい、ハハハ」
「でも、富津に大嵐がきて、網元の船が全滅したことは事実でしょ。立て直すには、ひとり娘のホノカばあちゃんに資産家の旦那さんをもらうしかなかった」
「昔の話なら、いかにもありそうだね」
「そう、これだけならわたしも驚かない。でも、そのアイデアを出して、しかも資産家まで連れてきたのがパッシーさんだとしたら、人助けに興味がないなんて信じられない」
リュートの音が止み、パッシーの顔がこわばった。
「パッシーさんがいなくなった晩、ばあちゃんの部屋から聞こえたすすり泣きは、一晩中続いたって、フミさんが言ってました」
ふたたび、リュートが鳴らされた。指はとりとめもなく動かされ、ぼんやりと響く。
「一晩だけ泣いて、その後の一生が幸せになれるなら……そう考えるのは罪か?」
「わたしには、そんな風に考えられません。幸せにしたいひとがいたら、ずっと寄り添い続けたい」
「フン、そんな幻を何度見たことか」パッシーが小さく首を振る。「ひとの一生を何回となく繰り返したボクなんだ。むなしくて、切ない結末をもうたくさんってくらい経験した。そのたびに、胸が引き裂かれるような思いをするんだ。救いようのない悲しみを、君は……」
「ダメ! そんなの!」
強い調子にパッシーは息をのみ、百合香を見つめたまま口が開かない。
「切ない結末を繰り返したっていいじゃない。きっと次は上手くいくかもしれないって、勇気を出せばいいのに!」
言ったそばから、思いがけない自分の言葉に戸惑った。
「……ごめんなさい、生意気なこと言っちゃって」
「いや……きっと、ホノカも同じように思っていたかもな……」
しばらく、さざ波の音だけがふたりの沈黙を埋めていた。
「おばあちゃんのこと、素晴らしい女性って言ってましたよね」
「うん、あんな素晴らしい女性は初めて会った」
「どんなところが素晴らしかったの?」
ん、とパッシーが百合香を向いた。
「芯の強い女性だった。ひとの痛みをわかろうとする努力がそうさせたんだ。それでいて、無償のやさしさにあふれている。優しい時はマザー・テレサよりも優しかった」
「優しくない時は厳しかったでしょ」少し冗談めかして言うと、パッシーが目を見開いた。
「そりゃ、もう怖いなんてもんじゃなかった。気に入らない詩なんか弾いた時なんて……」
おどけてみせたパッシーと、百合香の笑い声が風の中に溶けていた。
「……パッシーさん、ひとつお願いがあるんですけど」
「なんだい?」
「わたしの前からは……消えないで」
「……」
瞳の奥に切ない光が一瞬灯る。
「ずっと……ずっと一緒にいたい」
ほんの少しの間をおいて、滑らかでもソフトでもなく、ぎこちない声が聞こえた。
「……ああ、ボクもユリカと一緒に……ずっと一緒にいたいよ」
それを聞いてパッシーの胸に顔を埋める百合香。背中をそっと抱く手のひらが例えようのない安心感をさそう。
顔をあげた百合香と目が合うと、パッシーは微笑み、そしてキスをした。
ゆっくりと唇が離れ、百合香は目に涙をにじませた。さりげなく涙を拭い、明るい笑顔を浮かべて言った。
「ねえ、ホノカばあちゃんともこんな優しいキスだったの?」
見る間に真っ赤になったパッシーに、百合香はこらえることなく笑い声をあげていた。それは、弦の音に乗りいつまでも消えることがなかった。
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