第9話

 なにもない。心の中にはなにもなかった。悲しさも、寂しさも、あるいは悔しさや怒りさえも。放心や虚脱なのか。思うことすら、始める前に終わってしまう。

-なんなんだろう、空っぽすぎる。

 あの夜から、百合香は自分を見失っていた。考えること、思うことすら億劫になり、ぼんやりと壁や天井を見つめるだけだ。編集部に風邪をひいたとメールを送ってから三日が過ぎても、出口は見えない。むろん、警察に呼び出されたことは伏せていた。

 ベッドの中で、身体を丸めていると枕元でスマホが鳴った。古賀からの電話だったが、スルーして留守番電話への声だけを聞いていた。

「ユリカ、具合はどう? 結構みんな心配してるよ。ところで、広告の調子はいいんだけど、ちょっと不思議なクライアントがいるの。もしかしてユリカが営業したのかなと思って確認の電話だよ。富津の岬まつりって、こないだの取材で営業してきたの? あと、区長の小此木さん? この人も選挙ポスターみたいな広告を出してきたんだけど……」

 ナイトビートにまつわる心配事も百合香の中では半ば置き去りで、最初は聞き流していた。

-岬まつり? 営業なんかしてないし。小さく鼻で笑ったものの、小此木区長の名前がなにかを閃かせた。

-ちょっと待って。選挙ポスターって、あの時の……。街宣車の上で調子よく歌うパッシー、抹茶をすすりながら一緒に食べたタイ焼き。立て続けにフラッシュバックする。

「まあ、営業的には嬉しいニュースだけど、ちょっと気になってね。よくなったら、連絡ちょうだい。じゃ、お大事に」

 メッセージを聞き終えた百合香はゆっくりとベッドを這い出した。目には困惑が浮かんでいたものの、いくらか生気も戻っている。

 頭の中に浮かんだことを整理するように、百合香は慎重に身支度を整えていた。


 編集部に着くと、小田原と古賀があからさまに安心を顔に浮かべた。雑誌の編集部などとカッコをつけていても、肉体労働にほど近い職場だ。若い女性が馴染むことなくリタイヤするのを幾度となく見てきたふたりが安堵するのも当然だった。

「ご心配おかけしちゃってスミマセン」挨拶もそこそこに、百合香は広告原稿を見せてほしいと古賀に頼んだ。

「ん、こっちが岬まつりの告知で、こっちが小此木区長っていうか、区の清掃キャンペーン広告よ。どっちも今までナイトビートに広告なんて出したことないクライアントだから、営業部もビックリしててさ」

「岬まつりは百合香どんのお手柄としても、ナイトビートに区長のキャンペーン広告ってアンバランスというか、不思議すぎるべ」

 小田原はそれでも嬉しさを隠そうとしていない。この時期、どんな広告だろうと一本でも増えるに越したことはないのだ。

「どっちも、わたしが営業したものじゃありません」

 ぽつりと百合香がもらすと、小田原は不思議そうな顔をしたものの、古賀は眉のひとつも動かさなかった。

「やっぱり、そうか。アーシも、もしかしたらそうかなと思ってたんだよね。ユリカが頼んだの? パッシーに?」

「……いいえ」力なく首を振る百合香。

 すると、小田原が「おい、ちょっと見てよ」と素っ頓狂な声で編集部にあったテレビを指さした。

 夕方のニュースだろうか、画面は新宿駅前を映していた。人混みの中で、ひとりの男がギターのような楽器を肩から下げ、気取った様子でステップを踏んでいる。

「先日から現れた、この奇妙な路上アーティストは、自らを『吟遊詩人』だとアピールし、道行く人々の関心をひこうと……」

 ボリュームをあげたテレビから流れてきたアナウンサーの声を聞いて、「パッシーさん、ちょ、ウケるんだけど」と吹きだす小田原を古賀が「静かにして!」と制した。画面でパッシーが中央に映し出されると、音声は歌声に変わった。

「ラララ~ 透き通る夜空に溶けたささやきに ふりむく君はもうそこにいない ああ、ナイトビート 心に届くナイトビート 誰がために君は鳴る ラララ」

 古賀が吹きだすと、続いて小田原も「ウケる」と腹を抱えだしていた。

「まさか、これってユリカが頼んだわけ?」

 その声は、編集部を飛び出していった百合香には届いていなかった。

-わたしは……間違っていたのかもしれない。

 こみ上げる思いを抱きつつ、百合香は会長室を目指して階段を駆けあがっていた。大それたこととは分かっていたが、今の百合香に自分をとめる手だては見当たらない。

「失礼します」

 返事も確かめずに会長室の扉を開くと、まりあと来客がこちらを向いた。

「いきなり、どうしたの。失礼じゃない」まりあの硬い声。

「す、すみません。どうしても、会長に確認したいことがあって……」

 百合香の様子を察したのか、会長と向かい合ってすわっていた男が「では、私はこれで」と席を立つ。部屋を出ていく際、百合香に柔らかな微笑みで会釈をしていった。

「まあとにかく、そこに座りなさい」声の硬さは半分も減っていない。「時間の無駄になる話でなければいいんだけど」

「あ、あの、何日か前、会長は通報しませんでしたか、警察に……」

「……したわよ。だって、夜中に家の前で歌われたら、誰だって……」まりあは言葉を切ると百合香をじっと凝視した。「たしか、アナタはナイトビートの……三嶋さんだったかしら。まさか、あれは三嶋さんが仕組んだ嫌がらせだったの?」

「い、嫌がらせ、ですか?」

「暗くてよく見えなかったけど、男がギター片手にウチの前をフラフラしてたの。かと思ったら歌い始めるじゃない。うるさいっていうより、気味が悪くなって110番したの。当然でしょ」

「……ギターでなく、リュートじゃありませんでしたか?」

「そんなこと知らないわ。けど、パトカーに乗せられる姿は、背中を丸めちゃってあわれそのものだったわね。だから、気の毒になって警察には穏便に済ませるようお願いしたの。恨まれて、また出てきたりしたら困るし」

 苦笑いを浮かべたまりあに、百合香は頭を下げた。言い訳には苦労したが、どうにかまりあの追及はかわすことができたようだ。会長室を出る際、棚にあったナイトビートに気がついた。その表紙ではじけたように笑うパッシーと目が合う。

-ごめんなさい! 百合香は心の中で手を合わせていた。


「なるほどね。パッシー、いいところあるじゃない」

 会長室から戻った百合香が早口で事情を説明すると、古賀は最初に驚き、次いで感心したようにうなずいていた。

「まりあ会長の自宅前で歌うとか、パッシーも無鉄砲というか、思い込んだら一直線なタイプなのね」

「でも、岬まつりや区長さんの広告だけでなくって、もしかしたらペットブルだってパッシーさんの売り込みかもしれないだろ。感謝してもしきれないぜ」

 小田原が少し頬を紅潮させていた。

「わたし……とんでもない誤解をしちゃったみたいで……」

「多分、パッシーはナイトビートの手助けを申し出るのが照れくさかったんじゃないかしら。普段はチャラチャラ、フラフラしてるキャラが急に『オイラに任せてくんな』なんて、笑われるとでも思ったんじゃない」

「……」

「と、とにかくユリカどん、早いとこパッシーさんを見つけないとな」

「で、でも……なんて言ったらいいのか……」

「ボケナス! 素直にゴメンて、それだけだ!」

 小田原の真剣な表情に勇気づけられた。こくり、とうなづいた百合香は脱兎のごとく編集部を飛び出していったのだった。


 テレビに映っていた新宿駅の南口に着くと、百合香は甲州街道ぞいにパッシーの姿を探した。すでに夕方の帰宅ラッシュもピークを迎えていた上に、ストリートミュージシャンも少なくない。

 ひと通り探し回ったものの、パッシーの姿は見つけられなかった。

-テレビに映ってから、時間がかかっちゃったからな。と、あきらめかけたところ、聞き覚えのあるメロディが聞こえてきた。

「ラララ~ 透き通る夜空に溶けたささやきに ふりむく君はもうそこにいない~」

 だが、歌声はパッシーと似ても似つかないだみ声だ。声の方を見れば、今や貴重なバンドネオンを奏でる男がいた。

 目が合うと、初老の奏者はいっそう声を張り上げ「ラララ〜」のフレーズをリフレイン。その旋律が胸の内にピリッとしたものを走らせる。それでも、ワンフレーズを弾き終えた男に話しかけた。

「あの、今のメロディって……」

「ああ、なんとなく温かい気分になるでしょ」地声も同じくだみ声だった。「ほんとはリュートで鳴らすのが合ってそうだけど。知ってるかい? リュートって」

「あ、はい。吟遊詩人が鳴らしてましたよね」

「そうか、お嬢さんはさっきの詩人のファンだったのか。妬けるねぇ。オレもあんな色っぽい声が出せたらなあ」

「でも、渋みがあっていい感じでしたよ。ていうか、吟遊詩人がどこへ行ったか知りませんか?」

「ハハハ、風の吹くまま、気の向くままにいくのが吟遊詩人じゃないのかね」

「ですよね」男のしわ深い笑みを見ると、百合香の張りつめていた心が和んだ。

「会ったら伝えてくれ、いつかセッションしようとな」

「はい!」

 思いがけず、元気な声に自分でも驚く。

 それがきっかけとなり、百合香はふたたび歩き始めた。心当たりがあるわけでもなかったが、踏み出した足に迷いやためらいはかけらも混じっていなかった。


 しかし、百合香は一週間ほど探し回ってもパッシーと行き逢うことはできずにいた。百合香だけでなく、小田原や古賀までもがパッシー探しを手伝ったものの結果は空振り。

-今日はどこ探そうかなぁ……。

 日曜の朝、食卓についた百合香は力なく息をついていた。それを、父親の和也が新聞から覗き見たことにも気づかない。

 クロワッサンに手をのばしかけると、和也が「ほお」とつぶやいた。

「ずいぶん富津もにぎやかになったな『謎の吟遊詩人、富津港で行き倒れ』だって」

「ちょっと。パパ!」言うが早いか、ひったくるようにして新聞を取り上げると、小さな三面記事に目を凝らした。

「どうした? まさかなんとか詩人が知り合いだったりしないよな」

「パパ……今日、クルマ貸して」

 立ち上がった娘の切羽詰まった様相に、和也はぎこちなくうなずくのが精一杯だった。

 それからの百合香は勢いと速さにあふれ、メイクもそこそこにクルマに飛び乗ると、てきぱきとナビに目的地を設定していた。富津市立総合病院まで順調にいけば二時間もかからない。エンジンのスタートボタンを押すと、百合香の気持ちに応えるようにトヨタ・プリウスが目覚めてくれた。

「今度こそ……今度こそは」

 思わず心の内が口からもれる。その口を、きっと結ぶと百合香はアクセルを静かに踏み込んだ。

 意を決して苦手な首都高へ乗り込むと、サンデードライバーのおかげか肝を冷やすような流れではなかった。一度リズムに乗ってしまえば、サンデーどころか年に数えるほどしか運転しない百合香でもついていけなくもない。

 ただ、アクアラインの海ほたるを過ぎたあたりの突風にはひやりとした。ハンドルがとられるばかりか、車体ごとガードレールに当たってしまいそうで、百合香の全身がこわばる。

「なんの、これしき」

 無意識のうちに口にしていたのは、思い出せば祖母の口ぐせだった。大きな荷物を抱え、港から帰った祖母が上がりかまちをこえるとき、百合香が手伝おうとすると冗談めかして返された。幼い百合香はどういうわけか気に入って、意味も分からず口にしては大人を笑わせていたのだ。

 そんな記憶はとうに薄れていたが、言葉の意味が分かるようになってからは-久しぶりに出たわ。と、ひとり笑い声を立てていた。

 やがて到着した病院は市立というわりにさほど大きくなかった。海沿いの陽を浴びているせいか、建物は変哲のないクリーム色なのに、どこか南国風を思わせる。

 日曜の受付にはひとりしか立っておらず、おまけに混雑していた。百合香は踵を返してエレベーターに向かい、最上階を目指した。五階建てなら、各階を探しながら降りてきても苦ではない。

 だが、入院病棟すべての病室を覗いたものの、パッシーは見つからない。

-また、すれ違うのか……。

 あきらめ半分でナースステーションに「行き倒れの吟遊詩人」についてたずねると、予想通り怪訝な顔を向けられた。

「えーと、その方なら今朝がた退院されましたね」

 モニターを覗きながら、なかば呆れたような声。それでも、昨日の今日で出ていったというなら、体調の心配はなさそうだ。

「そ、そしたら、どこへ行ったとかわかりませんか」

「こちらでは、ちょっとわかりませんね……」

 いくらか憐れみの混じった看護師に、百合香は力なく頭を下げた。

 それでも、病院を出て富津の空気を鼻から吸い込むと-なんのこれしき! そう思えてきた。いや、東京までクルマで帰ることを思ってのカラ元気だったか。

 すると、入口脇のベンチから鈴の鳴るような声がした。

「ねえ、三嶋さんちのお嬢ちゃんじゃない?」

 ハッとして声の主を見ると、小柄な老婆が微笑んでいる。見覚えはあるものの、すぐには思い出せない。あいまいな笑みで会釈をする。

「忘れちゃったの? ほら岬まつりで話したでしょ」

「ああ、前世で恋人だったおばあちゃん!」

「アハハ、またそんなこと言って」日にやけた顔がくしゃくしゃになる。

 岬まつりの晩、パッシーが話し込んでいた老婆で、百合香自身も話したはずだが、酔っていたせいかすっかり忘れていた。

「もしかして、ねりおさんのお見舞いかい?」

「ね、ねりおさん?」-ねりお? そうだ、パッシーはコルネリオと名乗っていた。


「もう出てっちまったよ」キョトンとした百合香に構わず、老婆は続けた。「なんだか、飲まず食わずでいたらしくって、病院でおまんまたらふく食ったら、すぐ元気になっちまったって、上じゃみんな笑ってたさ」

「で、出てったって、もう体調はよくなったってことですか」

「ああ、リュートしょって浜に出たってよ」

「どこの、どこの浜なんでしょう?」

 案内してやるという老婆をクルマに乗せると、百合香は安堵と期待で胸が高鳴った。そんな横顔を見られたのか、隣の老婆が「ほんと、生き写しだねえ、ホノカさんにそっくりじゃ」とつぶやいた。

「ねりおさんにもホノカさんて呼ばれたんですけど、そんなに似てますかね」

「だって、アンタのばあちゃんでしょ。血は争えないとは、このことでしょ」

「わたしのばあちゃんはサトですよ、サト」

「ああ、そうそう。船おりてからはサトだったねぇ」

 百合香の急ブレーキで、隣りの老婆が前のめりになっていた。

「名前、変えたんですか?」

「そうよ。船で遭難しかかったり、不漁が続いたもんだから、旦那さまが『縁起が悪い』ってホノカからサトに変えられたの。アタシはその頃に網元で手伝いしてたって、まつりの夜に話さなかった?」

「だ、旦那さまって、もしかして……」

「ねりおさんじゃないよ。なにしろ、消えちまったからね、あのひとは」

 止まったままのクルマの中で、百合香の視界が揺らいでいた。

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