第2話

小田原から業界裏話を聞いたり、店のオーナーやDJを紹介されているうちに、パッシーがDJをする順番になっていた。百合香と小田原はブースがよく見えるソファ、いわゆるVIPシートから見物。業界誌の記者というのは、ギャルと同じでちょっとしたVIP扱いを受けるものだと、百合香は感心していた。

「パッシーさんは、最初の曲で世界つくっちゃうんだよね」

 小田原が言うとおり、なんとパッシーはパイプオルガンの響きからプレイしはじめた。バッハのフーガを使いながら、少しずつテンポを早め、対位法のセオリーどおり同じリズムをリピート。そこに、クラブ独特の重低音が加わると、百合香はフワっとした高揚感さえおぼえていた。

「ワオ、クラシックからのグルーブって、さすがパッシーさん!」

 目を見開いた小田原は、早くも身体がビートを刻んでいた。パイプオルガンがシンセの音に切り替わる頃にはフロアから歓声が上がり、百合香にも熱気が伝わってくる。

-でも、わたしはそう簡単にはのらないわよ。と、意地悪な姑みたいな構え。

「こういうの、海外のDJなんかがやりがちじゃないんですか」

 意地悪ついでに言ってみたものの、もはや小田原の耳には届いていなかった。いつの間にか、小田原もフロアで他のお客と一緒になって踊っていたからだ。

 ふと気づけば、DJブースのパッシーがこちらに視線を向けていた。さらさらした前髪の間から、ウインクが投げかけられた。DJブースの照明も手伝って、さすがにカッコよく見える。が、百合香は仏頂面でしたかしないかの会釈だけ。あくまで、その手にはのらないわよという体だった。

 ともあれ、パッシーの選曲にはギターやピアノの音が多めに入っていて、電子音や野太いラップを想像していた百合香にとって、悔しいけれど新鮮に聞こえたのも確かだった。そして、何曲かミックスが続き、静かな間奏を迎えると待ち構えたようにフロアから大歓声があがった。

「今夜もファウストに集まってくれたお友達、楽しんでくれたかな」

 マイクを握ったパッシーが例の透き通った声、またもや妙な抑揚で話し始めた。舞台俳優とか、歌舞伎のように声を張る姿はDJというより、エンターテイナーに近い。

「ファウストといえば、悪魔との取引だよね! 今夜はパッシーと魂の取引、きめちゃって」

 ゲーテのファウスト、百合香は大学の授業をかろうじて思い出したものの、-この中にわかってる人が何人いるんだろ。百合香は突っ込みたくなったが、フロアは「イエー!」の大合唱。

「ラララ~時よとまれ 汝は美しい ラララ~夜よいつまでも 君に届けこの声よ」

 パッシーが妙なリズムで歌い始めると、さっきのハミングに似た旋律だった。ここに乗る語りかけは声の良さも手伝って、耳に心地いい。パッシーがリズムをとるボディアクションも奇妙で、どこかギターの弾き語りを思い出させた。声、リズム、動きのシンクロはひとりでミュージカルを演じているようだ。

 気づけばフロアのお客もパッシーに合わせて体をゆすり、熱気が店中にあふれ、今にも新しい国が生まれそうな勢い。楽し気なのは伝わってくるものの、不思議な雰囲気に百合香は目を丸くするばかり。「なんなの、これ! ウケる」思わず笑いが漏れたが、フロアを見回しても笑っているのは百合香ひとりきりだった。

 ようやくパッシーのプレイが終わって、インタビューの依頼をしに近づいたものの、彼のまわりは女性ファンであふれていてどうにもたどり着けない。「アタシにも歌って」などと甘い声をかけられ、「ラララー」とニヤけているのを見ると-まいったな。と、テンションも上がらない。それでも、タイミングを見計らって、百合香は突撃した。

「あのー、パッシーさん、ちょっといいですか」

 周囲の女性ファンからのナイフのような視線が刺さる。

「おお、君か。さっきボクの歌で笑ってたな」パッシーがいたずら小僧のような顔になった。「一緒にシャンパン飲むなら、許してやってもいいよ」

 VIPシートの方を指さしたので、シャンパンを飲んでいるところも見られていたのだろう。

「じゃあ、よかったらあちらの席で」百合香は精一杯の愛想笑いを浮かべ、パッシーとVIPシートに向かった。

 パッシーと少しの距離をおいてソファに座ると、そばにいた黒服の店員がすかさずシャンパングラスを用意してくれた。するとパッシー自ら、慣れた手つきでグラスに注ぎ「ラララ、君の瞳に乾杯」と口ずさむ。リアクションに困った百合香は「歌うのがお好きなんですね」とグラスを受け取る。

「天職、といえばいいのかな」シャンパンに口をつけながら、鼻高々に言う。

「あの、実は私は〈ナイトビート〉ってDJマガジンの編集部員でして。パッシーさんのこと、雑誌でインタビューさせてもらえないかなと思いまして」

「ナイトビート? 聞いたことあるような気がするな。なんて会社が作っているの?」

「あ、はい、音の子書房って……」最後まで言い切る前に、パッシーが元気よく遮った。

「音の子か! 絹神くんの会社だよね。よく知ってるよ。でも、DJマガジンまで作っているとは知らなかった。交響曲や室内楽なんて退屈な音楽の本ばかりだと思っていたよ」

「えーと、絹神というのは弊社の会長、ですかね」

 パッシーの口から会長の名前が出たのには驚いた。あの気難しそうな老人と、まさかDJが関係しているなど想像もつかない。

「うん、彼は音楽の学校もやってるらしいじゃないか。一度くらい、学生さんの前で歌ってみたいものだけどね、ハハハ」

 パッシーは飲みすぎているのか、会話がどうにもかみ合わない。いろいろと突っ込みたいが、場の雰囲気はよさそうだ。-まずはインタビューを引き受けてもらわなきゃ。

「はい、私はその音大を卒業しました」最上級の微笑みを浮かべた百合香。「パッシーさんのインタビューが掲載できたら、きっと会長の絹神も喜ぶと思います」

「断る」パッシーが視線を外した。

「は? と言いますと?」出来ない営業マンのように、首をかしげた百合香。

「これまでも、新聞やテレビに出たことはあるんだけど、そのたびに命を狙われたり、牢屋にブチこまれたりしたんだ。せっかくだけど、お断りだ」

「あの、ちょっと意味がわからないんですけど」

「悪いな」口元をゆるめて微笑んだように見えたけど、パッシーは席を立ってどこかへ行ってしまった。

-ていうか、わたしがなにかヘマでもした? 売れっ子DJってそんなに偉いわけ? だとしても、ああいう態度って社会人としてどうなの? 

 悔しさと腹立たしさで鼻息を荒げていると「お疲れー」と小田原が現れた。今度は両手に小さなショットグラスを持っていた。百合香はなにも言わずグラスを取り上げると、一気に飲み干していた。


「ゆうべはすみませんでした」

 翌日、百合香は誰よりも早く編集部に行き、小田原が昼頃に現れるとすぐさま頭を下げた。

「なんのこと?」そら豆の顔色はさえなかった。昨夜はショットグラスのテキーラが呼び水になり、百合香と小田原はグデングデンになるまで飲み続けたのだ。

 百合香が恐縮した体でパッシーにインタビューを断られたことを思い出させると、小田原は「気にすんな」と弱々しい笑みを浮かべてくれた。

「ですけど、このままじゃちょっと悔しいんです。せっかく小田原さんが期待してくれたのに、これじゃ先が思いやられるなって」

「うーん、三嶋さんは真面目なんだね」

「ゆうべは百合香ドンて呼んでましたよ」

「ごめんごめん、オレは三嶋さんほど酒に強くないからさ」そういって、自分の後頭部をはたく。

「いえ、昨夜はたまたま体調がよかっただけですから。それより、またチャンスをもらえませんか。今度こそ、パッシーの首根っこひっ捕らえてきますので!」

「オッケー、そこまでいうなら百合香ドンはこれからパッシー担当だ。いい記事にできるよう、がんばってー」と、二本指の敬礼。

「ていうか、早速ですけどパッシーはどこのクラブにいったら会えるんですか?」

「そこが大問題でさ、パッシーはシークレットゲストって扱いが多くて、クラブのプログラムにも載ってないんだよ」

 眉をひそめた小田原の顔で「命を狙われたり、牢屋にブチこまれたり」というパッシーのセリフを思い出した。

「そういうので、なんか嫌な思いでもしたんですかね?」

「うーん、思いつかないけど、パッシーさんてちょっと変わってるところあるから、こだわり的なもんじゃないの」

「こだわりもいろいろあるんですね……あと、ウチの会長のこと知ってるとかなんとか言ってたんですけど」

「絹神会長のこと? それは初耳だな。ていうか、会長さんはボケはじめてるって噂じゃね」

「あー、わかります。ボケてるっていうか、壊れたロボット的な動きになってませんか。卒業式で見た時、笑っちゃって」

 ひとしきり小田原とふたりして笑った後、パッシー捕獲作戦が立てられた。それは絨毯爆撃のように、都内のクラブを片っ端から渡り歩いてパッシーを見つけ出すという単純ながら、ハードな作戦だった。

「オレもネットワークつかって出来るだけ探ってみるし。わかったら、すぐ携帯鳴らすから」

 小田原の人懐っこい笑顔には勇気づけられたものの、それからの十日間はかなりきつい夜になった。クラブのスタッフはみな一様に親切だったが、酔っ払いやナンパにあわない晩はなく、そのたびにパッシーの〈世の中を甘く見たような顔〉を思い出しては自分を励ましていた。昼間は昼間で編集部で新製品や新譜についての原稿を書き、レーベルの発表会やら有名DJのミニライブなどのイベントにも駆り出されていた。忙しくはあったが、初めての経験ばかりで楽しさが先行したのか、さほど疲れるようなことはなかった。

 それでも、パッシーを見つけられず徒労感とともに帰宅するのはキツかった。毎晩、終電で帰宅する百合香を両親が心配したのは言うまでもなく、朝食のテーブルに父親がのんでいるスタミナサプリが並ぶ始末。新米編集部員としての妙な緊張感でもって捕獲作戦を続けてきたのはいいが、そろそろ限界に近づいていたのかもしれない。

 その晩も数軒のクラブで空振りした百合香は、終電を逃すまいと銀座のコリドー街を急いでいた。地下鉄の看板が見えたあたりで、一台のクルマがゆっくりと百合香を追い越して、止まった。黒塗りのやけに車体の長いリムジンがハザードをつけて、百合香が近づくのと同時にドアが開いた。

「やあ、音の子ちゃん」

 パッシーが朗らかな笑顔を浮かべていた。

「三嶋です! 三嶋百合香です!」とっさに出たのはこんな間抜けなセリフだけだ。

「遅くまで頑張ってるね。どこまで行くの? よかったら、一緒に乗っていくかい」

 リムジンから身を乗り出したパッシーと、立ち尽くす百合香を家路につく人々が好奇の目でチラ見していく。パッシーはまたもやブラックのスーツで、クルマから半身を出しているだけでもホストなり、夜の商売にしか見えない。

-どこかのホストに貢いでるOLなどと思われてはたまらないわ。そう思った百合香は「お願いします」と小さな声で頭を下げていた。

「ちょっと久しぶりだね。DJマガジンの仕事はすすんでいるかい?」

 運転手に行先を告げ、仕切り窓を閉めながらパッシーがのどかな調子で言った。インタビューを断っておいて進んでいるかもないだろうが、パッシーの声を聞くと「まあまあ、どうにか」などと気弱なセリフになってしまう。

-まずい、このままじゃ終電まで頑張ったのがふいになる。そう思うと、腹の底に力が満ちてきた。

「えーと、今夜はどちらかでDJやってらしたんですか?」

「今日はDJでなく、謡ってきた」

「へえ! パッシーさんはライブ活動もなさってるんですね」

「そうじゃない。ある人の前で詩を謡ってきたんだ。そしたら、帰り道でばったりユリカちゃんに出会ったというわけ。よかったら、どうだい」どこからかシャンパングラスを取り出し、またもや慣れた手つきでシャンパンが注がれた。

「どうぞ、お構いなく」煙にまかれた気もしたが、グラスを受け取る。「ところでパッシーさん、しつこくお願いして恐縮ですけど……」

「ああ、わかってるよ。インタビューのことだろ。あれからボクも考えなおしてね、引き受けてもいいかなと思っていたところなんだ」

「え? 本当ですか」

「聞いたところによると、絹神くんは元気がないらしいね。彼の役に立てるなら、ボクの命だって捧げようって考え直したのさ」

「その絹神くんとおっしゃってるのは、会長の息子さんのことですか?」

「息子じゃないよ。第一、絹神くんにはお嬢さんしかいないはずだぜ。ボクが言ってるのは、君が言う会長だ。ひとの話はよく聞いてないとね」ここでぎこちないウインク。

「なるほど、会長なんですね……。それで、命が惜しくないとのことですけど、いったいどんなご経験からそうおっしゃってるのか、教えていただけると助かるのですが」

「経験、か」目は笑っていたが、シャンパングラスを持つ手が止まった。「それこそ千一夜あっても謡いつくせないよ」

 ここでも歌うのかと、眉間にしわが寄ったのに気づかれたのか、パッシーがこちらに向きなおった。

「君は吟遊詩人って知ってるかい? トルバドゥールとかバルドなんて呼ばれたこともある。絹神くんの学校では教えていないかな」

「えーと、古代ギリシャとか中世の詩人じゃありませんでしたっけ。ギター片手にピョンピョン歩き回ってる、みたいな」

「ギターでなく、リュートだ。それに飛んだり跳ねたりもしない。宮廷に仕えたり権力者に雇われていた当時の芸術家、あるいは知識人と言ってもいい」

「でも、詩人というくらいですから、詩をつくったり、その朗読をしたりですよね。王様のもとで暮らすお気楽なアーティストって感じ?」

「分かってないな、ユリカちゃん。お気楽どころか、王様が気に入らない詩を謡ったり、詩が下手くそだったら首をはねられるんだぜ」

「それは中世とか大昔のことだから、あるあるですよね」

「その上、艶やかな愛の詩だけでなく、たまには民衆の声を王様にやんわりと伝える役目もあったんだ。ここでも言葉遣いひとつ間違えば、即座にコレ」手で首を切るジェスチャー。

「そういわれると、仕事としてのうまみはイマイチな気がしてきました」

「そうでもない。謡う自分に聴衆が聞き惚れるのはこの上ない快感でね。現にファウストってクラブで君もうっとりしてたじゃないか」

「あーなるほど!」百合香がポンと膝を叩く。「ようやくわかりました。DJパッシーは吟遊詩人がコンセプトだったんですね」

「いや、コンセプトではない。DJパッシーこと、コルネリオ・イル・パッシオーネは吟遊詩人の生まれ変わりなのだ」

「すばらしい! そこまでなりきってるなんて、わたし感動しました!」

「おいおい、ちゃんと聞いてたかい。ボクは生まれ変わり! 転生してDJになった吟遊詩人だって」

「ご心配なく。そのあたり、しっかりインタビューさせてもらいますので」

「……限られた人にしか打ち明けていないんだ、くれぐれも……」

「お任せください! 斬新なアイデアですもの、パクられちゃ困りますもんね!」

 勝利の美酒とはなんと美味しいものかと、百合香は心置きなくシャンパンを飲み干していた。

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