謳うDJ吟遊詩人

石橋怜光

第1話

「三嶋さん、三嶋百合香さんの配属先は月刊ナイトビートに決まりました」

 編集局長が辞令を読み上げると、百合香は膝から力が抜けた。

「おや、顔色が変わりましたけど、大丈夫ですか」

「は、はい。エイトビート編集部で頑張りますので、よろしくお願いします」

「エイトでなく、ナイトね。ナイトビート、よろしく頼みますよ」

 局長室を出るまで、百合香は奥歯をかみしめていた。油断していたら「これまでの研修なんだったのよ」と口からもれていただろう。

 百合香が絹神音大を卒業後、大学の理事長が会長を勤める〈音の子書房〉に入社したのは、大好きなクラシック専門誌〈私のシンフォニー〉編集部に入りたかったからだ。半年続いた倉庫での資料整理という研修は、局長によれば「クラシックは楽譜が多いから、資料整理こそ仕事の第一歩」だった。気の早い百合香は「なんだ、もうわたしの配属ってシンフォニーに決まっているのね」とウキウキしながらかび臭い楽譜と奮闘。未来の自分を思い描いて、鼻歌まじりで倉庫を駆けまわっていた。

-なのに! どうしてわたしはエイトビートなの? 入社した会社の雑誌だから、目にしたことはあった。が、チャラいDJが妙なポーズをきめた表紙からして読む気にならない。クラブカルチャーだかDJサウンドだか知らないが、せっかくクラシック漬けの毎日で、イケてるキャリアウーマンになれると思っていた矢先だけに、百合香はがっくりと肩を落としたのだった。

「あー、エイトビートとかありえなーい」廊下に出ると、思わず心の声が口からもれた。

「は? エイトビートでなく、ナイトビートっスよ」

 背後から声がかけられ、百合香は飛び上がった。

「あ、ごめんなさい。エイトビートで踊るのも好きなもので、つい……」

「つい、じゃねーし。ていうか、音大卒っていうからもっと野暮ったい人かと思ったけど、だいぶくだけたキャラっスね」

 そら豆みたいにツルンとした顔には軽く笑いが浮かんでいた。むしろ、素の顔に締まりがないだけかもしれない。小柄な体形は重心が低そうで、スポーツをしているとしたら、断然ラグビーとか相撲だろうと百合香は察した。

「新人さんでしょ。オレ、ナイトビート編集部の小田原っス」

 指を二本つかって敬礼、おまけにウィンクみたいに片目をつぶって挨拶。

「み、三嶋百合香と申します。足手まといにならないよう、頑張りますのでよろしくお願いします」

「そうスクエアに挨拶されてもなぁ」小田原が鼻の頭をかいた。「編集長の西川さんも一応来てるから、とりあえず編集部いこっか」

 編集部、といっても仕切りやファイルキャビネットで囲まれた小さなスペースで、とてもキャリアウーマンが仕事をしていそうな雰囲気には見えなかった。古い灰色の事務机がいくつか並び、デスクトップモニターがそれぞれ載っている。最初、モニターに隠れて見えなかったが、男がひとり机に突っ伏しているのがわかった。

「西川さん……西川さーん」小田原が肩をつつきながら声をかけても微動だにしない。

「編集長だからいつも寝不足でさ、夕方過ぎないと仕事にならないんだよね」

「激務なんですね、編集長って。ところで、他の編集さんはまだですか?」

「あと進行の古賀っちがいるけど、締め切り間際まで来ないから……来週なかばくらいには紹介できるかもね」

「てことは、ナイトビート編集部ってわたしを含めて四人てことですか」

「そだね。シンフォニーとかカラオケマガジンと違って、予算ないからねー」

 またしても百合香の膝から力が抜けていく。

-なんだかなぁ。東京のクラブシーンを紹介しようって雑誌の編集部なのに、居眠り編集長とちっこいそら豆、それといるのかいないのか分からない古賀っちって、しょっぱいなぁ。

「ま、しょんぼりしなさんなって。ビートはビートで、やってれば楽しいこともあんだから。たとえば、今夜はファウストって新しいクラブのレセプションなんだけど、行ったらオレら雑誌系って超VIP扱いだぜ。三嶋っちだって、本当はクラブ好きなんでしょ」

「あ、百合香って呼んでください。ていうか、クラブはあんまり得意分野ってわけじゃないんですけどね」

 百合香は苦笑いを浮かべていた。

 どうにか音大に入ってはみたものの、周囲はコンクール入賞レベルばかりで高校のマンドリンクラブごときでは存在すら認めてもらえない。しかも、ギャルあがりのファッション、コーデ、メイクは小田原の言う「野暮ったい」学生の間では悪目立ちすることしきり。

 あえて校内での友達作りはあきらめ、寂しくなったらマンドリンクラブのメンバーや、以前のギャル仲間とワイワイやればよかった。クラブ遊びもしなかったわけではないが、さほどのめりこみはしなかった。第一に酔っ払いが大嫌いだったし、第二にナンパが神経を逆なでして仕方なかった。そして、クラブで羽目を外したギャル仲間の悪ふざけや、ほんのりと漂う同調圧力も今考えればストレスだったかもしれない。

-誰でもそうだろうけど、わたしは体内にネガな感情が発生するだけで落ち込む。真正面から受け取りすぎと言われるが、それがわたしなのだから仕方がない。

 クラブ、と聞いただけで眉根にしわが寄ってしまうのはこんな理由だ。

「どうでもいいけど、今ここにある現実をわかってほしいので、この新製品紹介、今日中に原稿書いちゃってー」

 どすんと資料の束が置かれた音で、百合香は目の前のリアルにひき戻された。


 日が暮れても編集長は目覚めず、新製品の原稿は半分も進んでいなかった。定時を過ぎるころになって、小田原が「そろそろオレは上がるけど、そっちはどんな感じ?」と人懐っこい顔を百合香に向けた。

「まだ半分も終わってないんですけど」申し訳ない思いで、首がすくむ。

「大丈夫さ」かすかに微笑んだ小田原はこのうえもない善人に見えた。が「レセプションは夜中だから、それまでには終わるだろ」と、こちらも見ずに帰っていき、百合香は小さくため息を吐いていた。

 DJミキサーとやらの紹介を書こうとカタログを読んでいても、さっぱり頭に入ってこない。だいたい、配属初日にいきなり原稿を任せるというのが-「どうなの?」って感じ。

 クロスフェーダーのリバース機能やら、多彩なエフェクトなど専門用語のパレードにめまいを覚えながらも、とにかく文字数を埋めるだけ埋めた。

 チェックを頼もうと、編集長を起こすことも頭をよぎったが、気持ちよさげないびきを邪魔するのは気が引けた。

「じゃ、お先に失礼します」と口だけ動かし、編集部からそそくさと退散。帰宅しようと駅に向かったところでスマホが震えた。小田原から店のロゴと簡単な地図だけが転送されてきた。すっかりレセプションのことを忘れていた百合香は、夜空を見上げ、声にならないうめき声をあげていた。

 それでも、駅のトイレでメイクを直して、お気に入りのリップを取り出したころにはいくらか気分もアガっていた。なにしろ、研修の間はほとんど出かけることもなく、楽しみといえばひとりでマンドリンを弾くことくらいだったから。仕事とはいえ、キラキラした店に出かけるのは気分転換にもなるだろう。

 表参道の駅を降りて、ファウストとかいう店の方向に歩き始めたものの、地図がシンプルすぎて近づいているのか、方角があっているのかすらわからない。小田原にメールを出そうかと思った頃には、街灯もまばらになったさびしいエリアに佇んでいた。

 街灯の下でスマホに打ち込んでいると、背後からゆっくりと足音が迫ってきた。時間も時間だと、百合香は警戒心マックスで振り返った。

「ねえ、君、このあたりでファウストってクラブ、知らないか」

 透き通って、滑らかに響く声。芝居のセリフかのような抑揚なのに、わざとらしく聞こえない。暗くても艶がわかる黒いスーツ、不似合いなのは太めのゴールドチェーン。今どきは地下ラッパーでさえ首から下げているものは少ない。

「えっと、私も……」

「き、君は……」切れ長の目にかすかな驚きが見えた。うっすらと眉間にしわがよったものの、百合香と10歳とは違わないはずだ。

「……な、なんでしょう?」

 彫りの深い顔に浮かんだ戸惑いのような表情はすぐに消え、柔らかな微笑みに変わった。百合香はいくらか安心感を抱いたが、-こういうのがナンパ師の顔なのよね、と肩に力も入る。

「いや、……いいんだ。よかったら、一緒に探そうよ」

「は、はい」

 肩を並べて歩きはじめると、小さなハミングが聞こえてきた。奇妙なメロディで、百合香は-バロック調? かと耳を澄ませた。

「聞き覚え、あるかい?」

「い、いえ。でも、なんだか和むメロディですよね」

「そうか……。これは嵐にあった小舟の中で謡ったんだけどな」

「嵐の中? 小舟、ですか?」

 ふたりの視線が交じると百合香は思わず引き込まれそうになる。が、目線をそらして男から距離をとった。

「ところで、クラブが好きなのかい?」

「そうでもないです」

「じゃあ、音楽が好きなのかな?」

「ええ、音楽といってもクラシックとか、そっち方面ですけど」

「そうか。趣味が合いそうだな」

 大人のような身ごなしでも、顔に浮かんだのは少年のような初々しさだった。

-パーリーピーポーの中にも、変わったタイプがいるのね。と、妙に納得していた。

「おお、あったぞ。ほら、あそこに鉄のドアが見える」

 男の右手が軽く百合香の肩に触れ、指さすほうへ向かせた。初対面の相手にボディタッチはありえない、普段の百合香ならそう思った。だが、柔らかなタッチはそんなことを感じさせる暇もなく離れていった。

 ドアは閉まっていて、前に立っても自動で開くような気配もない。どこかにインターフォンでもあるかと見回していると、黒スーツの男が大きな声をあげた。

「パッシーだよ! DJにブッキングされたパッシーなんだけど」

 すると、奇妙な動きのドアが開き、ガタイの大きな男が現れた。

「すんません、パッシーさん。まだ使い方に慣れてなくて」と頭をかき「あの、そちらはパッシーさんのお連れさまで?」うっすらと怪訝な目つき。

「そうそう、ほのかちゃんてボクの大事なお客さんだ。ねー、ほのかちゃん!」

 いつの間にか〈ほのか〉呼ばわりされて、肩を抱かれたまま薄暗い店内に入っていった。さっきと違って、肩に回した腕にデリカシーはかけらもない。DJと一緒に入ればとやかく言われることはないとの気遣いだと、後から知った百合香だったが、そんなことに気づく余裕はなかった。

 店内に入ったところで、百合香は強めに肩の手をはらった。いくらなんでも馴れ馴れしい。

「ここまでありがとうございました。けど、わたしは取材に来たんで、お客じゃないんです。じゃ、DJがんばってください」

 きっぱり告げると、パッシーと名乗った男を置き去りにして、奥の人混みへと駆けこんでいった。

-これだから、DJなんてやつらは油断もすきもない。クラブの中ではタレント気どり、女子と見ればすぐに声をかけて『僕のプレイどうだった』と、クネクネしながら白い歯を見せてくる。

「ノーサンキュー! わたしはそういうタイプじゃございません」音楽や人いきれに混じると思って、声に出していた。ネガを身体にためるのは美容のためならずだ。

「そうそう、心の声が口に出ちゃうタイプだもんね」

 百合香が真っ赤になって振り返ると、グラスを両手に持った小田原がいた。

「ご、ごめんなさい、変な独り言いっちゃって」

「ま、とにかく乾杯しようや」グラスを渡してくれた小田原は、昼間より人懐っこい笑顔だ。「ていうか、パッシーさんと知り合いだったの? ビックリしたよ」

「え? あのDJって小田原さんも知ってる人なんですか」

「ありゃ、百合香ドン知らなかったの? 売れっ子なんだぜ、パッシーさんて。人呼んで〈歌うDJパッシオーネ〉って、プレイが盛り上がってくるとラップや歌とか、マイクを使ってパフォーマンスするのがクラウド(聴衆)に大人気でさ」

「へー、たしかによく通る声でしたけど、わたしにはチャラいやつにしか見えませんでしたけどね」

「ていうかさ、またパッシーさんとこに行って、インタビュー頼んでもらえないかな。あの人ってプロダクションに所属してるわけでもなさそうだし、連絡先も教えてくれないんだ。表紙モデルやってもらえたら最高なんだけど、百合香ドンのセクシービームでうまいこと頼んでみちゃくれませんかね」

「セクシービームなんて出ませんよ」

 女性ということを使って世間を渡り歩いていくのはいろいろと見てきたし、自分でも知らないうちにやっていたかもしれない。社会に出たらそういうのは控えるものだと思っていたが、小田原はそれを使えと言っている。配属初日にして、百合香はやるせなくなってきた。

「でもね、百合香ドンのDJに対する誤解を解くチャンスでもあると思うんだよね。チャラチャラしてるばっかのDJもいるけど、実は大半のDJは真面目にサウンドやテクの追究をしてんだ。これも仕事だと思って、チャレンジしちゃってよ」

「はあ、そういうものですかね」

 百合香はいつの間にかグラスのビールを飲み干していた。

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