美術館

たなべ

美術館

 これは或る手記の抜粋である。



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 11月23日(金)

 今日は珍しく、都市公園の方へ行った。祝日で休みなのが起因してか、家族連れが多かった。晴れて清らかな午後だった。公園を歩き回っていると、大きな建物を見つけた。直線で、白くて、清潔な建物だった。周囲の林の創る緑と、この角張った白は案外、調和していた。体育館かと思った。近づいてみると、美術館ということが分かった。この公園には何回か来ているが、美術館なぞ記憶になかった。この美術館は、いつの間にか出来て、いつの間にか仲間に入っていたらしい。旧い者ははじかれる。私は、寂しかった。もっと近付くと、現代美術館ということが分かった。現代美術は苦手だったが、何故苦手なのかが分からなかった。食わず嫌いの所為かも知れない。そこで私は、これ以上乾涸びた毎日を送りたくなかったのが強くあって、美術館内に足を踏み入れた。中は大きく吹き抜けていて、常設展の方は、採光が美しく、足が吸い寄せられそうになった。ただもっと興味深かったのは企画展だった。「SNS」と題されたそれは、薄暗い最中にあった。SNSといえば私も含め若者の専売特許、光り輝くプラットフォームという感じだが、ここの展示はそれを入り口から否定している。入る前から私には湧き立つ何かがあった。

 常設展は無料らしかったが、企画展は大人一名1500円であった。紙幣が無かったので小銭たっぷりで支払った。受付は機械だった。小銭が吸い込まれて行く音が周囲の喧騒に飲まれていった。

 展示室に入ると、喧騒は直ぐに和らいだ。きっと飲み込まれたのだと思った。ここはまだ口内だろうか。光は急激に絞られ、私はこの空間に支配された。数少ない点光の辿っている筋を這うしかなくなった。心地よい洗脳だと思った。

 一つ目の展示。美術画だ。題は「目鼻【口】」。画全体は茫漠としている。救いのないようである。画のどこにも目はなく、鼻もなく、そして口もない。なのに題は「目鼻【口】」。ただの風景画。でもそこには何もなくて。灰色で。何も感じ取れなくて。しかし、この画は確かに訴えている。何か窮状を、醜態を。その全てが解説に書いてあった。

 曰く、

 「ポストモダン思想後のポストポストモダン思想。リミナルな世界。その中で生きる人々。空洞の線的フォーム。あくまでゲシュタルト心理学上の図として提示されるが、全てうろで、実は地なのである。」

 この企画展のテーマが「SNS」ということを思い出すと、これは比較的当たり前の分かり切ったことを主張していると考えられる。なるほど、解説込みだと奥行きが広がるな。値踏みする積りなど毛頭ないが、するとしたら、結構な値になりそうだ。現代社会へのほどよい風刺、痛烈な批判。聞き飽きているようなそれだが、改めて真正面から突き付けられると、かなりの刺激になる。現代美術とは面白いものだ。灰色の一画面、そこに幽かな曲線と僅かながらの点によって、これほどまでに多くの情報を伝えられる。勿論、解説が無いと分からないのだが。さあ次へ行こう。

 二つ目の展示は…

 

 (中略)


 展示も終盤に差し掛かり、だんだんと明かりが増してきた。この展示は希望的に終わるのだろうか。通路を通っていくと、大きな灯りとともに巨大なオブジェが暗がりに立っているのが見える。それは人のようで人でない、人でないようで人のような、奇形である。手らしきものは分厚い辞書のようなものを持ち、頭のようなものを傾げ、見つめているような風采である。辞書をスマホに見立てれば、自分の写真を撮っているようにも見える。足は四本ある。写真には写らないだろう。そんなことを思いながら、近付くとプレートがあって、そこに題「現代テレグラム概論」とあった。

 そんなことを気にするのか、と邪推されては困るが、オブジェに生殖器が見当たらなかった。奇形だからだろうか。本当にそうだろうか。

 解説を見るが、意味不明であったので、もう殆ど忘れてしまったが、自分のことを言われている気がして恥ずかしくなった。

 最後の展示まで来たらしい。出口のような通路からは光が漏れている。しかし展示室内は相変わらず暗い。最後のはまた美術画だった。題「非クワイン的インスタント」。題は訳が分からなかったが、画は分かりやすかった。幾何学的な文様が画全体を覆い尽し、その上に人間の都市が描かれている。そしてその都市は言うまでも無く東京、それも渋谷である。朝方なのだろうか、あまり人影は見られない。ただ、全体が青で塗られ、爽やかである。

 解説曰く、

 「晴れの渋谷はインスタントな事物として提供される、非クワイン的事項で満たされた場である。しかしこの作品は真の意味での非クワインさえ否定する、いや方向転換をする。実体と虚構。この二項はここで対立しているか。」

 やはりそうか、と思いつつ、それを画に落とし込むのには中々の苦心を要したのではなかろうか。見たものを写実的に描くことは、誰でも出来る。出来不出来は本質的に重要ではない。ただ誰がこの画を描けたか、が重要である。有名な話、アインシュタインが生れなくてもいずれ相対性理論は生れ得ただろうが、ラマヌジャンの生み出した公式の多くは、彼が生れなかったら生れなかっただろうということである。これも同じでこの作者がいなかったら、この作品は生れなかっただろう。これが単なる風景画やデッサンと現代美術の差である。思想の籠った作品には自ずと命が宿る。活き活きしているのが分かる。今日はそれが分かってよかった。帰ろう。そうして美術館の玄関ホールに踏み入れると、光で目が眩んだ。


 帰りに渋谷にでも寄ろうかと思ったが、遠いのでやめた。帰路の電車で、今日が祝日は祝日でも、勤労感謝の日と思い出し、これはこれはと思って、あの美術館のあの企画展に行ったことが、運命めいたものに思えてきて、くすりと音も無く笑った。SNSは以来絶対よそうと思った。

-終- 記録 20XX年11月23日23時43分



******


 

 この人間は重要なことに気付いたようである。しかし、この気付きは果たして本当のものだろうか。この人間の教養など私には知る由もないが、この状況は或る風刺画に似ている。画には三人の人間がいる。一人は花畑の中に立っている(ように見えてこの花畑は壁画である)。一人は本をいくらか積み上げた上に立っている。壁の向こう側が見える(しかし、これも二枚目の壁面である)。そこはさながら地獄の様相を呈している。もう一人はまた本を積み上げた上に立っている。ただ、二人目とはかなり量に差がある。見ているのは真に壁の向こう側。そこは美しい、光の満ちた場所。本当の美麗を思わせる天国の風景。勿論、これは壁画ではない。「本」を積み上げていった先に本当の世界が広がっていたのだ。

 さてこの人間、現代美術館での経験を経て、或る決断をしたようである。何か「地獄」を見た気色がしたのであろう。「地獄」?いやはやこの人間、「地獄」を見て決断をしてしまっているようだ。笑止。本当の世界とは壁の向こう側にあるというのに。



<了>

 

 

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美術館 たなべ @tauma_2004

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