言えない真実
母親によって浴槽に沈められたはずの壮一が目を覚ますと、病院であった。
何があったかわからない壮一に医師は「風呂で遊んでいて溺れたところを病院に運ばれたんだよ」と説明してきた。隣では亜紀が真っ赤な顔をして泣いていた。
「よかった、よかった。そうちゃん、気がついたのね」
壮一は自分が体験したことをそのまま伝えようとした。しかし、こんなに息子の無事を喜ぶ母親がわざわざ息子を溺れさせようとしたことを周囲が信じることはないと口をつぐんだ。
「それもこれも、天使様のお導きのおかげよ」
「そうだよ壮一君。天使様が君についているんだから頑張って生きないとダメだ」
この医師も天使の翼会の息がかかったものだと壮一は理解した。そして、病院にも逃げ場がないことを悟った。
「数日様子を見て、異常がなければ退院できますよ」
「ありがとうございます。そうちゃんもほら、お礼を言いなさい」
壮一は目の前で何が行われているのかわからなかった。それでも、壮一の口は勝手にその場に最適な言葉を紡ぎ出す。
「愚かな私をお救いくださって、ありがとうございました」
またひとつ、壮一は自由を奪われたような気がした。結局、特に身体に支障はなかったので予定通り壮一は退院した。
その日から重い鎖が全身に巻き付いているような息苦しさが常に壮一を襲った。母親の言うとおりに天使様に願えば息苦しさから解放されるのではと、熱心に天使の導きを得ようとしたこともあった。しかし、天使は壮一を救わなかった。
ただ、亜紀だけが天使に願う壮一を見てよく笑ってくれた。
***
結局、壮一は小学校を卒業するまでろくに学校へ通うことを許されなかった。家でも学業の話題は一切厳禁とされ、母である亜紀との会話は天使の翼会の教義の話のみとされた。
「お母さん、今日はどのような奉仕をされたのですか?」
「今日の奉仕は、障害を持つ子供の遊び相手よ」
亜紀は葬儀場のスタッフから正木と同じ伝道師となり、熱心に天使の翼会のために働いていた。ボランティアを募集しているところに積極的に申し込んで奉仕活動を行っては、似たような境遇の者を見つけたら親切に近寄って天使の翼会を勧めることを繰り返した。亜紀はこれを「救いを求める人に救いの手を差し伸べる素晴らしい行動」と思っていた。
結局、壮一は亜紀の風呂場での凶行を誰にも話すことができないでいた。何故母親が息子を殺す必要があるのか、どうして医師に嘘をついたのか、一切のことがわからなかった。ただ亜紀のキラキラした天使様と奉仕の話を聞き、それに頷くことだけが壮一の仕事であった。
おかあさんがよければ、きっとそれでいい。
そんな考えが壮一を縛っていった。学校に顔を出しても、勉強のことは既に一切わからなくなっていた。教師たちがあれこれ聞いてくるのも全て面倒で、壮一は沈黙を貫いた。登校日は送り迎えをする亜紀があることないことを教師に吹き込むだけであった。
その日、壮一は名前だけ進学した中学からさっさと天使の家に帰ってきていた。中学生になった頃から、亜紀は壮一を天使の家に泊まらせるようになっていた。天使の家は本来熱心な信者が夜通し天使に使えるための施設であり、壮一も朝晩の修行に参加するよう言われていた。
「壮一君、今日保健室にいたでしょう?」
放課後になって天使の家にやってきたのは、中学三年になった島村瞳だった。
「み、見られてたんですか!?」
「見たよ。制服、似合ってた」
瞳に制服姿を褒められて、壮一はもう少し制服を着ていたいと思った。勉強は全くわからないが、瞳と一緒に登校できるなら学校へは行きたいと思った。
「そういえば、何隠したの?」
「な、何でもないですよ!」
年齢が上がるにつれ、日中壮一はますます天使の家で孤独に暮らしていた。特にすることもなく、壮一は天使の家に置いてあった古い漫画の模写を行っていた。そのうち、自分でも漫画を描きたいと思いこっそり自前のキャラクターを何体か描いていた。もちろん亜紀にばれたら何を言われるかわかったものではないので、天使の家でも隠れて絵を描いていた。
「いいじゃん、見せてよ」
「でも、恥ずかしいし」
「大丈夫、内緒にしてあげる」
壮一はまだ下手な絵を見られるのも嫌だったし、絵を描いてることを誰かに知られたくなかった。しかし、瞳にせがまれて渋々壮一はいらない紙の裏に描いたキャラクターを見せた。
「やだ、すごい上手じゃない!」
瞳に拙い絵を見られて、壮一は顔から火が出る思いだった。それでも、瞳は感心した様子で壮一の絵を褒め続けた。
「私美術2だから、絵が描ける人憧れちゃう!」
「そんなんじゃないよ!」
その騒ぎを聞きつけ、中学二年になった瑛人も壮一の絵を覗き込んだ。
「絶対すごいって。デビューしたら友達に自慢してやるよ」
「だから、そんなんじゃないから……!」
壮一は二人から絵を奪うと、折りたたんで本棚の裏に隠した。
「本当にいいのか?」
「うん。だって、お母さんにバレると怒られるし……」
その言葉を聞いて、瞳と瑛人も顔を伏せる。天使の翼会では、奉仕活動以外のことは基本推奨されていなかった。漫画を描きたい、と壮一が言い始めたら亜紀だけでなく正木や他の幹部たちがやってきて何をされるかわかったものでなかった。
「もうすぐ夕方の奉仕の時間だよ、今日は何を作るのかな」
気持ちを切り替えるように、壮一は立ち上がった。中学生になって、天使の家の夕食作りを壮一たちは手伝っていた。天使の家に住み込みで奉仕活動を行う職員たちと一緒に質素な食事に手を合わせ、夜の奉仕活動としてパンフレットの作成などの軽作業を行い、それから職員たちと寝るのが壮一の日課だった。
亜紀は泊まり込みで奉仕活動をすることもあれば、壮一を置いてひとりでアパートに戻ることもあった。壮一もたまに亜紀につれられてアパートに戻っていたが、どうしてもそこで風呂に入る気にはなれなかった。
瞳と瑛人も信者の親と一緒に泊まり込むことも多く、話し相手がいる間と絵を描いている時間が壮一に残された余暇だった。それから絵を描いてはすぐに破いてゴミ箱に捨てていたので、壮一が絵を描いていることを知っているのは瞳と瑛人だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます