不登校

 壮一が不登校に仕立て上げられて、一週間が過ぎた。


「別に行きたくないわけじゃないのに、どうして行ってはいけないの?」


 その日、壮一は何故自分は学校へ行けないのか亜紀に問いただした。


「学校より天使様が大切だからに決まっているでしょう?」

「でも僕は、学校に行きたいよ。ずっと天使の家にいるのはつまらないよ」


 放課後になれば、保育所や学童を兼ねている天使の家に壮一と同じ年頃の友達がやってきた。しかし、それまで壮一はひとりで過ごせる年齢として天使の家で放置されていた。最初は数人いる保育所の子供たちと遊んでいたが、壮一の孤独を満たせるものではなかった。


「それなら、天使様の御本ごほんを読んだらいいのよ」

「もう何度も読んだから、面白くない」

「何てこと言うの!?」


 気がついたら、亜紀は壮一に手を上げていた。


「天使様のことを悪く言うなんて、もうあなたは私の子じゃないわ!」


 亜紀から強く叱責されて、壮一は小さくなった。


「でも、でも……」


 訳もわからず叩かれて怒鳴られて、壮一は混乱していた。反論をするとまた「天使様とどっちが大切?」と聞かれそうで、それ以上壮一は言葉が出なかった。


「そうちゃん、きっと一人で寂しくなってしまったのね。大丈夫よ、天使様が助けてくださいますからね」


 亜紀はそう言って、天使の翼会の教義書を開いた。


「天使様のお言葉を読みましょう。そうすれば、天使様は近くにいらっしゃいます。そうちゃんのことも、天使様はしっかり見ているのよ。だから、寂しくありません」


 このとき、壮一は初めて「天使様」に強い疑問を抱いた。物心ついた頃から当たり前に唱えてきた「天使様」という言葉だったが、その存在に一貫性はあまり感じられず、特に亜紀から「天使様」の言葉が出るときは必ず何か不都合なときばかりだった。


「はい、天使様はいつも御心みこころの側にいらっしゃいます。だから寂しくありません」


 母に続いて、壮一は教義書を読み上げる。その時、壮一は心の中に天使様が現れたような気がした。天使様は「本当は寂しいのに」と壮一に告げていたが、母にそんなことを言うと何をされるかわからなかったので、壮一は天使様の存在を黙っていた。


「そうちゃんはずっと、お母さんの大事なそうちゃんなんですからね」


 そう言って、亜紀は大人しくなった壮一に頬ずりをする。壮一は母のことは好きであったが、もう二度と学校へ戻れないということを確信した。さらに寂しい気持ちがこみ上げてきたが、壮一はその気持ちに一生懸命蓋をした。


 お母さんが大好きだから、僕はそれでいい。その時、壮一はそう信じていた。


***


 壮一が不登校になって、数ヶ月が経った。亜紀は学校に「壮一は傷ついて学校へ行けない」「学校でいじめでもあったのでは」と熱心に難癖をつけて、学校から壮一を遠ざけようとした。


 月に一度だけ保健室へ登校するよう勧められたので、亜紀はそれすら断ると嘘がバレると思ってそこだけ学校へ行くよう促した。手ぶらで保健室に放り込まれた壮一はただ来客用のソファでぼんやり座って、午前中で帰ってくるだけだった。


 どうにか壮一は、この訳のわからない状況から抜け出せないか考えていた。学校禁止令が出されてから、亜紀の様子は明らかにおかしくなっていた。しかし天使様の話をすることは外では禁止されていた。天使様の話をせずに母親のおかしなところを告発できるほど、壮一は器用ではなかった。保健の先生からいくつか質問されたことにも曖昧に答えることしかできなかった。


 ただでさえ最低限の調度品しかないアパートと、食事の世話をしてくれる人はいるけれど後は放置される天使の家の往復は壮一の心を疲弊させた。唯一の慰めは、学校が終わってからやってくる同じ天使の翼会の信者の子供たちと遊ぶことだけだった。


 放課後になると、壮一より二つ年上の島村瞳しまむらひとみと、一つ年上の若林瑛人わかばやしえいとが天使の家にやってくる。壮一は幼馴染みのこの二人に会うことだけが日中の楽しみであった。


「またズル休み? 私も一緒に休みたいな」

「休んでる間、天使様の言葉を書きなさいって言われるけど」

「それでも学校でリコーダーのテストやるよりマシじゃん?」


 壮一にとって、先輩にあたる二人は憧れであった。一緒にトランプをしたり、学校の話を聞かせてくれることが嬉しくて仕方なかった。二人だけが、天使の家と母親以外の居場所を壮一に与えていた。


「じゃあ、また明日」


 天使の家からアパートに帰るとき、壮一の心は少しだけ重くなった。その日、夕食を食べながら亜紀は妙なことを尋ねてきた。


「そうちゃん、もし翼の伝道師になれるならなってみたい?」

「はい、もちろんです」


 壮一は即答するしかなかった。他の答えを述べたりしたら、この母親がどうなるかわかったものではない。


「そう、お母さん嬉しいわ」


 亜紀はにっこり笑った。壮一は母親が笑顔であればそれでいい、とその時は思った。それから夕食後、壮一が風呂に入っているといきなり亜紀が風呂場にやってきた。


「何だよ、もう一緒に入らないって」

「そうちゃん、ごめんね」


 亜紀はいきなり壮一の頭を掴んで、浴槽に壮一を沈めた。突然のことで壮一は何が起こったのかわからず、頭を何とか水面に上げようともがいた。


「ごめんね、ごめんね、すぐに楽になるから」


 壮一は実の母親に殺されようとしている、ということに気がついた。亜紀はますます強い力で壮一の頭を押さえつける。恐怖と混乱、そして絶望の中壮一の身体はぐったりと浴槽の底に沈んだ。

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