第10話 救済の翼

育児の悩み

 亜紀が「らきらき」のスタッフを卒業したのは、壮一が少しずつ言葉を話すようになってからだった。壮一は天使の翼会のスタッフによく可愛がられ、すくすくと大きくなっていた。


「子供が大きくなったのだから、これからあなたも天使様への奉仕を行わないといけないわ」


 亜紀は天使の翼会が運営している葬儀場で働くよう命じられた。火葬場を併設した葬儀場はこじんまりとしていて、主に家族葬など小さな葬式を中心に行っていた。葬儀に関する軽作業や事務、会の進行の手伝いなどが亜紀の新しい仕事であった。


 亜紀が働いている間、壮一は天使の翼会の本部にある「天使の家」に預けられることになった。「天使の家」には壮一の他に数人の子供たちがいて、それぞれ母親たちが奉仕から帰るのを待っていた。


「そうちゃん、ただいま」


 亜紀は仕事が終わると、真っ直ぐ壮一を迎えに行った。他の子供たちと遊んでいても、壮一は亜紀の姿を見かけると一目散で駆けだした。


「おかえり、おかあさん!」


 亜紀は腕の中に飛び込んでくる壮一を見るたび、しっかり働いて天使様に導いてもらわなければという義務感に襲われた。


「お母さんはね、そうちゃんがいれば何もいらないのよ」


 亜紀は天使の翼会の手配により、本部に近い場所にあるアパートに住所を移していた。夜はそこに壮一と帰り、細々と母子二人で生活をしていた。亜紀も壮一も生活に不満はなかった。


***


 壮一が小学生になって、亜紀は壮一の宿題の面倒を見るようになった。一年生の足し算引き算までなら教えられたが、二年三年と難しくなっていく教科に亜紀の頭は追いつけなかった。元々亜紀は勉強が得意ではない。何故かけ算をしなくてはいけないのか、どうして割り算は割る順序が決まっているのか、亜紀は壮一に答えることが出来なくなっていた。


 思い悩んだ亜紀は正木に相談することにした。子育ての先輩である正木なら、きっと良いアドバイスをくれるに違いないと亜紀は期待した。


「あの、先生に相談したいことがあるんですけど」


 この頃、正木は救済師きゅうさいしよりも階級が上がった伝道師でんどうしとなっていた。伝道師は救済師をまとめて、教え導く者として存在していた。亜紀は正木に心酔していき、正木を「先生」と呼んでよく慕っていた。


「なんでしょう?」

「息子の宿題がどんどん難しくなっていって、教えるのも難しくて困っています」


 亜紀の相談に、正木は眉をひそめた。


「あら、あなた宿題が教えられないの?」


 正木の言葉に、亜紀は項垂れる。やはり頭の悪い自分は母親失格なのではないかと亜紀は暗い気持ちになった。


「教える必要なんてないのよ」


 正木の意外な言葉に、亜紀は顔を上げる。


「大体、男の子が余計な知恵をつけると母親の側から離れていくばかりでいけないわ。勉強なんてやらせる必要がないのよ、本来は」


 正木の言葉が亜紀の胸にすっと入ってきた。


「そもそも勉強させて、壮一君をあなたは一体どうさせたいの?」

「わ、私は……」


 亜紀は黙り込んでしまった。壮一を勉強させて、一体どうしたいのか。正木の言葉がただ胸に刺さっただけで、亜紀にはその先について考えられなかった。


「もし勉強してあなたより賢くなった壮一君は、あなたのことを大切にしてくれるかしら?」

「は、母親のことを大切にしない子供なんかいません!」


 正木はふうと大きくため息をついた。その表情に、亜紀は生きた心地がしない。


「親子と言っても、所詮は他人なの。あなたがいくら壮一君を愛していたとしても、壮一君があなたを愛してくれるとは限らないわ。私の知っている話では、有名大学に行った息子が親を捨てて帰ってこなかったなんていくらでもあるのよ」


 亜紀は壮一が自分を捨てて出て行くところを想像する。亜紀は自分から離婚を言い出していたが、それは夫であった達也が自分を見捨てたからだとこの頃は思っていた。見捨てられた亜紀を救い上げたのが正木で、今は正木のためになることをしたいと願っている。


「そ、それじゃあ、学校なんて……」

「学校なんて、都合のいいことを洗脳するための施設よ。本当は行かせるべきではないの」


 正木の言葉に、亜紀は目の前が開かれたような気がした。


「そうですよね! 宿題はもちろん、勉強だってやらせなくてもいいんですよね!」

「そうよ。そのほうがずっと可愛いそうちゃんのまま、お母さんと一緒にいれるはずよ」

「わかりました、先生ありがとうございます!」


 亜紀は正木からの助言を心から有り難がった。そして、家に帰ると壮一の学用品をゴミ袋に詰め始めた。


「お母さん、僕のランドセルどうするの!?」

「お母さん間違ってたの。こんなもの、本当はいらないのよね」

「やめてよ! ランドセルなくて、どうやって学校に行くの!?」

「学校なんて、行かなくていいのよ。お母さんお仕事があるから、明日から朝すぐ天使の家に行きなさい」


 亜紀の顔はにこやかであった。元からそれほど学校が好きではなかった壮一であったが、不登校を強制されるまでではなかった。


「嫌だよ、明日友達とドッジボールする約束してるんだ」

「そんなの、天使様とどっちが大切なの?」


 壮一はそこで言葉が出なくなった。何かわがままを言えば「天使様とどっちが大切なの?」と亜紀は悲しそうな顔をする。この暗に壮一を責める言い回しが、壮一は大嫌いだった。


「……わかったよ、明日は天使様の家に行く」

「いい子ね、今日はもうお休み」


 壮一が床に入ったのを確認して、亜紀は壮一の学用品を全てゴミ袋に放り込んだ。机には天使の翼会の教義書しか残らなかった。翌日、亜紀は学校には「体調が悪い」と嘘の連絡を入れて、壮一を休ませた。天使の家では日中から壮一を快く預かってくれた。


 これで全てがうまくいく。その時、亜紀はそう信じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る