児童センター

 児童センターへ行くことを進められた亜紀は、次の日早速壮一を連れて例の児童センターへ向かってみた。入り口で簡単な説明を受け、背中に「そういち」と名札を張られた壮一を抱いて亜紀はプレイルームの中へ入った。


 中にはカラフルなマットが敷き詰められ、そこかしこで赤ん坊がよちよちと這いずり回ってオモチャを舐め回していた。まだはいはいの出来ない赤ん坊はタオルの上にごろんと寝かされ、赤ん坊を真ん中に同じ月齢くらいの母親たちが楽しく喋っていた。言葉を話し始めた幼児たちはオモチャの取り合いをして、母親たちに窘められている。


 亜紀はこんな世界があったのかと驚いた。市の赤ちゃん教室などの行事には一切出向かなかったので、ママ友というのもがどういうものかよくわかっていなかった。おろおろとずり這いがしたい壮一を床に置くと、壮一は目についたオモチャを目がけてはいはいをする。


「こんにちはー」

「あ、こんにちは」


 目の前にすらりとした女性が現れた。化粧もする余裕のなかった亜紀と違って、爽やかなメイクにこざっぱりとしたリネンのシャツを着ている。


「何ヶ月ですか?」

「……六ヶ月、来週で七か月です」

「わー、随分とはいはい上手ですね!」


 会話が続かない。亜紀はどうにか言葉を紡ごうとするが、何を話して良いのか全く思い浮かばない。


「ここ、初めてですか?」

「ええ、まあ」


 それから女性は自分の子供の話をずっとしてきたが、亜紀の耳には全く残らなかった。時々壮一の話をした気もしたが、まるで会話というものがよくわからなかった。気がつくと女性は自分の子供を追いかけて違う集団の中にいた。亜紀だけがまた取り残された。


 気に入ったオモチャを見つけて、舐め回している壮一を見ているだけの亜紀を気にする者がまた現れた。


「まあまあ、立派なあんよだこと」


 その女性は赤ちゃんのママと呼ぶには年齢が高かった。彼女の話によると、子育て中の母親の悩みを聞くボランティアとして月に数度やってきているとのことだった。


「赤ちゃんは泣いておっぱい飲んでれば、元気ゲンキが一番なのよ」


 亜紀の耳に、すっと女性の言葉が染みこんできた。育児には制約が多い。こうしなければいけない、ああしなければ、何ヶ月にはこれができていないとおかしい、こうしないと母親失格。そんな言葉に躍らされて亜紀は神経をすり減らしてきたことに気がついた。


 ボランティアの女性は他の母親と違い、亜紀をとても気にしているようだった。


「あなたさえよければ、ここと違ったママ友作りができる場所があるんだけど、来る?」


 そう言って、女性はポケットから一枚のカードを取り出した。


「私はね、正木京子まさききょうこ。いつでも来てね」

「ありがとうございます」


 カードには「おやこひろば らきらき」と書かれていた。


***


 亜紀は更なる居場所を開拓するべく、正木からもらったカードを頼りに「らきらき」なる施設を訪れた。そこは一見個人の住宅に見えたが、入り口に「らきらき」の看板があったことで亜紀は思い切って住宅のベルを押した。


「はーい、どなた?」

「あの、先日こちらを紹介してくださいまして……」

「まあ! ちょっと待っててくださる?」


 すると、間もなく中から正木が現れた。


「よかったわー、心配してたのよ! ささ、上がって上がって」


 壮一を抱きかかえた亜紀は、住居のリビングに当たる部屋に通された。そこには児童センターと同じようなカラフルなマットがあり、幼児用のオモチャが転がっている。そこでは壮一より大きい子供たちが数人遊んでいて、その隣には大きめのテーブルで大人たちが談笑していた。遊んでいる子供たちの母親と思われる女性が数人と、あとは子育てが終わったと思われる年齢の女性たちだった。


「あ、あの、いいんですか?」

「いいに決まってるのよ。ママはみんなお疲れなんだから。ほら、いらっしゃい」


 正木が腕を伸ばす。亜紀は思い切って、壮一を正木に託した。


「まあまあ、赤ちゃんを抱っこできるなんて!」

「私も乳児久しぶりに抱っこしたいわー!」

「うわーかわいい!」


 まだ人見知りの始まっていない壮一は、代わる代わる大人に抱きかかえられてきょとんとしていた。


「あ、あの……」

「たまにはママも、赤ちゃんから離れた方がいいわよ」


 テーブルに座らされた亜紀の前に、温かいカモミールティーが置かれる。


「ノンカフェインだから、気にしないでどうぞ」

「たまにはリラックスしないと」

「最近眠れてる? 大変な時期よね?」


 大勢に急に労られて、亜紀の瞳からぼろぼろ涙が零れる。


「あ、あの、すみません、私、全然、ダメな母親で」


 突然の優しさに亜紀は小さくなっていた。


「何言ってるの、ダメな母親なんていないわよ」

「お母さんは赤ちゃん生んだ時点で偉い!」

「さらにお世話もするなんて完璧な母親よ!」

「たまにはゆっくりしたってバチは当たらないわよ」

「そうそう、壮一君はみんなで面倒見ておくから」

「それに使えない旦那の愚痴ならみんなで聞くわよ!」

「寝たかったら、奥の部屋を使ってもいいわよ」


 次々とかけられる言葉に、亜紀の涙腺はさらに緩くなった。ついに本格的に泣き出してしまった亜紀にさらなる優しい言葉がかけられ、亜紀はますますしゃくり上げるように声をあげて泣く。


「あ、あの、本当に、私、ダメなのに、なんで」

「だから、ダメなんかじゃないのよ。自信を持って。あなたならしっかりこの子を育てていけるわ」


 正木の言葉に、亜紀の心はぎゅっと強く抱きしめられたような気がした。


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