第9話 らきらき

寝不足

 島村マナブによるクリスマス自殺配信からずっと前のこと。


 カーテンを閉め切った室内で赤ん坊が泣いていた。野崎亜紀のざきあきは生後半年が経った我が子を抱いて室内をうろうろと歩き回っていた。


「お願い、泣き止んで、お願い、少し眠ってちょうだい」


 時刻は午前七時半。空気は冷たいが外は快晴で、通勤通学の会社員や学生で通りは賑わっている。しかし、亜紀の前にはぐずぐずと泣いている我が子しかいなかった


「ねえ、眠ってよ。あなた何時間そうしているの?」


 息子の壮一は夜中の三時に目を覚まし、大声で泣き叫んだ。亜紀は泣き叫ぶ壮一を抱いて部屋の中を歩き回った。時折泣き声は弱くなるが、寝かせようと床に置くと壮一はまた激しく泣き出した。


「まだ泣いているのか」


 亜紀の夫の達也たつやはうんざりした顔で寝室から出てきた。


「ねえお願い、変わってよ。泣き止まないの」

「なんか病気なんじゃないのか。病院に行けよ」


 この前の検診では元気な赤ちゃんですねって言われたのよ、と亜紀は言い返したかった。しかし、達也の言う通り何か病気があるのかもしれない。亜紀はぐずる壮一を背負うと達也の朝食を作りながら、壮一が眠りやすいように小さく身体を上下させ続ける。舌打ちをしながら出かけた達也を横目で見て、亜紀は壮一をおんぶしたまま部屋を歩き続けた。


 やがて泣き疲れたのか、壮一は亜紀の背中でぐったりと眠り始めた。そっと壮一をベビーベッドに降ろすと、ずっと壮一を抱きかかえていた全身がじんじんと痛むような気がした。


 壮一が寝ても、亜紀にはやることがたくさんあった。夫の食べた朝ご飯の始末、大量の洗濯物、散らかった室内の片付け。そして今日は燃えるゴミの日だ。早くしないと収集車が回収していってしまう。亜紀は数度収集車にゴミを持って行ってもらえず、自宅のベランダにゴミ袋を置くたびに惨めな気持ちを味わっていた。


 それらが終わっても、亜紀にはまだやることがあった。一度目を覚ました壮一に母乳を与え、おむつを交換する。おむつの始末をして、最近飲ませ始めた麦茶を入れておいたマグボトルを漂白する。壮一がおとなしくベビーサークルの中で遊んでいるのを確認して、それから離乳食の準備を行う。昨日はにんじんを初めて与えた。今日はにんじんと白粥、あとはりんごもすりおろしてあげようか。


 めまぐるしく亜紀は働いた。そして全てが終わったと思った午前十時、壮一がぐずりだした。亜紀は壮一に午前中の離乳食を与えることにした。機嫌のよくない壮一はスプーンに興味を示すばかりで、一向に離乳食には見向きもしない。何とかスプーンを取り返して亜紀はお椀から壮一の口元に離乳食を盛っていくが、口の周りにべたべたとすりおろしたにんじんをなすりつけているだけのようだと亜紀は感じた。


 結局作った離乳食は半分以上が無駄になってしまった。亜紀はぐずる壮一に母乳を与え、台所とべたべたになった食卓を片付ける。その間も這い出した壮一がどこで何をするかわからない。ベビーサークルの中で嬉しそうに遊ぶ壮一を見ていると、自分なんかいなくてもいいのではないかと亜紀の心が暗くなっていく。


 時刻は午前十二時を回っていた。細々と壮一と遊んだりおむつを替えているうちに亜紀は今朝から何も食べていないことに気がついた。食欲がない亜紀はとりあえず目についたカップヌードルを食べ、何かを腹に入れたというアリバイを自分に作る。


「そうちゃん、おさんぽいこうか」


 家にひとりでいると気分が滅入るため、天気の良い午後は壮一をベビーカーに乗せて散歩することにしていた。そのままスーパーで夕飯の材料を買ったり、公園でぼんやり鳩を眺めたりしているのが最近の亜紀の日常だった。


 赤ん坊の外出の準備には時間がかかる。細々したものを詰めた大きなカバンをベビーカーにしまい、亜紀は散歩に出発する。いつもの公園でぼんやりしていると、幼稚園バスの送り迎えのママたちが公園に集まりだした。いつもは井戸端会議をしているママたちだったが、ひそひそと亜紀の方を見て何事か話し合うとママ集団は一気にベビーカーに近寄ってきた。


「こんにちは、赤ちゃん可愛いですね。お名前は何ですか?」

「そういちです……」


 いきなり知らない人に声をかけられ、亜紀はドキリと身を震わせる。


「そう、そういち君って言うんですか? かっこいいお名前ですねー」

「何ヶ月ですかー?」

「うちにもこんな頃あったわ、懐かしい!」


 ママたちはベンチで呆然としている亜紀を見て、心配して声をかけたのだった。ひとことふたこと言葉を混じらせているうちに、亜紀の目から大粒の涙が溢れてきた。


「わかるわー、この時期辛いよね、寝られなくて」

「私替わってあげるよー、その旦那もシめるよ!」

「あはは。夜泣きはでもそのうち落ち着くから頑張って!」


 ママたちの温かい声援に、亜紀は涙を流しながらうんうんと頷く。


「どうしても辛かったら、児童センターに行ってみたら?」

「きっと同じくらいの月齢のママさんたちいますよ!」

「うちもお世話になったわー」


 それからママたちは亜紀に児童センターの場所を教えた。そして、やがてやってきた幼稚園バスから降りてきた自分の子供たちの方へ帰って行った。去り際に「またここ来たらいるし、遠慮なく声かけてよ! お下がりあげるし!」とママたちは笑った。


 亜紀は涙を拭いて、「いつか自分もあの母親たちのように強くならなくては」と立ち上がった。


「そうちゃんもはやく大きくなってね」


 ベビーカーの中の壮一は散歩に飽きてぐっすりと眠っていた。孤独だと思っていた育児に光が差したようだと亜紀は少しだけ救われたような気分になっていた。

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