幕間

六年前 事件のひとつの帰結

 午前八時。その日の天気は快晴であった。


 朝になると、確定死刑囚の独居房があるエリアに奇妙な緊張感が漂う。やがてその日は普段とは違う人間の気配が廊下を埋め尽くした。普段より大勢の刑務官たちがやってきたことを死刑囚たちは察して、それが自身の房の前で止まらないことを祈った。


 大勢の刑務官はひとつの房の前で止まった。


「やれやれ、随分大勢ですね。もしかして凶悪犯の僕に怯えているんですか?」


 確定死刑囚、白水飛鳥しらみずあすかは独居房から出された。


「僕はですねえ、死ぬなんて怖くないんですよ。試験をばっくれて親父に目玉に根性焼きされそうになったときのほうが怖かったよ。根性焼き、されたことありますか? 僕は背中に八つ、腕に六つずつありますけど、見ますか?」


 連行されながら、刑務官たちを挑発するように白水飛鳥は話し続けた。本来私語は禁止されていたが、刑務官は死刑執行という極度のストレスに晒されている白水飛鳥を刺激しないよう彼の戯れ言を放置した。


「僕が死んだらまずエリちゃんに会いたいですね。僕にこんないい機会を作ってくれたエリちゃんには死んでも頭があがらんですよ。エリちゃんには生まれてきてくれて感謝しかないです。あとエリちゃんを生んでくれたお父さんとお母さん。兄弟は別にどうでもいいかな」


 数人の刑務官がそっと見えないように拳を固めた。それでも白水飛鳥は語るのをやめなかった。


「だから別に死ぬのなんて怖くないんですよ。死ぬのは一瞬って言うじゃないですか。真冬にパンツ一丁で外に出されて反省しろって言われるより一瞬で済むなら、予防注射と一緒ですよ。一瞬チクっと痛い、はい終わり」


 白水飛鳥は教誨きょうかい室に連行された。これから死刑になる者の最期のひとときを過ごす教誨室で馴染みの教誨師きょうかいしに煙草や菓子を進められたが、断った。


「そんなもんこれから死ぬってのに何の足しになるって言うんだ。こっちは毎日毎日いつ死ぬかヒヤヒヤしてるんだからさー、もっといいもんくれればいいのに。どうせ死ぬんだ、せめて女囚人の一人でも差し入れたらどうなんだ?」


 白水飛鳥とこの日まで向かい合っていた教誨師は、死ぬ間際になっても彼の心境に変化がないことに落胆した。そして彼の根強い人間不信に現世での救済が追いつかなかったことを嘆いた。


「本当に、この世に未練はないのですか?」

「うん、ないよ。親父は死んだしお袋は面会に来なかったし、出来損ないの僕に用はないってさ。未練があるとするなら一発でいいから親父を殴ってみたかった。あの世に行ったらたっぷりお礼参りと行こうじゃないか。早く死刑になりたいくらいだ」

「その気持ちを、少しでも被害者の方に向けられませんか?」

「なんで僕がエリちゃんを殺したことを謝らなければいけないんだ? 悪いのはエリちゃんだよ。僕に黙っていなくなったエリちゃんが悪いって裁判で何度も言ったのに誰も聞き入れてくれなかったじゃないか」


 この場に被害者遺族がいなくてよかった、と何人かの刑務官が思った。それほど白水飛鳥に反省の色はなかった。


 いよいよ白水飛鳥は刑場に引き出された。刑務官により死刑執行命令を言い渡されてから後ろ手に拘束され、絞縄こうじょうが首に回され眼前に覆いがされそうになった、その時だった。


「やっぱりやめないか? こんなことして国家が殺人を幇助ほうじょするなんてやっぱり間違っている、こんなことだから世界各国から日本が人権後進国として後ろ指を指されるんだ」


 明らかに動揺が見られる白水飛鳥の身体を刑務官たちは押さえつけた。


「やめろ! 嫌だ、なんで僕が死ななきゃいけないんだ! 安楽死を認めさせろ、人権の蹂躙だ!」


 白水飛鳥は全力で暴れたが、特別に訓練されている刑務官たちには敵わなかった。


「嫌だ、嫌だ、死にたくない、助けて、お母さん、お母さん、死に、死にたくない!」


 刑場に白水飛鳥の泣き声が響き渡った。


「嫌だ、殺される! 殺しなんか認めねえぞ! 嫌だ、嫌だ、助けてくれ! 嫌だ、死刑は嫌だ! お母さん! 助けて!」


 刑務官は大声で泣き叫ぶ白水飛鳥の悲鳴を聞くより他になかった。


「ごめんなさい! お願いだから許して! おと、お父さん、ごめんなさい……」


 白水飛鳥は一心にこの世にいない父親に向かって詫びていた。そこに彼が殺した佐野一家の名前は登場しなかった。


「いやだ! もう、ずっといいこにするから、しけいはやめて、やめて……」


 嗚咽が小さくなり、白水飛鳥はしゃくり上げるばかりになった。タイミングをみて刑務官が手を上げるとブザーが鳴り、白水飛鳥が乗っていた床板が下側に動いた。


 バタリという音の後に白水飛鳥は自分の体重によってガクンと一階へと引き込まれ、首だけでその体重を支えることになった。うまく行けば落ちた衝撃で頸椎が折れ、そのまま意識をすぐに失える。天井から吊された絞縄がびくびくと震え、未だ心臓が動いている白水飛鳥の最後の鼓動を刑務官に伝えているようだった。


 教誨師が読経を続ける中、白水飛鳥の身体は次第に動かなくなっていった。完全に動きを止めても規定で五分以上、白水飛鳥の首には絞縄が食い込み続けた。


 その後絞縄から解放された白水飛鳥の遺体は刑務官たちに処理された後、棺に納められた。その日のうちに連絡を受けた遺族によって、あとは自分たちで埋葬するからと白水飛鳥の遺体は引き取られていった。


 教誨師と刑務官たちはひとつの重い仕事が終わったやるせなさを抱え、特に初めて死刑の執行に参加した若い刑務官は白水飛鳥の断末魔のような慟哭が耳に残って消えないと言う。


『ああいうのを聞いてしまいますと、死刑って何なんだろうって思うんです。本当に人の命を奪うのが世の中のためになるのか、考えてしまいますね』


***


 その日、源東市一家殺傷事件の実行犯である白水飛鳥の死刑が執行されたというニュースが静かに流れた。人々は一瞬あの凄惨な事件に思いを馳せたが、翌日には被害者の佐野絵里香の名前も加害者の白水飛鳥の名前もすっかり忘却の彼方へと流されていった。

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