とても優しい
講師休憩室で、自身のことについて語り始めた壮一を佐野は見守っていた。
「意味わかんないですよね、宗教施設で暮らしてたって。家は一応別にあって、学校に提出する書類みたいなのには実際住んでないアパートの住所を書いてました。アパートには母親が住んでいて、それで俺に会いに毎日やってきてた、みたいな」
そこで壮一は佐野をちらりと見た。呆けたような表情の佐野を見て、壮一はまた下を向いた。
「佐野先生の考えてること、当ててみましょうか。こいつやばいって思ってるでしょう?」
「惜しいな。やばすぎて逆に興味出てきた、だな」
内心の動揺を抑えつつ、佐野は壮一から更に話を聞き出そうとした。
「だから俺、本当に最低限しか学校に行ってないんです。小三くらいまでは読み書きは大事だからって一応通わせてくれたけど、そこから先は……」
壮一は言葉をそこで句切った。佐野がその先を待っていると、壮一は話の方向性を変えて語り始めた。
「とにかく、俺の母は学校が嫌いでした。学校なんて行くな、勉強するとおかしな人間になる、だからここにいれば守ってやるから安心だ、そんなことを毎日毎日吹き込まれてました」
「学校には基本不登校で通して、どうしても行かなきゃいけなさそうな時だけ行かせてもらいました。学校に行ってないから話題についていけなくて友達もいなくなって、結局保健室でいじけて帰ってくるだけで」
「だからあんまり言うとキモいんですけど、朝起きてお祈りして教団独自の教義みたいなのを夕方まで暗唱して、そして寝るみたいな生活してたんです。それ以外するな、外の世界の考えは害悪だって叩き込まれました。それこそ、文字通りに」
「俺は、何て言うのかな。出家、って言うのか。そういうのをして立派な伝道師? みたいなのになれって言われてました。天使の言葉を直接語る天使になれって。ごめんなさいキモくて」
「俺もそうなるしかないんだって思ってました。だけど、中三になってその時の担任から『進路はどうするんだ』って言われて、俺は他の道があるんだって初めて教えてもらいました。それで勉強したい、天使様だけにお仕えしたくないって母親と大喧嘩しました」
「それでいろいろあって、俺は父親に会いに行って今までのことを話したんです。そうしたら血相変えて俺が天使の家から逃げ出せるよう手続きしてくれて。学校も転校させてくれて、二学期から少しでもやり直そうって言ってもらえて嬉しかった」
「学校では相変わらず基本保健室だけど、少しだけ仲のいい友達が出来て本当に嬉しかった。ゆっくりでいいからって、学校の先生もみんな優しくて、塾長も鳴海先生も優しくて、俺本当に嬉しかったんです」
そこまで一気に話して、壮一は肩を大きく震わせた。机に零れた涙を見て、佐野はティッシュの箱を壮一の前に置いた。
「そうだったのか、辛かったな」
それから壮一は机に突っ伏して声を上げて泣き始めた。佐野は壮一の隣に移動し、壮一が落ち着くまで隣に座っていた。
「せっかく、ここまで頑張ってきたのに、また、戻りたくないんです……」
佐野は壮一の境遇を想像する。親から進路を勝手に決められ、勝手に生活を制限されてその中でしか生きられなかった壮一を思うと胸が痛んだ。そして、壮一がそんな境遇に落とし込んだ母親を少なからず憎んでいるだろうということも辛かった。
「俺も高校に行って、勉強して、友達作って、好きなことしてみたい。それって、望んじゃダメなんですか?」
「ダメじゃないさ。でも好きなことって、何かあるのか?」
「それは、考え中です。今はいろんなことを、してみたい」
少し落ち着いた壮一は佐野に問いかける。
「佐野先生は何か好きなことあったんですか?」
「俺? 俺はなあ……覚えてないや。好きなことなくても、何とか生きていけるぞ」
「そうなんですね」
壮一は冷めたコーヒーに口をつけて、顔をしかめた。佐野は「よ、大人」と小さく囁いた。
「佐野先生って、そういう話しやすい」
「そうか?」
「他の人は、あなたは強いとかきっと大丈夫とか頑張れとか言うのに、佐野先生はずっと聞いてくれるだけだから」
「だって聞くしかできないからさ、実際。俺がどうこう言ったところで、お前が客観的に不幸なのは変わらないしさ。そうだろう?」
佐野は目の前の壮一に言葉をかけたつもりだった。しかし、佐野には家族を失って人生の全てを取り上げられて絶望している少年が俯いているように見えていた。どうせ誰に言ってもわかるわけがない。常に心に住み着いている少年が佐野の心を揺さぶった。
「佐野先生って、やっぱり他の人と違うね」
壮一に話しかけられて、佐野は現実に引き戻された。壮一がティッシュで涙を拭いていた。
「どう違うんだ?」
「……すごく、優しいです。誰よりも」
違う、心から同情しているだけだ。そんなことを考える自分が一番惨めだと佐野はかぶりを振った。
「優しくなんかないさ。本当に俺が優しかったら、今頃もっといい生活してるだろうよ。可愛い彼女もいて、もっといい給料もらってさ」
「本当ですか?」
壮一はもう泣いていなかった。佐野は休憩室の扉を少し開け、外の様子を窺った。柴崎塾長がそっと「OK」のサインを出しているのが見えた。
「まあな。それじゃあ、塾長と変わるわ。でもその前に」
佐野は懐から例の「相談屋 佐野省吾」の名刺を取り出した。そこには佐野の連絡先と、八霞神社の住所が記してあった。
「何かあったらここに連絡しろ、悪いようにはしない」
「ええ、でもこういうところでいいんですか……?」
壮一は名刺を手に、何度も佐野の顔を見る。塾講師と個人的な繋がりを持っていいのか、壮一は悩んでいるようだった。
「誰にも内緒だからな、しまっとけ」
壮一が名刺をポケットにしまうのを見届けて、佐野は休憩室の扉を開けた。扉の前では柴崎塾長が待ち構えていた。
「ありがとう、助かった。いやー、あのお母さんちょっと手強くて……」
「なんだか大変みたいですね」
「今お父さんにも連絡を取っているけど、一体どうなるかはわからない」
柴崎塾長はため息をついたが、すぐに顔を上げてにやりと笑った。
「とりあえず、後は任せてくれ。一応カウンセラーの資格も持ってるんだ」
今日はもう帰っていいと柴崎塾長に促されて、佐野は遠慮なく塾を後にした。壮一の話を聞いた後で佐野の精神も疲弊していたが、佐野にはどうしてもひとつ気になることがあった。
「天使様、か……」
帰宅途中、スマホで「天使様 宗教」と検索したが、キリスト教の天使の解説が出てくるだけだった。「天使様 新興宗教 ヤバイ」と検索すると、ようやく該当しそうな情報が出てきた。
『天使の翼会』
ホームページの背景では、翼を生やした人がにこにこと笑って宙に浮いていた。
『救済の翼は、常にあなたの後ろに存在しています』
思わず佐野は後ろを振り返った。バス停で家に帰るだろう中高生たちがきゃあきゃあ騒いでいた。彼女たちの鞄にはもれなく翼を生やしたVtuberのキーホルダーがついていて、ゆらゆらと揺れていた。
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