私の息子

 塾の前に突然現れた壮一の母親は、壮一の腕を捕まえて嬉しそうに笑っていた。


「俺はもう帰らないよ、普通に高校に行くんだ」

「何を言っているの。前から翼の伝道師になるって言っていたじゃない」

「だからもう天使の家には行かないって言ったじゃないか」

「そんなこと天使様が許すはずがないでしょう?」


 塾の前で始まった言い争いに、同じ塾に通う生徒が柴崎塾長を呼びに行った。


「その天使様っていうのもやめろよ、恥ずかしいだろう!」

「何言ってるの、そうちゃんがあの人に洗脳されたんでしょう! なんて恥ずかしいことなの!?」


 壮一が母親から逃れようとしているところに、やっと柴崎塾長が間に入ることが出来た。


「なんなの、あなた」

「私、こちらの塾で壮一君の学力アップをお手伝いしている者です。野崎壮一君のお母様でいらっしゃいますか?」


 壮一は母親から離れると急いで柴崎塾長の後ろに回った。


「塾に通わせるなんて私聞いていなかったんで、急いで迎えに来たんです」

「それでは、本日の授業はこれからなので」

「いいえ、本日いっぱいで塾は辞めさせていただきます。今までご迷惑をおかけいたしました」


 壮一の母親は早口でまくしたて、逃げた壮一の腕を掴もうとする。明らかに怯えている壮一と母親の間に入って、柴崎塾長は慎重に言葉を選びながら母親を説得する。


「まあまあ、お母様。今私どもとしてはですね、壮一君をお父様からお預かりしている状態なんですよ。ですから、今後のことはまずお母様とお父様で話し合いになられまして」

「あの人が言うこと聞くわけないじゃない、私は壮一を連れていければいいんですよ。そうちゃん、行くわよ!」


 柴崎塾長の言葉を無視して、母親は壮一に手を伸ばす。


「い、行かないよ! どうしてもっていうなら塾長の言うとおりお父さんと話し合って! どうせ無理って言うから!」

「どうしてそんなに冷たいこと言うの!? そうちゃん、この人にも変なこと言われたんでしょう? はやく天使様のところに行かないと」

「だからその天使様をやめろよ!」


 塾の前には人だかりが出来てしまった。柴崎塾長が壮一の父親に連絡をとるか警察を呼ぶかどうか悩み始めたとき、塾の中から佐野が姿を現した。


「一体何の騒ぎですか?」


 壮一は佐野の姿を見るやいなや、柴崎塾長の陰から素早く佐野の後ろに回った。


「先生! 早く授業しましょう!!」


 壮一の母親は壮一に追いすがろうとしたが、大の男二人に阻まれてしまっては不利と悟ったのかそれ以上手を伸ばすことはなかった。


「まずはご家族でしっかり話し合われて、それからもう一度ご連絡頂いてよろしいですか? 出来れば次回は電話でお越しになる旨を先に頂きたいんですけれども」


 そう言って柴崎塾長は入り口に設置してあったパンフレットの棚から一部抜き出して、佐野に目配せをしてから壮一の母親に何やら説明を始めた。その隙に佐野は塾の中に壮一を避難させることができた。


「……まあ、今日は勉強するぞっていう気にもなれないだろう」


 他の生徒や講師たちに注目される中、佐野は壮一を講師休憩室へ連れて行った。少しでも人目につかないところに壮一を避難させるのが第一だと判断したからだった。まだ震えている壮一を座らせ、佐野は壮一の前に休憩室にあったクッキーを置いた。


「今日は特別だ。授業終わるまでここにいていいぞ」


 授業の前に、数人の講師が休憩室にやってきた。しかし先ほどの騒動を知っていたため、講師たちは二人に何も言わずその場を立ち去った。やがて授業が始まる時間になり、教室内のざわざわした空気はぴんと張り詰めたようだった。


 壮一は下を向いて、ずっと黙っていた。佐野はその肩が震えているのを見て、どう声をかければいいのかを考える。


「……大変そうだな、いろいろと」


 励まそうとしたつもりはなかった。とりあえず事実だけを確認して、野崎壮一という少年に何があったのかを探る必要があった。


「別に、いつものことだから」


 壮一はようやく、ぼそりと呟いた。


「いつもあんな感じか?」

「うん」


 絞り出すような返事に、佐野は壮一が相当追い詰められていることを悟った。そして、柴崎塾長の私物のコーヒーメイカーのスイッチを入れる。静かな休憩室に豆を挽く音が響き、香ばしい香りが広がった。


「飲むか」

「いいんですか」

「構わないよ。ブラックだけど」


 壮一はそっと頷いた。佐野は出来たコーヒーを使い捨てのカップに注いで、壮一の前に置いた。


「ブラック飲めるのか、大人だな」

「飲んだことないですけど」

「じゃ、初挑戦か」

「はい」


 壮一はコーヒーに手をつけなかった。佐野は壮一の対面に座って、熱いコーヒーをすすった。それから佐野のカップが半分になった頃、ようやく壮一が口を開いた。


「聞かないんですね、何があったのかって」

「言いたくないだろ。説明するのも面倒くさいし、どうせ俺の気持ちなんか誰もわかんねーって思ってるはずだ」


 すると、壮一は顔を上げた。その表情は佐野の予想と違って、晴れやかだった。


「すごいですね。どうしてわかるんですか?」

「どうせわかんねーもんほじくり返したって、時間のムダだろう? だったら、お茶でもして気分切り替えたほうが嫌なこと忘れられていいぞ。俺の主治医はいつもそう言ってた」

「佐野先生、病気してたんですよね」

「今でも病弱体質で通してるけどね」

「何の病気なんですか?」

「ここ」


 佐野は頭と腹をそれぞれ指さした。壮一は不思議そうな顔をしたが、佐野の様子からそれ以上の追求をしなかった。


「あれから、少しはマシになったと思ったんだけど」


 ようやく壮一の口から言葉が漏れた。


「俺の親、離婚してて今は父と一緒に暮らしてるんです。でも、それまで俺ずっと……宗教施設、で暮らしてたんです」


 壮一の声は震えていた。佐野はそれを聞き逃すまいと、顔をしっかり壮一に向けた。

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