第7話 母と息子
親の愛情
佐野からこれまでの話を聞いた茉莉は、もうひとり話を聞いておきたい人物がいたことを思い出した。その日、早い時間に塾に向かうと柴崎塾長がひとりで事務作業を行っていた。
「どうしたの、鳴海センセ?」
「塾長、その……お尋ねしたいことが……」
茉莉は柴崎塾長に佐野の過去を知ったことを告げ、彼と具体的にどういう関係なのかということを聞いた。
「そうか……出来れば黙っておこうと思ったんだけどね……そう言われたら、答えるしかないじゃない」
柴崎塾長は首から提げているIDカードを胸ポケットにしまった。それから柴崎は「この話、聞きたい?」と再度茉莉に尋ねた。茉莉が頷くのを見て、柴崎はパイプ椅子を広げて茉莉を座らせた。
「小学校からの友達だったんだよね、あいつの兄さんの佐野譲と」
茉莉の脳裏に、佐野から見せてもらった写真に写っていたもうひとりの少年が思い浮かんだ。
「小さい頃は僕も佐野家でよく遊んだんだ。美人で頭のいいお姉さんと、やっぱり頭のいい譲と、そして弟の祥悟。祥悟とは一緒にゲームやったり外で遊んだりしていた。高校は別になったけど、譲とはたまに連絡を取り合うくらいの仲だった。親同士も付き合いがあったから、あいつの姉さんが実家に帰ってきてるみたいだよなんて話も聞いていた。そんな時に、事件が起こったんだ」
「近所に住んでる僕らが知るよりもテレビの方が早く佐野家のことを報道してね。僕らが遊んだあの家の前に大きな血痕がついた映像が日本中に向かってばらまかれてるのが我慢できなかった。実感がわかないまま、僕の家族全員で通夜に向かったんだ」
「僕はあんなに悲しい通夜は多分この先にないって思ってる。譲の彼女が友達に支えられて大声で泣いていて、それが一番心に残ってる。他の人も、どうしてこんなにいい人たちがこんな死に方をしなくちゃいけないんだって怒ったり泣いたりして、みんなどうしたらいいかわからなかった。その時は犯人に対する怒りしかなくて、まだ譲にメールすれば普通に返ってくる気がしていた。そのくらい、突然のことだった」
「あと、参列した人たちはみんな祥悟の心配をしていた。その時はまだ意識不明って言われていたから、この後一体どうするんだろうって不憫がっていた。後であいつの叔父さんから祥悟が退院したって知らせを受けたけど『事件のことで酷く傷ついているから、そっとしておいてほしい』って添えてあって、僕はなんて無力なんだろうって思ったんだ」
「十五年経った今でも信じられない。あの譲が、あの佐野一家がどうしてあんな目に遭わなきゃいけないのかわからない。それから僕はどうしてあの事件が起きたのか、いろいろ調べた。ある程度事件のことを知っているなら、佐野一家に非がないことは知っていると思う。じゃあ、加害者はどんな奴だったのかって気になってね」
茉莉は事件の加害者の名前を知っていた。
「報道でもあったんだけど、白水飛鳥は父親によって相当酷い虐待を受けていたらしい。テストで百点が取れないと竹刀で叩かれたり、冬場に水風呂に投げ込まれたりしてたそうだ。そのたびに母親は庇ってたみたいなんだけど、あんまり話が上がらない。父親はすぐ自殺したけど、母親はどこかに姿をくらましてしまった。死刑になった息子を放り出して、一体どこに行ったんだろうな」
「それで、白水飛鳥もきちんとした親の愛情で育っていればこんな悲しい事件を起こさなかっただろうって思って、僕自身が何が出来るか考えてこの教育業界に入った」
茉莉は目を丸くする。例の事件によって人生を変えられた人が身近にいたことにともて驚いた。
「最初のうちは教育虐待で悲しむ子供を減らそうって使命に燃えていたけどさ、勤めているうちにわかったことがある。結局子供は親の所有物だ。パトロンがいないと塾は成り立たないし、余所の家庭の方針に口を出せるほど偉い人間はいない。児童相談所だってギリギリのラインで仕事しているんだ、こんな場末の塾の雇われ経営者が何を言っても無駄だよ」
茉莉は先日、柴崎から保護者と生徒の関わり合いについて話をされたことを思い出した。
「さて、暗い話はおしまい。冬休みに向けて今日は体験授業があるから準備しないと。鳴海センセも授業の予習、予習!」
柴崎は胸ポケットからIDカードを取り出すと、明るい声を出した。その時、茉莉は柴崎塾長の机のフックに揺れるアクリルキーホルダーを発見した。
「塾長、それ……」
「ああこれ、なんかもらってくれって押しつけられたよ。配るのが流行ってるみたいだね」
「誰に押しつけられたんですか?」
「ええと、
柴崎塾長から有力な情報を得て、茉莉は心の中で拳を固めた。この島村マナブのキーホルダーの謎を解かない限り、壮一の謎も解けない気がしていた。
***
その日、佐野は何事もなかったように塾に現れた。茉莉も普段通り授業の準備をして、生徒と授業に臨んだ。冬休み前の時期と言うこともあり、生徒とはクリスマスや正月の話で盛り上がった。
冬至に向かう季節は、日の入りが早かった。早くに訪れた夕暮れが迫る頃、塾の前に一人の女性が現れた。そして授業に現れた野崎壮一の手を後ろから素早く掴んだ。
「見つけたよ、そうちゃん!」
壮一は振り返って、その顔を大きく歪めた。
「なんで、ここにいる?」
「さあ、帰るよ。天使様も待っていらっしゃるんだから」
突然現れた壮一の母親は、とても穏やかな笑顔を浮かべていた。
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