親のため子のため
柴崎塾長から教育業界に携わる上での心構えのようなものを聞かされ、茉莉は授業前であるにも関わらず帰りたくなっていた。しかし、斉藤美奈子の指導報告書を見直すよう言われたことも心に残っていた。
ちょうど今日は、その美奈子の授業日だった。
「今日もよろしくお願いします」
「今日も頑張っていこうね、まずは先週のテストどうだった?」
他愛のない雑談をしながら、茉莉は美奈子の期末テストの見直しをして、間違えた部分をもう一度解き直すよう指示をする。その間に、こっそり過去の指導報告を改めて眺めた。毎回所見として講師が簡単に授業内容を書き記す欄があり、その下には保護者からの返信欄も設けられている。
***
『本日は不定詞の副詞的用法について解説と演習をしました。確認の小テストは5問中4問正解し、定着が見られます』
『ご指導感謝致します。不定詞、懐かしい響きですね。私も美奈子と共に青春時代を過ごしているようで嬉しい限りです。寒くなって参りましたが、先生もお体にお気をつけてください』
『本日は単語テストと不定詞の演習を行いました。単語テストは10問中9問正解で定着が見られます。不定詞の演習で副詞的用法を学習しました』
『ご指導感謝致します。副詞、名詞……難しいですね。学生時代勉強をしなかったツケが回ってきたかもしれません。先日より親子揃って風邪気味で、不摂生が祟っております』
『本日は期末テストの対策を行いました。不安のあった単語にも定着がみられます。季節の変わり目ですので、体調にはお気をつけてください。』
『ご指導感謝致します。期末テストに向けて毎晩遅くまで勉強をしなくてはいけないので、親としても頑張りどころですね! 二人三脚で、頑張っていきましょう!』
***
この返信欄を積極的に使用している保護者はあまりいなかった。たまに「来週の授業は振り替えお願いします」「今日は学校行事で疲れていると思います」などの連絡事項があるだけで、大抵の保護者は確認印を押しているだけだった。
何度か茉莉は所見とコメントを読み返し、柴崎塾長の言う「子供のことを考えない親」の痕跡を探した。
「……あ」
茉莉はようやく返信コメントの違和感に気がついて、ため息が漏れた。
「どうかしましたか?」
茉莉の変化に問題を解いている美奈子が顔を上げる。
「ううん、字を間違っていたのを見つけちゃったの。嫌ねえ」
美奈子は特に何も感じず、再度問題に向かった。その隣で、茉莉は気がついてしまった内容に気分が悪くなっていた。
美奈子の母と思われる筆跡のコメントには、美奈子本人の話題がほとんどなかった。まるで美奈子の母と茉莉個人の交換日記のほうになっている。
茉莉は美奈子の横顔を見る。美奈子は真面目で、どちらかと言えば優秀な生徒だ。よく手入れされた髪の毛に、皺のない制服。控えめだが優しい印象のある可愛らしい生徒だと、茉莉は思っていた。
その推測に茉莉の背中は粟立つ。一度面談で会ったことのある美奈子の母親は、白いコートを着ていてすらりとした美人で、ブランドのバッグを持って仕事の出来る女という印象だった。そして娘の美奈子も成績は優秀で茉莉としても教え甲斐のある生徒だと思っていた。
茉莉は、何故美奈子の母がこのようなコメントをわざわざ書くのか理解ができなかった。空欄でも全く構わない連絡欄に律儀に自分の心境を書いてよこす必要が全くないのに、一体どうしてこんなことをするのかといろいろ想像を膨らませる。
ひとつは、返信を必ずしなければならないと思い込んでいるというものだった。おそらく学校の手紙ひとつひとつにも「お世話になります。先生はお元気ですか?」という一文を添えなければいけないと脅迫的に思い込み、毎回捻り出しているのが例のコメントだという説が思い浮かぶ。
もうひとつは、SNSのように所見欄を捉えているというものだった。コメントにはコメントをしなければならない、とやはり脅迫的に捉えているためについ返信を書いているのかもしれないと茉莉は考える。おそらくいろんな写真に「素敵ですね!」「参考になりますね!」などいいねとコメントを送っているのではないかと茉莉は勝手に想像する。
結局、その日はコメントが気になりすぎてテストの復習だけというあまりぱっとしない授業になってしまった。帰り際、茉莉は美奈子の鞄にも島村マナブのキーホルダーがぶら下がっていることに気がついた。
「それ流行ってるね、みんなつけてるのを見るよ」
茉莉が声をかけると、美奈子はとても嬉しそうに話し始める。
「うん、すっごくためになるんだよ。鳴海先生もしまむ、好き?」
「うーん、まだちょっとショート動画見ただけだけどね」
生徒相手に「島村マナブはくだらない」という正直なところは述べられなかった。
「ショートじゃダメだよ、配信見ないと」
「配信動画がいいの?」
「いいよ、すっごくいい! うちはママも一緒に見てるよ」
そう言って、美奈子は鞄から同じキーホルダーを取り出した。
「先生にあげるよ。同じの、三つ持ってるんだ。私とママと、あと誰かにあげようと思って」
「私はいいよ。もう同じの持ってて、違う鞄につけてるから」
咄嗟に茉莉は嘘をついた。
「そうなんですね。それじゃあ、今度配信について語りましょう!」
とても嬉しそうに美奈子はそう言うと、キーホルダーを揺らしながら帰って行った。
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