胸糞悪い話

 茉莉は、退塾予定の和田美津香が本人の学力に合わない志望校であることに疑問をもっていないことに驚いた。


「志望校決められない生徒なんていっぱいいるよ。特に中学生なんて、まだ自分のことがよくわかっていないんだから、目的意識を持って志望校を選ぼうっていう生徒は上澄みだけだよ。ただ、彼女が選べないっていうのはまたちょっと違う理由がある」


 柴崎塾長は大きくため息をついた。


「志望校が選べないのは、一番多いので『高校とかよくわからないんで選んでください』って言われるパターン。その次は『僕の学力だとどこがいいですか』って聞かれるパターン。あとは、こういうパターン」


 茉莉は暗黙のうちに「親が勝手に志望校を決めて強制してくるパターン」であると認識した。

 

「大学受験だと難関大学とか医学部にはありがちな話だけど、こういうのは大学受験より低い年齢層の受験に多いかな。小学校受験なんて、本人の意識ゼロだからね。その認識で高校受験とか大学受験にも口を出してくると、結構、ね」


 茉莉は先ほど激高して出て行った美津香の父親と思われる人物を思い浮かべる。そしてカスタマーの意見が通らず思い通りにならなかったのだと思うと、先ほどのキレ具合と整合性がとれると思った。


「なんかね、あのお父さん自分が受けた教育を是非娘にもさせてやりたんだと。なんか高校の時に生徒会長だかなんだかをやって、それで校則を変える運動で頭髪の自由だか制服の自由だかを勝ち取ったとかで、それが今の自分に繋がっているからって話を長々とされてね」


 柴崎塾長はうんざりした顔で続ける。


「そういうわけで、他の高校じゃなくて優れている自分の母校じゃないと自分のように優れた人物にはならないんだってさ。そう娘に言っても成績は一向に伸びないし、塾へやってもやっぱり成績は上がらない。ここに来るまで中二の秋から四つ塾を回ったってね。うちで五つめ、だと」


 わずか一年ほどで五回も退塾を繰り返していたという話に、茉莉は頭がくらくらしてきた。


「せっかく最初は娘もやる気で頑張っているのに頑張るのは最初だけで、それどころかどこに行っても娘のことを考えろって説教されまくるしでムカつくからもう塾へは頼まないんだってさ。そこまで言うなら自分で面倒見ろよな」


 そう吐き捨てる柴崎塾長を見て、茉莉は彼が煎餅を踏みつけるに至った過程を知ったつもりになった。


「あの、それで当の美津香さんはどう思ってるんですか?」

「彼女も志望校は変えたくないんだってさ。滑り止めを受けるのも消極的だ」


 意外な答えに、茉莉はまたしても驚いた。


「え、でも美津香さんは自分の学力に合わない高校になんか行きたくないんじゃないですか?」

「ところがだね。彼女はもう十五年間もそういう父親のところで、そういう選択肢しか存在しないと教え込まれて育ってきているんだ。今更他の高校はどうですかって言われても聞く耳が育っていないよ。自縄自縛、って奴だ」


 柴崎塾長の言葉に、茉莉は身の毛がよだつような薄ら寒さを感じた。最善の選択肢が見えている上に案内もされているのに、自らを縛って悪くなるような道を突き進む美津香とその家族が不憫でならなかった。


「親に反抗するとか、そういう元気がある行為ができるのはある程度親と距離を保っていないといけない。でも、美津香さんの元気はないだろう? つまり、そういうことだ」


 茉莉は再度美津香の入塾テストを見る。薄くて消え入りそうな字が控えめに並んでいた。志望校を書く書面にある「将来の夢・なりたい職業」の欄にも小さく「未定」と書いてあった。茉莉の受け持っている生徒は大抵志望校を書いているか「金持ちになりたい」「アイドルでてっぺん目指す」など他愛のないことが書いてある。それだけに、茉莉はこの「未定」に衝撃を受けた。


「それじゃあ、美津香さんは……」

「彼女はもう、僕らの面倒見れるところにいないからね。心配しかないけど、手の届くところにいないし、いたとしても彼女をどうこうできる権限は僕らにないからね。一生彼女の面倒を見れるわけじゃないんだから」


 茉莉は破棄される予定の美津香のファイルを塾長席に置いた。そして、父親の言いなりにしかなれない美津香がとても気の毒になった。さらに視野が狭い父親も許しがたいと思ったが、彼も美津香と同じように自らを縛っていると思うと怒りよりも不憫さのほうが勝った。


「子供のことを考えない親なんていない、って思ってたんですけど……結構いるんですね」

「すごくいるよ、いっぱいいる。むしろ、子供のことを第一に考える親のほうが少ない。世の中うまくいっているように見えるのは、親と子の利害が一致しているだけだから。美奈子みなこさんのお母さんとか、すごいじゃない」


 柴崎塾長は、茉莉が担当している生徒の名前を挙げた。


「え、美奈子さんの保護者の方は毎回所見欄への返信が丁寧ですごいなって思ってたんですけど……」


 斉藤さいとう美奈子は茉莉が担当している生徒の中でも一番しっかりしていて優秀であると、茉莉は思っていた。


「それじゃあ遡って、後で美奈子さんの指導報告書を見てみなよ。それと……そろそろみんなが来る頃、かな」


 柴崎塾長が時計を示す。内緒話をするのは終わりという合図のようだった。


「よく言うけどさ、教育やるなら子供が好きですっていう動機は絶対長続きしないよ。子供が好きな人ほど、自分の無力さに打ちひしがれて病んでいく。思った以上にこういう胸糞悪い話ばかりだから、その辺自分はどうかしっかり考えた方がいいよ。特に何か出来ると思っているうちは、そのうち絶対病むから」


 柴崎塾長は茉莉に釘を刺した。


「塾長も、病んだんですか?」

「僕は病まないよ。顧客に手はかけるけど、情なんかかけないよ、もう二度とね。さて、コーヒーでも飲むか」


 そう言うと、柴崎塾長は立ち上がった。


「あとね、これは胸糞悪いおまけなんだけど」


 まだ何か酷い話があるのかと、茉莉は身構えた。


「美津香さんのお父さん、小学校の教頭先生なんだよね。学校ではものすごく生徒に優しい評判の先生なんだってさ」


 もう茉莉は驚かなかった。驚きはしなかったが、先ほどの柴崎塾長の瞬間的な怒りの方向がますます見えた気がして気分が少し悪くなった。


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