信頼関係と志望校
退塾する生徒に関して、茉莉は柴崎塾長から「これからの見識」という名目で仕事の愚痴を聞くことになった。
「まず、勉強が出来る子にはある共通点がある。ひとつは、元から何かしらに秀でたものを持っていること。もうひとつは、家庭が安定していること。最後は、好奇心が旺盛だということ」
柴崎塾長は指を三本立ててみせる。
「なんだか差別的ですね」
「仕方ないだろう、現実問題そうなってしまっているんだから」
茉莉はため息をつく。
「しかし、これも全部バランスでしかない。家庭が安定していても馬鹿な奴は馬鹿だし、最悪の家庭環境でも苦学の末大成する人だってたくさんいる」
「当たり前ですね」
「ただ、三つ目の好奇心に関しては才能と環境の安定がないとかなり育ちにくい。特に好奇心は本人の資質よりも周囲の理解や信頼関係がないと育ちにくいんだ」
「信頼関係、ですか……」
その言葉を茉莉は何度も聞いていた。教育は信頼関係が大事。これは大学でも学習塾でアルバイトを始めてからも繰り返されてきた。
「ものにしても知識にしても、欲しいと思うものを提供してくれる人が身近にいないとこういうのは育ちにくい。欲しいという要求に答えることが信頼関係を構築する第一歩、なんていう言い方もあったりするしな」
この辺りの話を茉莉は大学で学んでいた。泣けば乳をもらえる、「おなかすいた」と言えば食べ物をもらえる、楽しい話で一緒に笑うなど発達段階において適切な信頼関係を結ぶことが、その後の人生に影響を与えるという話を茉莉はよく覚えていた。
その例として「アマラとカマラ」という話が茉莉の中では印象的であった。インドでオオカミに育てられたという姉妹が後に保護されたが、人間らしい仕草をなかなか覚えられずにそのまま亡くなってしまったという衝撃的な話だった。この話の結論は「幼少期に適切な養育をされないと、その後言語習得などが著しく困難になる」というもので、他にも野生の動物に養育されていた子供の例や虐待によって監禁された例などが講義で取り上げられた。
そして発達心理学の教授が「実際のところ、アマラとカマラの姉妹には何らかの疾患があったのではないかという説や世話をしていた牧師が姉妹を見世物にして金をもらっていたという逸話があったりで、オオカミ少女の話はかなり悪質な作り話という説が濃厚だ。しかし、それがしばらく発達心理の例として今でも教科書なんかに載っていたりするから、人生何を信じればいいのかっていうのはわからないものだね」と話していたのも茉莉にとって衝撃であった。
面談ブースに置き去りになっていた美津香の生徒ファイルを柴崎塾長は持ってきて、茉莉に見せる。
「それを大前提として……美津香さんの家は親と子の信頼関係がまずできていない。これを見るかい?」
茉莉は美津香を直接担当したことはなかったが、美津香の担当から「ちょっとね」という話は聞いていた。入塾テスト、志望校、生活状況などの資料を見ながら茉莉は「信頼関係ができていない」という面を探る。
「えっと……入塾テストのほうは、基礎問題は正解していますけど応用問題や記述問題には一切手がつけられていないですね。その割に、高校はこの辺で一番偏差値の高い高校を志望しているって……待ってください、今何月ですか!?」
茉莉は美津香が受験生であることを思い出す。もう十二月だというのに、学力に見合った志望校を選べていないのは非常に問題であると茉莉は肝を冷やす。
「そこだよね。普通の受験生は遅くても夏休みくらいには現実的な目標を見つけていくものだけど、この家庭ではどうもそうではないらしい」
茉莉は生徒ファイルに挟まっている美津香の模試の成績を見る。入塾テストのように、基礎問題だけ解いてあって応用問題が手つかずの答案から出された結果は散々なものだった。美津香が行きたいと出してきた志望校を受験するには、最低でも答案を全部埋めるだけの実力が必要とされた。
「だから前の塾も、夏休み後の面談で『夏期講習で頑張らせたけどこれが精一杯だ、志望校のランクを下げた方がいい』って失礼なことを言ってきたから辞めたんだってさ」
柴崎塾長は両の手のひらを上に向けて「お手上げ」というポーズをとる。
「つまりそれって、美津香さんが辞めたくて辞めたわけではないってことですか?」
「お、鋭いね。あのふんわり可愛い美津香さんがそんな強情なこと言うわけないだろう?」
茉莉は美津香の姿を思い浮かべる。物静か、という言葉がぴったりで腰まで伸ばした長い髪に眼鏡をかけていて、どちらかというと痩せているタイプではなかった。あまり話をしたことはないが、おそらく声も大きい子ではないと茉莉は予想する。
「そもそも、その志望校って美津香さんの希望なんですか?」
「それがね、本人に聞いてもよくわからない。どこでもいいですとか、高校に合格すればいいとか、そんな感じ」
「自分の志望校がわからないなんてあるんですか!?」
茉莉は驚いた。これからの人生において大事な高校選びに関して他人事でいられる精神が、茉莉には全くわからなかった。
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