第4話 様々な生徒

退塾する生徒

 茉莉の勤務する個別指導塾の星翔せいしょうウィングでは、冬期講習のための保護者面談が行われていた。


 十一月の末から行われるこの面談で生徒の学力の現状が伝えられ、受験生は志望校についてより詳しく話をすることになる。特に問題がなければ現状の確認だけで終わるが、問題があると長引くのが保護者面談の辛いところでもある。


「だから、こんなに授業に通えるわけないだろう! 常識で考えろよ!」


 その日、また授業の準備のために茉莉が早く塾へ行くと面談ブースから罵声が聞こえてきた。


「お父様のお気持ちもよく理解できるのですが、やはりここは美津香みつかさんの将来について考えた最良の結果がこちらになるんです」

「うちの娘の将来を考えたら、どうしてこういう結果になるんだよ!」

「はっきり申し上げると、もしこちらの志望校を受験されるようでしたら、冬期講習ではこのくらい授業を受けてもらわないと最低限のラインに立つのも厳しいと担当講師とも確認しています」

「高い金払って中身のない授業を受けさせようとかいう魂胆じゃないだろうな?」

「いいえ、ここが最低限のラインであることは譲れません」


 保護者と思われる男性の罵声にも怯まず、柴崎塾長は淡々と面談を進めているようだった。


「お前な、俺を誰だと思ってそういう口をきいているんだ? しょせん拝金主義の勉強屋なんかに娘を預けようと思ったのが間違いだったんだ。こんなところに娘を置いておけるか!」


 啖呵を切る保護者であったが、柴崎塾長の声色は変わらなかった。


「そう仰るようでしたら、残念ですがどうぞ他の場所で娘さんの将来を考えたほうがよろしいかと。それと、志望校については娘さんともう少しお話されてはどうでしょうか」

「もういい! 話にならん! 今すぐ退会する!」

「承知しました。それでは退会手続きは後ほど封書で送付しますので、お気を付けてお帰りください」


 直後に、面談ブースから保護者の男性が怒りを露わに飛び出してきた。その後から出てきた柴崎塾長は真っ直ぐ退塾した保護者を見送って、入り口に立ち尽くしていた。しばらくして、我に返った柴崎塾長は自分の机まで戻ると未開封の煎餅を取り出した。


「おとといきやがれってんだクソが」


 低く呟いて煎餅を床に叩きつけ、その上から何度も何度も念入りに煎餅を踏みつける柴崎塾長を見て茉莉は絶句していた。


「……あ、鳴海センセいたのね」


 粉々になった煎餅の袋をゴミ箱に放り捨てて、柴崎塾長はようやく茉莉の存在にきがついたようだった。


「今のは、教育界隈あるあるだから気にしないで。人によっては暴飲暴食とかひとりカラオケとか、どっかのアニメみたいにぬいぐるみに八つ当たりとか普通にある世界だからさ」

「そんな世界なんですか!?」


 なんとなく揺らいではいたが、茉莉の中に漠然とあった「先生と生徒」というキラキラした世界が完全に崩壊した瞬間だった。


「もちろんだよ。見た目は子供を教え導くために清く正しく美しくキラキラしててやりがいがあって感動してドラマにもなって、人と人が支え合って人になってるんですこのバカチンがって言う世界だと思うじゃん? そんなものは、あるにはあるけどってくらいだ」


 柴崎塾長は自席につくと、大きくため息をついた。


「今のは典型的なムカつく事案だ。とてもわかりやすい、ムカつくまでにわかりやすいね」

「あ、あの。美津香ちゃん今月退塾って本当ですか?」


 茉莉は先ほどのやりとりを思い出す。話題の中心の和田わだ美津香は中三であるにも関わらず、二か月前にふらりと入塾した生徒だった。茉莉の担当ではなかったが、眼鏡をかけていてふわっと丸い印象の子だと茉莉は思っていた。


「本当だろうね。こうなることはわかっていたけど」

「わかっていたんですか?」

「他校から噂で聞いていたんだ、半年続かない子がふらふらしているから気をつけろって」

「それが美津香さんだっていうんですか?」

「うん、まあね。この業界広いようで意外と狭いんだよ」

「でも、辞めやすいってわかっていたらもう少し引き留めるとかできなかったんですか?」


 茉莉は首を傾げた。もし退塾しやすい生徒だとわかっていれば、事前に何か手を打った方がいいのではないかと考える。先ほどの面談内容では、どちらかというと柴崎塾長が保護者を煽って辞めさせたように茉莉には聞こえた。


 柴崎塾長は机の引き出しから別の煎餅を取り出して、一袋を茉莉の前に置く。


「よし、鳴海センセ。今からする話は僕が勝手にムカついたからする話だってことを覚えておいてね。愚痴みたいなものだから……最近、こういうの立て続けでね」


 そう前置きをすると、柴崎塾長は語り出した。


「まず、美津香さんの成績はとても悪かった。これ自体は別に悪いことじゃない。ちなみに、鳴海センセは成績が悪いことにどんな要因があると思う?」


 今まで大学で学んだことを試されているようで、茉莉は緊張する。


「えっと、まずは本人のやる気。そして学習障害や発達障害の有無、あとは環境ですかね……?」

「あとは?」

「後は……演習不足、とかですか?」


 小首を傾げる茉莉に、柴崎塾長は声を潜めるように呟く。


「僕の持論だと、七割が環境、三割が本人の問題ってところかな」

「環境って、そんなに大事ですか?」

「大事大事、めちゃくちゃ大事だよ。東大卒カップルと夜露死苦系カップルだったら、東大卒カップルの子供の方が絶対頭いいでしょ」

「環境っていうか、それって遺伝では」

「しーっ! あくまでも、これは僕の愚痴だからね」


 それから柴崎塾長は、机の上のミネラルウォーターを飲み干す。


「そもそも、勉強が出来るようになる環境って結構限られてくるんだ。興味あるかい?」


 茉莉はそのまま、柴崎塾長の愚痴に付き合うことになった。

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