最悪な運勢の持ち主
佐野の初めての授業が終わった。生徒たちが帰った後、柴崎塾長が佐野の後ろに立った。
「いいじゃない、佐野先生。これからもこの調子で頼むよ」
「先輩、いや塾長のおかげですよ」
柴崎塾長も、佐野を顔見知りというだけで採用したわけではなかった。一年遅れで通信制の高校を卒業して、偏差値の高い大学に入学したものの体調の悪化により退学。それから療養期間を経て現在に至っている履歴書を見て、講師としての資質はあると判断していた。
「それじゃ、次のコマこそお願いするよ」
「……例の子ですね」
佐野の次の授業は、例のクレームで担当が変更になった野崎壮一だった。一対二が原則の授業形式だったが、壮一の学習進度から塾長判断で彼は一対一の授業形式が取られていた。この日の佐野は壮一の授業が最後の仕事だった。
佐野が生徒ファイルを眺めていると、すぐに壮一が塾へやってきた。柴崎塾長に連れられて来た壮一は、心なしか震えているようだった。
「初めまして、野崎君。今日から君と勉強する佐野だ。よろしくな」
佐野は壮一を見て、内心震え上がった。しかし、そんな気配を出さずに佐野はひとまず壮一と打ち解けることを心がけることにした。
「……よろしくお願いします」
気概のない声で挨拶すると、壮一は席についた。猫背で、いかにも自信がなさそうな顔をしていると佐野は思った。
「それじゃあ前回の宿題から見ていくから出してもらっていい? 丸付けしている間にもう少し計算問題をやってみようか」
そう言って、茉莉から印刷してもらった計算プリントを壮一に解かせる。
「この小数点の割り算って奴は、数字の桁数が多くて書くのが大変だよな」
「……はい」
ぼそりと呟くように返事をする壮一に、佐野は近づきがたいものを感じた。初対面であるせいか壮一の警戒心を一心に浴びながら、佐野は茉莉から聞いた話と柴崎塾長から聞いた話を統合させていく。
『言っちゃなんだけどね、壮一君が鳴海センセNGになったのは鳴海センセが女の子だからなんだ』
佐野は予め、柴崎塾長から壮一について更に少し詳しい話を聞いていた。
『壮一君のご家庭、少し複雑でね。壮一君が小さい頃ご両親が離婚して、最近までお母さんが壮一君と暮らしていたらしいんだけど、逆教育虐待とかで急にお父さんと暮らすことになったらしい。それでお父さんが壮一君に勉強を教えようとしたんだけど、あまりにも出来なくて、これはプロの仕事に任せようって思ったらしくて』
ここまでは茉莉も似たようなことを言っていた。しかし、柴崎塾長の話には続きがあった。
『しかし、いつになっても壮一君の学力は上がらない。茉莉センセも一生懸命やっているのはわかるけど、どうにも壮一君はお母さんと暮らしていた頃の影響なのか、女の人を見下すことがあるのがわかってね。お父さんとしても悩んだけれども、男性講師に交代が可能であればお願いしたいってところだったんだ。他の講師も忙しいけど、なんとか要望に応えようと思っていたところに君が来てくれてラッキーだったよ』
佐野は計算問題を黙々と解く壮一を見て、この少年の背中に背負い込まれてしまった悪意を感じていた。何かと翻弄されてきた彼に何があったのかは今のところわからなかったが、きっと深い事情があるに違いないと佐野は強く思った。
***
授業後、話があるという佐野に誘われて茉莉は近くのコーヒーショップに場所を移した。
「どうするんですか、こんなところ生徒に見られたら」
「見られたら、どうなんだ?」
「次の授業で『鳴海先生って新しく入った佐野先生と付き合ってるんですか!?』って大盛り上がりですよ」
「面倒くせえな、ガキは」
佐野は苦笑いをする。
「大変なんですよ、教育者っていうのは」
「そうなんだろうな。でも、だからブラックだの薄給だの言われ続けるんだろう?」
佐野はブレンドコーヒーに砂糖を三本入れる。期間限定のマロンクリームティーを前に、茉莉は辺りを警戒する。
「とりあえず、手短に行くぞ。お前のその変な運勢、間違いなくあの野崎壮一のせいだ」
「野崎君のせいって……?」
「あいつな、かなりよくない運勢持ちだ。ひとことで言えば、他人を不幸にするためにいるとしか思えない」
もはや誹謗中傷としか思えない話に、茉莉は呆れる。
「でも、それじゃあ壮一君の周辺の人がみんな不幸になってないとおかしくないですか?」
「多分、いろんなところに影響が出ている。えーっと、野崎君の通ってる中学校は……っと」
佐野はスマホを操作して、ある画面を出すと茉莉に見せつける。
「中学の名前打ち込んだだけで、検索窓に『教員 逮捕』『教員 わいせつ』『教員 わいせつ 誰』って大量に出てくるな。そう言えば、まだ暑い頃そういう報道があったっけ」
佐野は凍り付いた茉莉の表情を見て、スマホをしまう。
「でも、ただの偶然……」
「偶然なものか。おそらく、塾の方もじわじわ悪い運勢に飲み込まれ始めてる。そしてそこそこ深く関わっているあんたが酷い目にあってるのが、その証拠だ」
茉莉は最近の塾長を思い出していた。クレーム対応に始まり、怒鳴り散らす保護者に頭を下げる場面を何度も見ていた。アルバイトを始めて日の浅い茉莉はそれが日常かと思っていたが、壮一のせいで塾の運勢が悪くなっている可能性に思い至り、少し背筋が寒くなった。
「ところで、その『運勢が見える』みたいなのって、一体何なんですか? なんか超能力なんですか?」
ここに来て、茉莉は今まで当たり前のように「運勢」という言葉を使う佐野を不思議に思った。自分の過去をピタリと言い当てられて半ば信じていたが、佐野が一体どんな力を持っているのかについては具体的な話を聞いていなかった。
「さてね。その時が来たら教えてやるよ」
「その時って何ですか!?」
「その時はその時さ。これで俺と壮一君に縁が出来て、無事にあんたとの縁が切れたらいいんだけれど、そうでなかった場合はって話だ」
それから佐野はさっさとコーヒーを飲み干すと、席を立ってしまった。
「安心しな、少しだけ悪い縁は切っておいた。これ以上悪いことは起きないはずだ」
茉莉が返す言葉に戸惑っているうちに、佐野は黒い薄手のコートを羽織る。
「その証拠に、生徒に見つからなかっただろう?」
それだけ告げると、佐野はさっさと店を後にした。ひとり残された茉莉は、マロンミルクティーを前に佐野の言葉をどこまで信じればいいのかわからなくなっていた。
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