授業開始

 その日の授業が始まった。個別指導塾なので、仕切られたブースにそれぞれの生徒がやってきて担当講師と授業を始めていく。受験勉強の一環として、成績が悪いことを気にした親からの要請で、習い事の延長として、個別指導塾は需要があった。


 茉莉が個別指導塾を選んだのは、集団塾よりもきめ細かいサポートがしたいと思ったからであった。集団の授業ではどうしても出来ない子を置いていかないと成立しないところがあり、そんな話を聞く度に茉莉は心を痛めていた。


 そうして初めて真剣に向き合った「個別指導塾」の生徒は茉莉に新鮮な驚きをたくさん与えてくれた。宿題はしない、テキストのページをめくらない、いつまでもお喋りをしたがる、授業中でも構わずスマホを取り出すなどやりたい放題であった。一対二の形式を基本とした塾であったため、一方に教えている間にもう一方が眠ってしまうということもあって塾長に助けを求めたこともあった。


 その中でも一番気を遣わなければならない壮一を担当する日は少し気が重く、胃が痛くなるような感覚があった。実は壮一の担当が佐野に変わったことで、茉莉は少し安心していた。


 今の時間、茉莉は中二女子二人と英語の授業をしていた。


「ねえ鳴海先生! 宿題忘れてきた!」

「それなら、今宿題のページをやってね。宿題をやってきてればこの時間が有効に使えるのよ」


 彼女は宿題をやってきたことがない。「忘れた」と言えば許される環境にいるのだろうと茉莉は推測していた。


「それが出来れば苦労しないよねー」


 今は苦労しないけれど後で苦労するよと茉莉は言いたかったが、脅しのような言葉は使うべきではないと声かけをするに止める。


「ほら、さっさと宿題始めて! あとこっちは単語テストもやるからね」


 茉莉がもう一人の女子生徒に指示を出すと、生徒はにやりと笑った。


「それは大丈夫! 昨日ちょっと勉強したし」

「本当かな?」

「本当だよー」


 彼女が何だかんだと言いつつ生き生きと学習していることに、茉莉は安堵していた。それからしばらく授業が進むと、宿題を忘れてきた方の集中力が途切れたようだった。


「ねむー、昨日しまむの切り貼り動画一気見しちゃったからねむー!」

「しまむ?」


 茉莉が尋ねると、女子生徒が二人揃って声をあげる。


「あー、鳴海先生知らない?」

島村しまむらマナブ、Vtuberだよ」

「誰かも言ってたね、流行ってるのかな?」


 生徒たちはよく好きなキャラクターや配信者の話をしてくる。茉莉は雑談の糸口としてなるべく彼らの話を聞こうとはしていたが、人の数だけ推しがいると思えるような現代において全てのキャラクターやアイドルを把握することは不可能だった。そこで茉莉は話を聞くだけ聞いて、その対象については深く触れないようにしていた。


 そんな茉莉の態度を見て、単語テストの生徒はカバンからスマホを取り出した。


「こらこら、スマホはしまって」

「ホーム見せるだけだからいいでしょ。これだよ、これ」


 生徒が見せてきた画面には、そのVtuberの立ち姿が浮かび上がっていた。青い髪に優しそうな顔、眼鏡に魔法使い風のローブを身に纏っている。最大の特徴は背中に背負っている白くて大きな翼だった。


「へえ、かっこいいね。何系のVtuberなの?」

「なんだろう。勉強系、テツガクっていうのかな?」


 生徒は嬉しそうに「島村マナブ」について話し始めた。世界の真理を知ってもらいたいと考える彼の理念は「一日一学いちにちいちがく」で、一日にひとつしか物事を学ばなくても三十日経てば三十個もの知識を手に入れることができるというものらしい。動画や配信では知るべきひとつの事柄について語っているそうで、生徒によるとどれもこれも引き込まれるとのことだった。


「さて、それでは一学いちがくのために来週も単語テストやりましょうか」

「えー、それとこれと話は分けようよ!」


 生徒は笑いながら授業に戻っていく。無駄な話をするとその分時間が足りなくなってしまうような気もするが、差し支えがない程度であればメリハリをつけて集中力を高める効果もある。生徒との雑談は度が過ぎない程度で推奨されていることであった。


 島村マナブ。


 茉莉はそのVtuberの名前を最近何度も聞いていた。ここ数か月のうちに爆発的に中高生の間に広がったような印象があり、流行とは怖いものだと茉莉は思った。どうせ流行のキャラクターなんてその時流行っているから推しているだけで、来年の今頃には違うキャラクターが皆の推しになっているのだろうと茉莉は考えていた。少なくとも、この時はそう思っていた。


***


 茉莉が順調に授業を進める一方で、佐野も授業を行っていた。佐野は壮一の他に四人の生徒を担当することになっていて、どの子も中学生でやんちゃ盛りの生徒たちだった。佐野は当たり障りなく部活の話をしたり学校の話をしたりしながら、テキストの答え合わせをしていた。


「佐野先生は高校どこだったんですか?」

「俺? 俺ねえ、ちゃんと高校行ってないんだよ」

「えー、高校行ってないのにジュクコーってできるの?」


 生徒の素朴な疑問に、佐野はさらりと答える。


「病気で通えなかったんだよな-。俺こう見えても病弱で、何度も入退院してるし」

「ウソ、見えない!」

「よく言われる。ほら、答え合わせするからテキスト寄越せ!」


 そう言って、佐野は無理矢理話を打ち切ろうとした。


「先生、入院って暇ですか?」


 それでも食いついてくる生徒に、佐野はため息をつく。


「暇じゃないよ。病気だからさ、暇な時間は全部苦しい時間だ。治療って痛いんだぞ。薬の副作用でずっと吐いてたりするしな」

「え、マジで重めの病気だったんですか?」

「ああ、死にかけたけど何とか助かった、かな」

「うわ、すげえ! かっけえ!」


 中学生たちは純粋な視線を佐野に投げかける。


「そうだな……すごいよな。こうやって生きてるだけでも奇跡だってよく言われるよ」


 それから佐野は何事もなく中学生たちを授業へ戻した。その様子を柴崎塾長がそっと見守っていた。

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